03

 まな板で何かを切っているような音が聞こえた。一定のリズムで包丁とまな板がぶつかり合っている。すぐに音はやみ、また別のリズムが聞こえてくる。合間には水を使う音。

 死と隣り合わせの灰色の世界には似つかわしくない、家庭的な響きだった。和樹の家ではあまり耳にしない音だ。父と和樹で交互に料理をしていたが、食事はレトルトが多かった。二人して料理が苦手だからではなく、〈青滝〉で生産できる生鮮食品には限りがあり、代用食や加工品を主に使っていたからだ。

 音に誘われるように瞼を押し上げた。見覚えのない、しかし、どこにでもあるような白い天井があった。

 和樹はベッドに寝かされていた。首を少しだけ起こし、周囲を見回す。病院を思い起こさせるベッドではなかった。薄手の掛け布団は淡い緑色のカバーが掛けられている。本や雑貨の収まった背の高い棚があり、その横には小さな机と椅子がある。

 病院ではなく、誰かの部屋らしい。

 照明は落とされていたが、部屋の隅にある引き戸の曇りガラス越しに、隣の部屋の明かりがぼんやりと届いている。あの戸の向こうが台所なのだろう。

 ついさっきまで和樹は死にかけていた。死の気配漂う地上とかけ離れたこの状況は、もしかして死後の世界なのだろうか。それにしては、生活感にあふれているが。

 上体を起こそうとした拍子に、肺の奥からせり上がってくるように咳が出た。咳をするたび、全身のあちこちが鈍く痛んだ。

 和樹は、自分がマスクをしていないことにようやく気が付いた。ここは地上ではない。どこか分からないが、少なくとも、汚染された大気ではなく、浄化された空気のある場所だ。

 堰を切ったように咳を繰り返していると、引き戸が開いた。現れたのは見知らぬ女性だった。二十代後半で、明るい茶色の髪はうなじが隠れるほどの長さだった。

「大丈夫?」

 彼女は心配そうにベッドの脇に来る。

「大丈夫、です」

 なかなか止まらない咳の合間を縫って答える。まったく説得力はなかった。和樹が体を起こそうとすると、彼女は手で制した。

「まだ寝てていいよ。何かほしいものはある?」

「……あの、水がほしいです」

 意識をなくしてからどれくらい経っているのか分からないが、ひどく喉が渇いていた。彼女は、分かった、と引き戸の向こうへ足早に去っていった。すぐに、コップとボトルに入った水を持ってきてくれる。

 彼女がボトルの水をコップに注いでいる間に、和樹は上体を起こす。布団から抜け出してふと視線を落とすと、自分のものではない男物の服を着ていた。

「どうぞ」

 彼女に訊きたいことはたくさんあったが、和樹はまずは受け取ったコップの水を飲み干した。地上の大気で痛めた喉に水が染みたが、乾いていた体が潤いを得て、力を少しだけ取り戻したように感じた。

 お代わりをもらい、ボトルの半分ほどの水を一気に飲んだ。その間に、彼女は棚の横にあった椅子を引き寄せて座る。

「少しは落ち着いた?」

「はい。ありがとうございます」

「他にほしいものはある? おなかは空いていない? 医者に一応診てもらったけど、どこか痛むところはある? 起きているのが辛ければ横になっていいから」

 質問は矢継ぎ早で、和樹は答える隙がなかった。

「あの……」

 彼女の勢いに気圧されながらも、和樹はもっとも気になっていた質問をした。

「ここはどこなんですか」

 彼女は、あ、という顔をした。

「肝心なことを何も言ってなかったね」

 ごめんね、と苦笑する。

「ここは〈広咲ひろさき〉。〈広咲〉の第三通気口直下の最上層で、三区と呼ばれている居住区。ついでに自己紹介すると、わたしは砂上秋香さがみあきか。三区で働いている空調局の整備士だよ」

「〈広咲〉? 〈一京〉ではなくて?」

 和樹が目を剥いた理由が分かるはずもない秋香が、不思議そうに首を傾げる。

「君は〈一京〉に行きたかったの?」

「はい」

〈広咲〉は、〈一京〉の次に〈青滝〉に近い地下都市だ。ただし、方角はまったく違う。仲間とはぐれて方向を見失いながらも〈広咲〉にたどり着けたのは、幸運というしかない。

