04

 食事を終えると、和樹は食器を持って台所へ行った。勝手に触ってもいいだろうかと躊躇したが、すぐに振り切る。食器を洗うくらいはいいだろう。秋香には世話になりっぱなしだから、せめてそれくらいはしておきたい。それに、何かしていなければ手持ちぶさたで、よけいなことばかり考えてしまう。

 しかし、食器洗いはすぐに終わってしまった。秋香が調理に使って洗っていなかったものは、フライパンと鍋くらいしかなく、それらを洗って居間へ戻った。そのときになって、窓のカーテンが閉じていることに気が付く。

〈広咲〉はどういう都市なのか。好奇心が一気に芽生える。巨大だとは聞いている。では、食材の種類以外に、〈青滝〉と比べてどれほど違うのだろうか。

 そっとカーテンを開けた。そして、思わず声を漏らす。

 窓から見えたのは、巨大な吹き抜けだった。長方形で、窓から見える限りでは、上に三階分、下には四階分まであるのが分かる。吹き抜けの周辺は通路だったりベランダだったりするようだ。見える範囲の窓に人影はないが、通路にはベンチが置いてあるところもあって、そこに座っている人、歩いている人がいる。この部屋の向かい側には、玄関らしきドアが並んでいた。

 ここは住宅が集まっている一角なのだろう。吹き抜けのあちこちや壁には照明がついていた。暖かみのある色で、今は昼だと教えてくれる。

 地下都市では、一日の時間の経過に伴って照明の明るさが変化する。夕方になればほんのり赤みを帯び、夜になると限られた数の、光量を絞った照明が点灯するのみだ。太陽光がまったくない地下都市で、時の流れを感じるためにあえてそうしているのだ。これは、どこの地下都市でも同じだという。

 窓の外にはベランダがあった。和樹はそこに出て、ベランダから身を乗り出すように周囲を見回した。

 吹き抜けの天井はドーム状で青く塗られ、ところどころにちぎった綿のような白い模様がある。中心にはひときわ強く白く輝いている照明があった。太陽を模しているのだ。青は空、白は雲。現在ではお目にかかれない、地上の「青空」である。

 底の方は広場になっていた。真ん中には本物らしき植物が生えている円形の花壇が見える。人が様々な方向から現れては通り過ぎていく。屋台を出して商売をしている人もいた。ほとんどの人は歩いているが、自転車やバイクが通り過ぎていくこともあった。よく耳を澄ませると、空調機のものとは違う、エンジンの駆動音も時々聞こえる。都市内を走る車もあるのだろう。

〈青滝〉では、乗り物を使って移動することなどほとんどなかった。広くないからだ。いや、全体の構造は広いが、生活する範囲は狭く、歩いて移動すれば十分だったのだ。住宅街にしても、こんなにたくさんの階層はなかった。

 ここは最上層だと秋香は言っていたが、〈青滝〉で最上層と呼ばれていたのは最上の二階分だけで、そこに居住区画はなかった。居住区は三階から下だ。しかしそれも、四階分しかない。七階から下は工場や農場などになっていた。

〈広咲〉は本当に巨大な地下都市なのだ。〈青滝〉のすべては、きっと〈広咲〉の最上層と同じくらいしかないのだろう。それでこの規模なら、下にどれほどの都市が、どんな深さにまで存在しているのか、和樹には見当も付かなかった。きっと横にも広いに違いない。

 しばらくは、何もかもを忘れて目の前の光景に見とれていた。やがて、他のところはどうなっているのだろう、という興味が湧いてくるのを止められなかった。

 部屋に戻り、玄関へ向かう。秋香は鍵を預けてくれなかった。さすがに見ず知らずの和樹に預けるわけにはいかないと思った、というよりは、外へ行かせないためだったのではないだろうか。

 まだほんの少しの時間しか彼女と話をしていないが、秋香ならば、和樹が今すぐ外へ行きたいと言っても、許してくれなさそうだと思った。

 しかし、玄関から少し出るくらいならばいいのではないだろうか。玄関が見えていれば、鍵をかけずとも不用心にはならないはずだ。もしもめまいなど起こして倒れそうになっても、すぐに戻れる。

 玄関には和樹の靴がきれいに揃えて置いてあった。足になじんだ靴を履くと、少しほっとした。

 外は、広い通路になっていた。玄関の向かい側は壁が続いている。窓もドアもほとんど見当たらないから、壁の向こうは住宅ではないようだ。天井は室内より高く、通路の幅がたっぷりとあるので、狭苦しい感じはない。

