02

 下層に保護を求める申請を終えた秋香は、高山に断ってから帰宅した。帰る前に進捗を訊いたが、まださほど時間が経っていなかったので「通信をしている最中だ」という返事しかもらえなかった。

 自宅に戻った秋香は、玄関のドアを開けてふと気付いた。

「――ただいま」

 独り暮らしが長いから、無言で部屋に上がり込むのが常になっていた。ただいま、と口にするのはひどく久しぶりだ。和樹の返事はなかったのでちょっとがっかりしたが、仕方がない。少年にはそんな余裕すらない状況なのだ。

 和樹は窓の前に立って、外を眺めていた。居室に秋香が入ると、振り返ってから、おかえりなさい、と言う。声は小さく元気はなかった。

「体調はどう? 起きていて大丈夫なの?」

 テーブルの上をちらりと見ると、そこには何もなかった。昼食はすべて食べてくれただろうか。

「大丈夫です。お昼ご飯、ありがとうございました。おいしかったです」

 和樹がかすかに笑みを浮かべた。この少年が笑ったところを見たのはこれが初めてだから、秋香は安堵した。少しでも元気を取り戻してくれたのなら、嬉しい。

「口にあってよかった。喉や肺は痛くない?」

「おかげさまで、咳もだいぶ治まりました」

 と言ったそばから、和樹は咳き込んだ。遠慮して大丈夫と言っているようなので、まだあまり大丈夫ではないと見た方がいいようだ。

「咳が治るのには、もう少し時間がかかりそうだね」

「すみません……」

「気にしなくていいよ。ずいぶん長い間地上にいた割に状態はひどくないし、若いからすぐに治るよ」

 秋香は和樹に座るよう促した。テーブルを挟んで向かい合う。

「君から聞いた話を上司に報告して、〈青滝〉と通信するように頼んできた」

「ありがとうございます」

「お礼を言われるほどじゃないよ。実際に〈青滝〉と連絡をするのはわたしじゃないし、そのあとで捜索隊なり救援隊なりが組織されると思うけど、わたしはたぶんそこに組み込まれることはないし」

 どういう編成にするか、高山は既に考えているだろう。和樹を保護しているので、秋香はおそらく候補にすら入っていない。直接この目で〈青滝〉を見て、和樹に状況を伝えられたらよかったのだが、難しいだろう。

「〈青滝〉に行くのであれば、俺も一緒に行きたいです。道案内できます」

「気持ちは分かるけど、〈青滝〉はきっと危険な状況だから、君を行かすわけにはいかない。君はまだ喉や肺を痛めているしね。大丈夫、わたしたちに任せて」

「……分かりました。でも、俺にできることがあれば何でも言ってください。何もせずにいるより、何でもいいから役に立ちたいんです」

「君は、〈青滝〉の危機的な状況を命がけで伝えてくれた。そんなこと、なかなかできないよ。もう十分に役に立っているから、今は休養する方に専念してほしいな」

「分かりました。じゃあ、体調が戻ったら、お手伝いしたいです」

 何がなんでも手伝いたい、という気持ちが痛いほど伝わってくる。故郷やそこに住む仲間たちへの思いがそれだけ深いのだろう。

 地上で仲間たちとはぐれた状況も、一通り和樹から聞いている。自分より年下の者を助けられなかった自責の念が、少年を突き動かしているのかもしれない。

「……最上層は空気があまりきれいじゃない。体調を早く戻すのなら、よりきれいな空気のある下層へ行く方がいい」

 地上から遠ざかることを、この少年は果たして喜んで受け入れてくれるだろうか。

「そう思って、君を下層で保護してもらうための手続きもしてきたんだ。まだ、申請段階だけど」

「下層、ですか」

 和樹が首を傾げる。いまいちぴんときていないようだった。

〈青滝〉は〈広咲〉ほど深くないから、居住区は一つの層しかなかったのかもしれない。

「ここが最上層というのは言ったよね。〈広咲〉には、この下に三つの居住層があるんだ。最上層を含む上層、中層、最下層とある。最下層がいちばん広くて人口も多い。下の層ほど、通過する浄化装置の数が多くなるから空気はきれいなんだよ」

 住人の平均寿命にそれが如実に表れている、とは言わなかった。今は言う必要はあるまい。

「下層というのは最下層のことでね。大きな病院はあるし、空調局の本局もあるし、その他いろいろと集まっている。〈広咲〉の中枢だよ」

「俺は、その最下層に行かないといけないんですか」

「申請が通れば」

「俺はここの方がいいです。秋香さんに迷惑をかけるわけにはいかないので、どこか住む場所を探して、そこでも」

 和樹は、都市の深いところへ行ってしまえば、容易には地上近くへ戻ってこられないと考えているようだ。

「下層の方が、ここより環境がいい。治りも早いだろう。君の体のためには下へ行く方がいいと思うけど、君がここがいいと言うのなら、もちろんそれは考慮するよ」

 和樹の希望に関係なく、考えなければならないことだった。高山も言っていたが、申請はおそらく通らない。ただそれを和樹に伝えるつもりはなかった。申請が通らない理由を彼に言えば、いわれなき疑惑にきっと傷付く。

「そのときは、遠慮することはないから、うちにいればいいよ。ちょっと窮屈かもしれないけど、話し相手がいると思って」

「でも……」

「助けたのも何かの縁だよ。それにね、君くらいの歳で、知らない場所で住むところを探すのは、いくらなんでも難しい。まだ学校へ行っている歳でしょ。教育もちゃんと受けなきゃ」