「砂上さんが、俺を助けてくれたんですか」

 地上直下の場所で空調局の整備士として働いているならば、彼女は和樹の父と同じ仕事をしているわけだ。

「そう。吸気口のメンテをしてたら、君を見つけたんだ。地上で人を見かけることなんて滅多にないから、それだけでびっくりしたのに、いきなり倒れるから本当に驚いたよ」

 吸排気設備のメンテナンスのため、整備士はたびたび地上へ赴く。和樹が見た防護服を着た人は、秋香だったのだ。

「君を〈広咲〉に連れ帰ってすぐに病院へ連れて行って、診療してもらった。喉や肺は当分痛みがあるだろうけど、じきに良くなると言っていたから安心して。入院が必要な状態じゃなかったけど、君が目を覚まさないから一日だけ入院させてもらって、その後はわたしの家に連れてきた。勝手にごめんね」

「いえ、とんでもないです。助けてくれてありがとうございます……あの、俺はどれくらい寝てたんですか?」

「二日、眠ったままだった。ずいぶん長い間、地上にいたみたいだね」

 整備士であれば、和樹がいかに簡単な装備で地上にいたか、すぐに分かるだろう。先ほどまで笑みを浮かべていた秋香が、神妙な顔つきをする。

「君はどうして地上にいたの」

 それは当然の質問だろう。地上はもはや人の住む世界ではないのだ。

「吸収缶は完全に破過してた。〈一京〉に行こうとしていた割に、防護服も簡易のものだった。食料も水も尽きていて、わたしが見つけなければ、君は今頃生きていなかったかもしれない」

 仕事柄、地上がいかに危険か、地上の汚染された大気が人体にどんな影響を及ぼすか、秋香はよく分かっているはずだ。そして、和樹くらいの歳ともなれば、地上が危険な場所という認識を持っているのが普通だ。そのためか、秋香は叱責するような口調だった。

 いるべきではない地上に、好き好んでいたわけではない。

 詰問するような秋香に、反発心が芽生えそうになる。

 和樹は深く息を吸った。ここにいる理由を思い出せば、反発心などあっさりと霧散する。そんなことより何より、他の地下都市にたどり着いたのなら、やるべきことがある。

「俺は〈青滝〉から来ました。〈無剣〉に襲われて、助けを求めるために地上へ出たんです」

「〈青滝〉が〈無剣〉に?」

 秋香の表情が険しくなる。

「助けてください。父さんや、他の大人がまだ大勢残っているんです!」

 大きな声を出したせいなのか、喉が急にひりひりと痛くなり、和樹はむせるように咳をした。

「落ち着いて。喉を痛めてるから、無理にしゃべらなくていい」

「いいえ」

 秋香のいたわる声を振り払うように、和樹は首を振り、お願いします助けてください、と咳混じりに繰り返した。事態は一刻を争う。ここで喉が潰れてしまっても構わなかった。

「……慌てなくていいから、まずは君の名前を教えて」

 のんびりしている場合ではない。和樹は二日間眠っていたという。〈青滝〉が〈無剣〉に襲われて三日経過しているということだ。

「早く〈青滝〉に戻らないと……」

「地上を長距離移動できる車両は少ないし、運べる人数も限られている。君が詳しいことを教えてくれれば、限られた中でも必要なものを取りそろえられる」

 咳き込むせいで丸まっていた背中を、秋香がゆっくりとなでる。誰かの体温を感じるのは数日ぶりで、少しだけ落ち着きを取り戻した。

「君の名前は?」

「……清水和樹しみずかずき、です。父さんは空調局の整備士で、最後に見たとき、頭から血を流していて……」

 詰問めいた口調と打って変わって、和樹に話を促す秋香の声は静かで穏やかだった。

 そのおかげで、多少前後したところがあったりはしたが、〈青滝〉が〈無剣〉に襲われてから和樹が秋香に発見されるまで、おおよその経緯を伝えられた。

 ただ、地上を歩いていたときの張りつめた緊張感と、死の恐怖から解き放たれた状況で記憶をたどる行為は、押し殺していた感情を一気に呼び覚ました。最後の方は嗚咽混じりになっていて、なかなか言葉が出てこなかった。秋香はせかさず、辛抱強く耳を傾けてくれた。

 ひとしきり話して、再び水を勧められた。和樹は鼻をすすって、コップの水を飲み干す。しゃべり続け、時々咳を堪えられなかった喉に、少々痛いけれど水が染み渡る。

 一息吐くと、初対面の秋香の前で子供のように泣いたことが急に恥ずかしくなった。今更ごまかせるわけでもないのに、和樹は目元に残るものを慌てて拭う。

「おなかが空いたでしょう。ちょうどお昼ご飯を作ってたとこなんだ。もう少しでできるから、寝て待ってて」

「それより早く――」

 救援を、と言おうとしたら、自分でも驚くほど大きな音がおなかから聞こえた。秋香が笑い、和樹は今度こそ耳まで熱くなる。

「体は正直だね。和樹に今いちばん必要なのは食事だよ」

 反論しようとしたが、あれだけ大きな音で空腹を訴えては説得力はない。寝てなさい、と秋香に額を押され、和樹はベッドに沈み込む。

 もどかしかったが、意識すると空腹感はますますひどくなった。待っている間、和樹の腹は何度も切なく鳴った。

 派遣されるであろう救援隊に、自分も入れてもらおう。〈青滝〉の住人だから、都市の構造には当然詳しい。〈無剣〉が隠れているかもしれない場所、住人が〈無剣〉から逃れるために身を潜めそうな場所は、いくらでも心当たりがある。きっと助けになるはずだ。