 ドアを出て左手を見ると二、三十メートルほど先に公園があった。通路の幅いっぱいで、通路の一部が公園になっているようだ。滑り台とブランコというささやかな遊具がある。

 秋香の部屋にあったデジタル時計は、平日を示していた。子供はまだ学校へ行っている時間だ。遊んでいるのは、まだ就学前、五歳くらいの男の子一人だけだった。

 昼間で働きに出ている人が多いからなのか、通路には人気がない。吹き抜けの方は人の姿があったから、こちらは裏通りなのだろう。

 吸い寄せられるように公園に向かった。

 明るい茶色のタイルを敷き詰めた床が、緑色の芝生に変わる。本物だった。公園の境界には和樹の膝に届くくらいの植え込みがある。これも本物の植物だ。通路の天井には等間隔に照明が並んでいる。公園の上は数が多く、ひときわ明るい。

 和樹は植え込みの葉を摘んだ。厚みのある葉っぱはしっとりとして、わずかに冷たかった。作り物の乾いた感触とは違う。足下の芝生も同じだった。よく見ると、雑草がところどころに生えている。

〈青滝〉にも公園はあるが、ここまできれいなところは少ない。大抵は照明不足で植物に元気がなく、芝生は枯れた部分の方が目に付いた。人工植物で緑を補おうとしていたが、古びたそれはくすんだ緑色で、むしろみすぼらしさを引き立てていた。

 何もかもが〈青滝〉と違う。

 公園を通り抜け、もっと先の方を見てみたかった。だが、さすがに秋香の家から離れすぎてしまう。

 秋香に頼めば、案内してくれるだろうか。いや、そんなのんきなことを考えている場合ではない。〈青滝〉に戻らなければ――。

 ふと、気配を感じた。ブランコで遊んでいた男の子が、いつの間にかすぐそばまで近寄ってきていた。丸い目を輝かせ、和樹を見上げている。

「……こんにちは」

「こんにちは!」

 返ってきたのは元気な挨拶だった。

 獣に奪われた子は、この子と同じ年頃だった。やはり元気に挨拶をする子だったと思い出して、胸が鋭く痛む。

「おにいちゃん、だれ?」

 人見知りをしない子らしい。和樹はしゃがんで、男の子と目線の高さを合わせた。

「秋香おねえちゃんのおとうと?」

 男の子は首を傾げる。和樹が秋香の家から出てくるところを見ていたようだ。この公園で遊んでいるし、近所に住んでいるのだろう。

「違うよ」

「じゃあどうして、秋香おねえちゃんのおうちから出てきたの?」

 小さな子に、和樹がここにいる事情をどうやって説明したらいいだろう。和樹はしばし考えてから、口を開いた。

「おにいちゃんは、地上を歩いて倒れてしまったんだ。それを、秋香おねえちゃんが助けてくれたんだよ」

「おにいちゃんは、おうえにいたの?」

 男の子は目を丸くして、興奮気味に言った。こんな小さな子では、地上に出たことなどないはずだ。もっとも、大人であっても地下から出る人間は限られているし、出たがる者は少ない。

「おにいちゃんは〈青滝〉という街にいたんだ。そこから歩いて〈広(こ)咲(こ)〉まで来たんだよ」

「ほんと!? すごい!」

 地上がどんなに危険な場所か、これくらい小さな子供は、まだよく分かっていない。地下都市という限られた空間ではなく、果てしなく広がる世界に漠然とした憧れを抱く子供も多い。和樹にも覚えがあった。

「ねえねえ、お上はどんなところなの? とても広いってほんとう?」

 男の子は好奇心を満たす絶好の機会を逃がすまいと、和樹の袖をしっかりと掴む。

 和樹は困ってしまい、苦笑いを浮かべた。地上は薄暗くて寒くて、死と隣り合わせの世界だ。しかし、そう言ってもこの子は容易には信じないだろう。地下にはない、何かきらきらとしたものがあるのではないか。そう思い描いているに違いない。

