03

 和樹が目を覚ましたときには、朝食の用意をしているらしい物音が聞こえてきた。

 見られていたら寝づらくてしょうがない、と思ったはずなのに、眠りに落ちたのはすぐだった。おまけに目が覚めたのは秋香よりも遅い。助けられてから、彼女に甘えっぱなしだ。

「君はまだまだ体がよくなってないんだから、そんなの当たり前だし、気にしなくていいんだよ」

 テーブルを挟んで一緒に朝食をとりながら、秋香はあっさりと言った。それでも、寝たきりの重症患者ではないので、やらなくていいという秋香を押し切り、食後の食器洗いは和樹がやった。

「〈広咲〉を見て回りたいんです」

 食器洗いが終わった後、和樹は秋香に頼んだ。

「寝ているばかりだとよけいなことを考えてしまうから、いろいろと見て回る方が気が紛れていいかなって。それに、〈青滝〉とは規模が全然違うから、単純に好奇心もあって、せめて三区だけでいいから見てみたいです」

「まだ全快してないから、だめ」

「歩くくらいなら大丈夫ですよ」

「だめだめ。君が思ってるほど、体力はまだ戻ってないの。三区は広いから迷子になるかもしれないしね。それに、わたしはこれから仕事だから、案内してあげられない」

 書き物をする机に置かれていた情報端末を差し出された。

「これで映画とかドラマでも見てなさい。本を読んでてもいいし」

 秋香に迷惑をかけっぱなしなのだから、彼女にだめだと言われたらあきらめるしかない。和樹はおとなしく情報端末を受け取った。

「お昼には一度帰ってくるから。外へは出ないでね」

「家の近くでもだめですか」

「だめ。空気清浄機を動かしているから、家の中の方がまだ少しはましなの」

「……分かりました」

「ごめんね。窮屈だろうけど君のためだから我慢して。じゃ、行ってくるから」

「いってらっしゃい」

 鞄を抱え、秋香は慌ただしく家を出て行った。

 秋香がいなくなっただけで、家の中はしんと静かになる。耳を澄ませば、空気清浄機の動く音や外の風の音も聞こえる。だけど、人がいるのといないのとでは、感じる静けさが全然違った。和樹は父子家庭なので一人で家にいることにも慣れてはいたが、人気のない空間のわびしさを感じないわけではなかった。

 そして、秋香がいなくなった分の隙間に、様々な考えが滑り込んでくる。

〈青滝〉はどうなったのか。父は、はぐれた仲間たちは無事でいるか。最悪の事態になっていた場合、自分はどうしたらいいのか――。

 秋香に渡された端末の電源を入れた。何かをして気を紛らわせた方がいい。

 端末には、秋香が録画していたものやオンラインで購入したものなど、たくさんの映像作品や小説が入っていた。秋香の好みは幅広いようだ。タイトルをざっと眺めて、気になったものを選択する。

 端末を机の上に置くと、立体映像機能が起動して、端末の上に映画の世界が浮かび上がる。立体映画だ。

 主人公は地下都市を縦横無尽に駆け回っていろいろな騒動に巻き込まれるが、相棒である人型の人工知性と一緒にそれを切り抜ける、最初から最後まで明るい雰囲気の映画だった。

 次に選んだのは、恋愛を主題にした映画だった。主人公の女性は思い人に話しかけることさえ満足にできず、遠くから眺めたり友人に相談したりと、まどろっこしい。主人公のそんな態度に苛々するし退屈だと感じていた頃、秋香が帰ってきた。

「悪いけど、これ食べといて」

 秋香がテーブルの上に置いた袋に入っていたのは、どこかで買ってきた弁当だった。一人分しか入っていない。秋香はすぐにまた出かけようとしたので、和樹は慌てて玄関まで追いかけた。

「秋香さん、お昼は」

「職場で食べるから大丈夫。ちょっと立て込んでて、ごめんね」

 いってらっしゃいと言う暇もなく、秋香は慌ただしく出て行った。

〈青滝〉と連絡が取れたのかどうか知りたかったが、秋香が忙しくしているということは、何らかの動きがあったのかもしれない。夕方には帰ってくるだろうから、そのときに訊こう。

 昼食を終えた後は、先ほどの映画の続きを見る気にはならなかったので、別の映画を探した。今度は爽快なアクション映画で楽しめたが、こうも立て続けに立体映画を見ることは今までなかったので、目が疲れてきたし、映画を見るという行為に単純に飽きてしまった。

