04
昼の時間が終わり、照明が絞られ始めた夕刻。あと一時間もすれば夜が訪れる。
帰宅した秋香が家の前で呼び止められたのは、そんな刻限だった。
「砂上さん。お疲れのところ悪いけど、ちょっとだけいいかしら」
深刻そうな表情で声をかけてきたのは、二軒隣に住む
日常的には挨拶を交わす程度、町内会の集まりでも特に親しく話すこともなく、ごく普通の近所付き合いをしている相手である。専業主婦の彼女は、今頃は夕飯の支度で忙しいだろうに、どういう風の吹き回しだろうか。
ただ、彼女の表情やにじみ出る雰囲気から、ただならぬ事態らしいというのはいやでも分かった。
「砂上さんのお宅に、十五歳くらいの男の子がいるでしょう。その子、弟さんではないのよね?」
「ええ、まあ」
外に出るなと言っていたのに、和樹は出てしまったようだ。家でじっとしているのは退屈で仕方がないだろうから気持ちは分かるが、まずは体を治すのを第一に考えてもらわねばならないのに。
「あの子、いつまで砂上さんのお宅に?」
ごく普通の近所付き合いしかしていないというのに、ずいぶんと踏み込んだことを聞いてくるものだと思った。秋香がわずかに眉間にしわを寄せると、恭子はごめんなさい、と謝った。
「本当は口出しするようなことじゃないって分かってるけど、あの子が地上から来たって言うから、わたし、怖くて……」
目の前に恭子がいなければ、秋香は思い切りしかめっ面をして、盛大にため息を吐いただろう。
「福森さんが怖がるような子じゃありませんから、大丈夫ですよ。彼は、仲間思いのいい子です」
秋香は眉間のしわを消して、にこやかな表情を無理矢理作った。
「でも、やっぱり心配は心配で……」
恭子は秋香を遠慮がちに見た。できることならすぐに追い出してほしい、とそのまなざしは語っている。
「大丈夫です。福森さんが心配するようなことは何もありませんから」
これ以上彼女と話をしたところで、恭子が安心して家に帰ることはないだろう。秋香は恭子が何か言おうとする前にさっと背を向けて、玄関のドアをくぐった。
中に入ってからのぞき穴をのぞくと、恭子があきらめたように自分の家へ帰っていくのが見えた。
あまりいい状況ではないようだ。
靴を脱いで上がったところで、和樹の声が聞こえないのに気付いた。恭子の様子を確かめるのに気を取られ、秋香もただいまと言っていない。
居間の扉を開けると、和樹はテーブルの前で何をするでもなく、膝を抱えてうずくまっていた。
「……おかえりなさい」
和樹の声は、体調が万全ではないにしても覇気がなかった。
「ただいま……」
朝は元気そうにしていた。昼はほんの少ししか顔を見なかったが、これほどではなかったはず。
外に出たときに、恭子に何か言われたのだろう。秋香にも不躾ではあったが、もっと遠慮ない言葉を浴びせられたのかもしれない。
それだけ、彼女は「地上から来た」という事実に対して怯えているのだ。
「これから夕飯の用意をするよ。食べながら、いろいろ話をしよう」
「手伝います」
「いいよ、座ってて」
立ち上がりかけた和樹は、素直にまた座った。
一時間ほどでできあがり、配膳は和樹にも手伝ってもらった。
炊き立ての白いご飯に、薄切りの豚肉を焼いて、キノコのあんをかけたもの、豆腐と根菜の味噌汁が、今晩のメニューだ。
「――何度も〈青滝〉と通信を試みたんだけど、返答は一度もなかったそうだ」
食べ始めてすぐ、秋香は口火を切った。食事時の話としてはふさわしくないが、和樹が今いちばん気がかりなことだし、話すという約束だったのだ。
「そうですか……」
ある程度予想していたのか、和樹は驚かず、過度にがっかりする様子もなかった。
「それで、今朝、捜索隊が結成されて四人が〈青滝〉に向かった。夕方になって、到着した彼らから第一報が来たんだけど――」
〈青滝〉から逃れてきて秋香に助けを求めた和樹に、さすがにさらりとは言えなかった。
「壊滅状態、ですか」
「……ああ、残念なことに。ただ、捜索隊は〈青滝〉の入り口部分しか見ていないから、深層部がどうなっているのかはまだ分からない。そこに、生存者がいる可能性はあるよ」
「空気浄化装置は無事だったんですか」
「いや、破壊されていたそうだよ。でも、予備や、緊急用の浄化装置は〈青滝〉にもあるでしょ?」
「あるはずです。でも、何日も保つかどうかは……」
「君だって、簡素な装備で何日も地上を生き延びた。きっと〈青滝〉で生き延びている人もいる。捜索隊の報告によると〈無剣〉はいなかったというから、無事な人はいるかもしれない」
「……〈青滝〉を脱出する前、一瞬だけど、〈無剣〉を見たんです。蜘蛛みたいな格好で、でも蜘蛛よりももっと脚の数が多くて、その脚で周りの機械を壊したり、人を蹴り飛ばしたりしていました」
『あれ』を見たのか、と秋香は息を呑んだ。
「あんなものに襲われて、生き延びられる人なんているのかなって……」
「いる。必ずいるよ」
いつの間にか箸が止まり、味噌汁の入った椀をじっと見つめていた和樹が、はっとして顔を上げる。
「わたしは〈無剣〉と遭遇して生き延びた人間の一人なんだ。他にも何人も、三区にはいるよ」
「そうだったんですか」
「〈青滝〉にもきっと生き延びている人はいる。そう信じよう」
「はい」
和樹を励ますための気休めだ。秋香は胸中で自分を罵った。