「ねえ、どんなところ?」

「そうだなあ。とても広いよ」

「やっぱりそうなんだ!」

 顔を輝かせ、男の子が歓声を上げる。

とおるー?」

 遠くから、女性の声が聞こえた。男の子がぴょんと跳ねて、声のした方を向く。和樹も同じ方向を見やった。

 通路に、一人の女性がいた。

「ママー!」

 彼女に向かって男の子が大きく手を振る。亮の母は、息子に気付いてやってくる。秋香より何歳か若そうな人だった。

 息子のそばにいる和樹の姿に気付いた彼女は、不思議そうな顔をする。

 和樹は立ち上がって、会釈した。亮の母親は、遠慮がちに小さく頭を下げる。亮は母親に駆け寄り、まとわりつくように飛びついた。

「あのね、ママ。あのおにいちゃん、お上から来たんだって!」

「上? 地上から?」

 母親は亮を見て、それから和樹を見る。その表情は明らかにこわばっていた。

 初対面とはいえ、彼女に比べればずっと年下の和樹に向けるにしては不穏な表情だった。〈広咲〉の人は、もしかして部外者をあまり好ましく思わないのだろうか。

「……〈青滝〉から来ました」

「あるいてきたんだって。すごいでしょ、ママ!」

 まるで自分のことのように亮は言ったが、母親の表情はますます険しくなる。

「ママ?」

 息子を抱き上げてしっかりと抱きしめ、彼女は数歩、後退りをした。

「あの……」

 まさかそんな反応が返ってくるとは思わなかった。思わず声をかけたものの、何を言えばいいのか分からず、言葉に詰まる。

「近付かないで!」

 先手を打つように、母親が声を高くする。

「この子にこれ以上構わないで!」

 母親の様子が尋常ではないことにようやく気付いた亮が、戸惑った表情を浮かべる。助けを求めるように和樹に目を向けたが、母親が亮を腕に抱いたまま、和樹に背を向けた。

「二度と関わらないで!」

 逃げるように駆け出して、秋香の二軒隣の玄関に飛び込んだ。

 和樹は呆気に取られ、亮とその母親が家に入るのを見ていた。

〈広咲〉では部外者を好まないのは間違いない。ただ、それにしては、亮の母親の表情が引っかかった。彼女は警戒心を露わにしながら、その表情には恐怖や怯えも混じっているように見えた。

 だけど、いったい何に怯えているのだろう。和樹はまだ十四だ。特段に体格がいいわけではないし、背が高いわけでもない。どこにでもいる、ごく普通の十四歳である。

 秋香はあんなに親切にしてくれたのに。

 和樹と話をしている間、秋香の表情が変わったのは、なぜ地上にいたのかと聞いたときだけだった。そのときでも、秋香は怯えた表情は浮かべてはいなかった。

 誰かにあんなに怯えられたことはない。自分の何が亮の母親を怖がらせたのか、まるで見当が付かなかった。

 怯えた目で見られ、少なからず気が滅入った。

 最近よく見ていたまなざしに似ている。

〈青滝〉が襲撃されたあのときの多くの住民が、地上に出て共に歩いていた仲間たちが、あんな目をしていた。

 まさか――と和樹は一つの可能性に気付いた。

〈広咲〉みたいに大きな地下都市でも、外的の襲撃を受けたばかりなのだろうか。

 しかし、秋香はそんなことは一言も口にしなかったし、吹き抜けから見た光景は平和そうだった。通路や公園にしても、きちんと整備されていてきれいだった。非常事態中とはとても思えない。まして、最近起きた様子でもない。仮に襲撃を受けたとしても、亮の言動からすると、あの子が生まれる前ではないのだろうか。

 それでも人々の記憶にこびりつくほどのことが、〈広咲〉では起きたのか。

〈青滝〉は、今でこそ細々とながら他の都市と繋がっているが、元々は、〈広咲〉や〈一京〉のような大都市での生活に膿んだ人々が集まってできあがった都市だ。〈青滝〉を訪れる者を拒みはしないが、自分たちから積極的によそに関わろうとはしない。そのため、他都市の状況についても関心は低かった。和樹も、〈広咲〉や〈一京〉は大きな地下都市だと知っていても、それ以上のことはほとんど知らなかったし、知ろうともしなかった。

 だから、〈広咲〉で過去に何が起きたのかも、まったく分からなかった。

 他の都市に無関心な〈青滝〉の子供が、襲撃を経験したことがあるかもしれない〈広咲〉に助けを求めて、果たして手を差し伸べてくれるのだろうか。

 いや、と頭を振る。秋香は和樹を助けてくれたし、事情を聞いてすぐさま動いてくれた。

 亮の母親のまなざしは悲しかったが、今は秋香を信じよう。

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