 端末の電源を落とし、和樹は床の上に仰向けになった。しばらく目をつぶってじっとしていたが、眠気はやって来ない。当然だ。夜はたっぷりと寝たし、起きてからもほとんど体を動かしていない。

 いつもであれば――〈青滝〉でいつもと変わらない、これからも変わらないと思っていた日常では、父についてあちこちの配管を見て回ったり、空調設備の修理に使う道具の手入れをしたりと、常に何かをしていた。父の手伝いがないときは、友人と遊び、他愛ない話で盛り上がっていた。

 和樹の年頃では、じっとして長く過ごすことの方が少ない。秋香は休めと言ったけれど、休むのにも案外気力がいるのではないかと思った。

 昼寝できそうにないとあきらめた和樹は、起き上がってベランダに出た。見える景色に変化はない。見かける人の数も昨日とそれほど変わりない。〈広咲〉の日常の光景が広がっていた。

 地下都市内部で大きな変化など起きるはずがない。地上と違って雨は降らず、日の出も日没もない。決められた時間に照明の光量が増し、やがて絞られて暗くなる。それで昼と夜が作り出されているが、まだ人類が地上で暮らしていた時代にあったような夕焼けなどはない。映像資料でしか和樹は見たことがなかった。

〈青滝〉を脱出して〈一京〉に向かっていたとき、夕焼けというものは見えなかったが、照明の変化ではない、本物の夜は経験した。黒いインクをこぼしたように真っ暗で、皆で身を寄せ合っていても寒かった。暗闇の奥からいつ何が飛び出してくるか分からず、恐ろしかった。あんなに心細くて恐怖に満ちた夜を過ごすくらいなら、たとえ家がなくても、地下にいる方が遙かにましだと思った。

 仲間は、勝手な行動を取った和樹を見限って先に進んだはずだ。彼らは〈一京〉にたどり着いただろうか。

 ――きっとたどり着けなかった。誰一人、〈一京〉の入り口さえ見ることなく、薄暗くて寒い地上で倒れてしまっている。

 考えまいとしていたが、おそらく無事な者はいないだろう。誰か一人でも〈一京〉にたどり着いていれば、和樹が話す前に、秋香は〈青滝〉襲撃の件を知っていたはずなのだ。

 和樹はベランダの手すりにもたれ掛かって、いつの間にか組んだ腕の間に顔を埋めていた。

 何もしていないと、すぐにこうしてよけいなことを考えてしまう。咳はだいぶ治まってきたし、体を動かしていた方が絶対にいい、と秋香に頼み込もう。

 部屋の中に戻ったが、次の映画を探す気になれなかった。小説を読む気分でもない。空想の世界には浸れそうにないし、少しでも体を動かして気を紛らわせたかった。

 秋香は家から出るのもだめだと言ったが、昨日も出たのだし、ちょっとくらいはいいだろう。忙しそうだった秋香がいきなり帰ってくることはないだろうから、黙っていればばれないはずだ。

 恩人の言いつけを破るという罪悪感を振り切って、和樹は玄関の扉を開けた。

 そこから見える光景も、昨日と変わりはなかった。照明は昼間を示す照度で、空調設備などの駆動音が通路に低く響いている。

 ただ、少しだけ違いはあった。通路の真ん中で遊んでいる子供たちがいる。彼らの元気な声は、駆動音を時折かき消すほどだ。すぐそばに公園があるが、今日の遊び場は通路と決めたのだろうか。子供たちは地面に落書きをして、陣取りをしているようだった。

「あ!」

 一人がこちらを向いて、甲高い声を上げた。亮だった。和樹に気付いた亮は、おにいちゃん、と嬉しそうに駆けてくる。

 和樹は慌てて周囲を見回した。亮の母親は見当たらず、胸をなで下ろす。そうしている間に、亮が和樹の足にまとわりついていた。

「おにいちゃん、いっしょに遊んで」

 昨日、母親が血相を変えて和樹から引き離したのに、亮は無邪気に彼の手を引っ張った。

 いいのだろうかと思ったが、母親に関わらないでと言われた理由が、和樹には今でも分からない。

〈広咲〉で過去に何があったのか、なかったのか。それはまだ秋香に聞いていない。〈青滝〉のこともあるのに、その上更に、気持ちが塞ぎそうな話を聞く気になれなかった。

 たとえ〈広咲〉で過去に何かが起きていたとしても、こんな小さな子に害を加える気などもちろんない。和樹は亮に笑みを返した。

 亮が駆け寄ったからなのか、他の子供たちも和樹に近付いてくる。〈広咲〉は〈青滝〉より広いとはいっても、子供たちの生活範囲は限られている。そこに現れた見知らぬ人間が珍しいのだろう。