秋香は確かに〈無剣〉と遭遇して生き延びた。ただ、あのときは、〈無剣〉と戦う仲間がたくさんいたし、たくさんの武器があった。〈青滝〉とはおそらく状況が違う。辺境の小さな地下都市に、十分な戦力があるとは考えにくかった。
ただ、和樹もそれは薄々気付いているのだろう。秋香の気休めの言葉で表情が明るくなることはなかった。黙々と食べ物を口に運んでいる。
「……〈広咲〉で生きていくしかないですよね」
「それはまだ分からないよ。〈青滝〉の捜索は始まったばかりだ」
「誰かが生きていれば、もうとっくに〈広咲〉か〈一京〉になんとか連絡を取っているはずです」
「……悲観的になるのは、体にもよくないよ」
「空気浄化装置も壊れているのなら、生き残りがいたとしても〈青滝〉で暮らすのは難しいです。秋香さんの方が、それはよく分かっているんじゃないですか」
まっすぐに見つめてくる和樹を、秋香はじっと見返した。
和樹の言う通りだ。空調局の整備士である秋香はよく知っている。
空気浄化装置が壊れ、清浄に保たれていた〈青滝〉の内部は地上の大気で汚染された。小さな地下都市とはいえ、その中の空気すべてを浄化するには、時間も資材も資金もかなり必要となる。生き残った人々だけでまかなえるものではない。〈青滝〉を立て直すより、〈一京〉か〈広咲〉、あるいは他の地下都市へ行き、生活の再建を目指す方が遙かに現実的だった。ただし、故郷を捨てることになる。
「俺はここで暮らしていきます。他に行くところはないし、少しでも〈青滝〉に近いところにいたい。でも……」
「でも?」
「……保護の申請は通ったんですか」
「いや、まだ返事は来てない。数日内にはあると思うけど」
「下層は、俺みたいに、よその地下都市から来た人間を受け入れてくれますか」
「どうして、そんなことを訊くの」
「ごめんなさい。実は、勝手に外に出たんです。昨日も今日も。そのとき、男の子と会って、その子にどこから来たのか聞かれたから、よそから来たと答えたんですけど、それを知った男の子のお母さんが、うちの子に関わらないでって、ものすごい剣幕で――」
和樹が言う『お母さん』は、きっと福森恭子のことだ。彼女には息子がいて、確か名前は亮だったな、と秋香は思い出す。
「それが昨日のことです。今日も、ちょっとだけ外に出たんですけど、そのときはその男の子と、他にも何人か小さな子供たちがいて……。少ししたら彼らのお母さんが来て、昨日の人にまた、関わらないでって言われました。他のお母さんたちは、俺が外から来たと聞いた途端、なんだかすごく怯えた感じで俺を見たんです」
勝手な行動を叱るつもりでいたが、和樹の当時の状況を想像すると痛ましくなり、そんな気持ちは霧散していた。命辛々逃げてきて、肉親や仲間を一度に亡くしてただでさえ傷心しているのに、わけも分からず怯えられて、更に傷付いただろう。
「最上層は、〈無剣〉みたいな兵器に襲撃されたことがあって、外から来た俺を怖がってるのかと思ったんです。下層に行けばそういう人が少なくなるのなら、俺は下層へ行った方がいいのかなって……」
彼の予想通り、最上層では数年前にそういう事件があった。居住区に直接被害が及ぶことはなかったが、恐怖を覚えた住民は多い。そのせいで、今でも福森恭子のように見知らぬ者に対して怯え、警戒し、拒絶する。
そして、和樹の考えとは逆で、下層の方がより強く拒絶する。それゆえ保護の申請が通る見込みは低い。ただ、今それを和樹に言えば、少年はより傷付くかもしれない。
「君はここがいいんでしょ。だったら、ここにいればいいよ。ここで暮らせばいい」
「秋香さん」
「昨日も言ったけど、三区に残りたいのなら、この家で暮らせばいい。――いや、二人で暮らすとなるとちょっと手狭だから、引っ越しをしないといけないかな。でもまあ、とにかく、わたしが君の面倒を見るよ」
「でも、大変じゃないですか」
「和樹だって、暮らすとなると、まだ未成年なんだから後見人がいるよ。わたしがそれになる。なんだったら――」
この話はまだ当分先にしようかと思っていたが、今がいい機会かもしれない。
「わたしが親代わりになってもいい」
「え?」
「わたしはね、子供が産めないんだ。それに、親もきょうだいももう亡くしてて、家族がいない。子供が産めないから、家族もできない。その代わりと言ってはなんだけど、君と――和樹と家族になれたらいいな、と思うんだよ」
和樹は見るからに驚いていた。出会ってまだ数日の秋香に、家族にならないかと言われたのだから無理もない。秋香は苦笑した。
「もちろん、無理強いはしない。和樹がよければ、わたしを親の代わりと思ってくれればいいなっていう話だよ。和樹の母親にしては若すぎるかもしれないけど」
「秋香さん、あの……」
「和樹が嫌だと言ったからって、放り出したりしないから安心して。ここに残るのなら、整備士になるんだろう? 空調局はいつでも志望者を大歓迎だ」
「本当ですか?」
和樹の表情に、ようやく少しだけ明るさが戻る。
「体調がよくなったら、手続きを進めよう」
「秋香さん……あの、ありがとうございます」
突飛なことを言われたと思っているであろう少年は、はにかんでいた。
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