「義務課程はほとんど終わってます」

「そうなの?」

「はい。だから〈青滝〉の状況が分かれば、そっちに戻りたいです」

 いつまでもいるつもりはない、というわけだ。それはもっともである。ただ、〈青滝〉の状況はあまりよくない。

「それまでの間、俺は別に道ばたでもどこでも」

「だめだめ。言っちゃなんだけど、このあたりはあまり治安がいいとは言えないんだ。外で寝てたら危ないよ」

 地下なので雨の心配はない(たまに水道管や排水管からの漏洩はあるが)。また、極端に冷え込んだり、暑すぎたりすることもない。家のない人はどこの層にもいるが、いい暮らしであるとは言いがたかった。

 最上層にいるのは、秋香のように仕事のために下から上がってきた人々、先祖代々最上層で暮らしている人々、そして、何らかの事情で下の層にいられなくなって最上層にやって来た人々である。事情は人それぞれだが、罪を犯して逃げてきた者も存在する。

「まだ喉や肺は治っていないんだし、最上層に残りたいのなら、うちにいればいいよ。遠慮することはない」

「……ありがとうございます。俺、元気になったら、秋香さんの仕事を手伝いたいです」

「手伝うって?」

「最近、父さんの仕事を手伝い始めたんです。俺も空調局の整備士になりたいから。だから、できることはあんまりないかもしれないけど、雑用でもなんでもやります」

 ただで居候するわけにはいかない、と思っているのだろう。少しでも先のことを考えて希望を見いだすことが、今の彼には必要かもしれない、と秋香は思った。

「分かった、考えておくよ。でも体を治すのが先決。そうじゃないと、何もできないからね」

「はい」

 安心材料を見つけられたからなのか、和樹は笑顔を見せた。

 その日の夜、寝る場所を巡って一悶着(というほどでもないが)があった。家主を差し置いてこれ以上ベッドを占領するわけにはいかない、と和樹が言い張ったのである。しかし、秋香は退かなかった。ソファで十分だという和樹を、無理矢理ベッドに押し込めた。

「外で寝ると言ってるわけじゃないんだから、床でもいいのに……」

 顎の下まで掛け布団をかぶらされた和樹は、壁の方を向いてなおもぶつくさと言っていた。

「体調を治すという約束だからね」

「そんな約束、しましたっけ?」

「いいから、おとなしくさっさと寝なさい!」

「見られていると、寝づらいんですけど……」

 秋香はベッドの脇に椅子を置いて、腕を組んで座っていた。

「薬も飲んだんだし、目をつむればすぐ眠くなるって。ほらほら、おやすみ」

「……おやすみなさい」

 せかされて目を閉じた和樹は、口では寝づらいと言っていたものの、しばらくすると静かに寝息を立て始めた。

 秋香は腕をほどいて、息を吐いた。

 下層が和樹の保護を拒否しても、彼はさほど気にとめないだろう。しかし、確定はしていないが〈青滝〉が壊滅状態だと知ったら、どうなるだろう。今は気丈にふるまい、目先ではあるが、今後のことを考える余裕はある。

 あるいは、本当は和樹も、〈青滝〉がほぼ絶望的なのは分かっているのかもしれない。それを口にするのが怖いから言わないだけで。

〈青滝〉に戻れないとなれば、和樹はここで生きていくしかない。偶然とはいえ〈広咲〉に来た以上、今から他都市への移住は難しい。

 最上層の方がいいと言ってくれたのは、ここで生きている秋香にとって嬉しい判断だった。

 ただ、懸念はある。下層と同じように、最上層――特にこの三区は、部外者に温かくない。下層以上の拒絶反応を示す可能性は十分にあった。

 和樹は整備士になりたいと言っていた。整備士としてここで暮らしていれば、危険な存在ではないと皆に分かってもらえ、やがて受け入れられるだろう。

 ふと、思い付いた。

 このまま、和樹の体調が治ってからもずっと、秋香が彼の面倒を見てはどうだろうか。和樹はまだ保護者が必要な年頃だし、秋香と一緒に暮らしているとなれば、周囲の人も、より早く和樹に対する警戒心を解くに違いない。

 秋香が和樹の親代わりになる。悪くない考えに思えた。

 最上層近くの住人の寿命が下層の人々より短い原因は、汚染された大気にある。下層に比べて汚染度の高い空気には、隕石の衝突や火山性ガスに起因する有害物質の他に、人為的に放出された分子機械も含まれている。〈無剣〉のような分子機械の集合体ではなく、目に見えない大きさのものだ。知らないうちに体内に入り込み、人体に悪影響を及ぼす。

 混乱期、世界中で、主に人体を攻撃することを目的として、様々な分子機械がばらまかれた。地下都市建設に適した土地を確保するため、世界中で争いが起きていたのだ。

 中には汚染された大気の浄化を目的とする分子機械もあったが、人体への影響を十分に確認しないまま散布されたものも少なくない。

 これらの分子機械も浄化装置で除去しているが、その能力は完璧ではない。除去しきれなかった分が最上層に流れ込み、秋香たちはそれを日常的に吸い込んでいる。その影響は、既に彼女の体に表れていた。

 秋香は子供を作れない。十代のうちは正常だった生殖器官に異常が発生し、精子を受精できなくなったのだ。それが判明したのは七年前、二十二歳のときだった。

 最上層に暮らす女性に時々見られる症状だが、秋香のように二十代前半で発症するのは珍しかった。治療法はなく、自分の血を引く子供を作るのはあきらめるしかなかった。

 しかし、子供を産めなくても、育てることはできる。和樹を自分の子供というには少々大きいが、なることはないと思っていた人の親に、なれるかもしれない。

 もちろん、和樹が嫌だと言えばそれまでだ。そのときは、彼の後見人になればいい。

 なかなか悪くないな、と秋香は口元を緩めた。

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