「このおにいちゃん、だれ?」

 女の子の一人が亮に尋ねた。

「このおにいちゃんはね、お上から来たんだよ!」

 亮は得意げに胸を反らす。すると、子供たちは目を丸くして、口々にすごいとまくし立てた。

「あおたきっていうところから歩いてきたんだって」

 まるで自分のことのように自慢げに言う亮に、和樹は顔を綻ばせる。

「あおたきってどこにあるの? もっと上?」

「ちがうよ。上じゃなくて、ここから遠いところにある、別のまちだよ」

 亮より更に小さい子に、他の年かさの子が教える。

「別のまちってあるんだ!」

「お上はどうなってるの?」

 亮以外の子供たちも、わっと和樹に群がった。正面を確保していた亮が、和樹を見上げて言った。

「ママはね、おにいちゃんはお上から来た人だからあぶないって言ってたけど、そんなことないよね?」

 母親の言いつけをまるで聞いていない亮も亮だが、彼の母親が初対面の和樹をそれほど警戒するのは、やはり、外敵の襲撃を受けた過去があるということだろうか。しかし、こんな大都市に〈無剣〉のような兵器が侵入して、人々に恐怖を植え付けるほど暴れたとは信じがたい。あるいは、単純に、外部から来たというのがよくないのかもしれない。

「ママはどうしてそんなことを言っていたんだい?」

「んー、わかんない!」

 亮はすがすがしいほど元気に答えた。言われたけれど亮の耳を通り抜けてしまったのか、本当に聞いていないのか、判断できなかった。

「おにいちゃん、あぶない人なの?」

「いいや、違うよ」

「そうだよ、見ればわかるだろ!」

「ねえ、お上のことおしえてー」

「なんでお上から来たの」

 和樹に群がった子供たちは、それぞれに言いたいことを口にする。だれが何を言っているのか、いっぺんすぎて分からない。

「亮!」

 突然、金切り声が上がった。驚いた子供たちが一斉に口をつぐむ。

「ママ」

 亮の母親が走ってくる。昨日のように、あるいはそれ以上に血相を変えて。

 彼女の向こう側には、女性が数人いた。ここにいる子供たちと同じくらいいるから、彼らの母親かもしれない。

 亮の母の友人たちも、何事かとこちらに向かってくる。いち早くやってきた亮の母親は、むしり取るように息子を抱きかかえた。

「関わらないでと言ったでしょう!」

 まるで鬼でも見るかのような目で睨まれ、和樹はたじろいだ。

「みんな、その人から離れて!」

 ヒステリックな母親の声に、先ほどまで笑っていた亮が顔をゆがませ、泣き出しそうになっていた。

福森ふくもりさん。ちょっと、どうしたの?」

「何かあったの?」

 遅れてやって来た女性たちが、亮の母と和樹を見比べ、怪訝そうな表情になる。和樹に群がっていた子供たちは、現れた自分の母親にそれぞれ抱きついたり、だっこを求めていた。

「地上から来たのよ、この子は」

 亮の母親の言葉に、他の母親たちの表情がさっと変わった。自分の子供をしっかりと抱きしめ、あからさまに怯えた目を和樹に向ける母親もいた。

「本当に……?」

「本当よ。本人がそう言ったもの」

 棘のある声と視線が和樹に突き刺さる。和樹の方が、今度は後退りをしていた。

 警戒心と恐怖を剥き出しにしたいくつもの視線に耐えきれず、彼らに背を向けた。母親たちの剣幕に泣き出した子供の声が通路に響く。

 和樹は何もしていない。それなのにこれほど警戒されるのは――まさか、〈無剣〉と疑われているのだろうか。地上から来たという子供に化けて〈広咲〉に侵入した、と。

 あんな化け物と疑われるなんて、冗談ではない。馬鹿げている、と叫びたかった。俺は人間だ、と。

 だが、これ以上、この場にいるのに耐えられなかった。

 全力で逃げ出して、秋香の家に逃げ込んだ。

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