「お待たせ」

 書き物用の机とは別の、脚の短いテーブルの上に食事が並ぶ。白いご飯、野菜がたっぷりと入った味噌汁、少々いびつな楕円形のハンバーグ。そして、キャベツとトマトのサラダ。

 和樹は目を見張った。どれも手作りのようで、量もたっぷりとある。ハンバーグには付け合わせの野菜もあった。味噌汁に入っているのは大根とほうれん草とネギ、わかめに豆腐。付け合わせは人参とタマネギ、マッシュポテト。レトルト食品があれば種類は増えるが、そうでなければ和樹の家では、一度の食事で使う食材はせいぜい三つか四つだ。

〈広咲〉が巨大な地下都市というのは知識として知っていたが、食事だけでもこれほど違いがあるとは知らなかった。

「ゆっくりよく噛んで食べるんだよ。丸二日何も食べてないんだから、いきなりかき込んだら体によくない」

 言いながら、秋香はお茶を入れる。

「あの……砂上さんは食べないんですか」

 テーブルに並んでいるのは、品数は多いが一人分だった。湯飲みも一人分しか秋香は用意していない。

「秋香でいいよ」

 湯気の立ち上る湯飲みが、茶碗の近くに置かれた。

「わたしはこれから出かけるから」

「え、でも」

 この食事は秋香が自分のために作ったものではないのだろうか。和樹がいつ目を覚ますか、彼女には予想できなかったはずだ。いつ目を覚ますかも分からない少年のために、毎度二人分の食事を用意していたとは思えない。

「〈青滝〉の状況を知らせて、救援隊を組織しないといけないでしょ」

 立ち上がった秋香は、ハンガーに掛けてあった上着を着込む。

 和樹がせかしたから、彼女は昼食を食べずに出かけるのだ。

「待ってください。それなら俺も」

 秋香にはここに来た経緯をすべて話したつもりだが、当事者の和樹本人が行く方がより説得力があるのではないだろうか。それに、秋香の昼食を横取りした上に一人でのんきに食べてなどいられない。

「君はまず栄養を取らないとだめ。それに、二日寝ていたとはいえ、体は疲労しきってたんだから。喉も肺も痛めてる。ご飯食べて、休んでなさい」

 立ち上がりかけた和樹に、秋香がぴしゃりと言った。まったくの子供扱いだった。

「でも、秋香さんはご飯は……」

「行く途中で何か買うから心配しなくていいよ。それより、わたしの作ったものが君の口に合えばいいけどね」

 それで話は終わりとばかりに、秋香は行ってしまった。鍵をかける音を聞いて、和樹は脱力したように腰を下ろした。

 空調局の整備士が地上へ赴く際に火器を携行するのは、襲撃を受けたときのためでもあり、地下都市に近付く殺戮兵器や危険な動物を発見した際に攻撃をするためでもあった。整備士としての仕事と、危険な存在が地下都市周辺にいないか警戒する役目をも担っているのである。〈青滝〉ではそうだった。和樹の父は整備士であり、〈青滝〉を侵入者から守る警備兵でもあったのだ。

 秋香の口振りからすると、〈広咲〉の整備士も同じなのだろう。豊富な食材を生産できる巨大都市であっても、整備士と警備兵の役割は分かれていないのだ。やはり、危険を伴う仕事だからだろうか。

〈青滝〉でも、整備士の志望者は少なかった。都市にとって必要不可欠な仕事と分かっているが、自ら進んで危険の中に飛び込みたいと思う者は、やはり少ない。友人の中で、整備士になりたいと言っているのは和樹だけだった。

 はぐれてしまった仲間たちが無事に〈一京〉にたどり着いていれば、とっくに〈一京〉から救援隊が出ているはずだ。仲間たちは、和樹のように食事にありつけているだろうか。

 秋香の手料理はおいしかった。和樹や父の味付けとも、レトルト食品のぶれがない味とも違っていた。言われた通りによく噛んで食べた。そうしなければ、喉をうまく通らないせいでもあった。おなかが少しずつ満たされていく間、和樹は父や仲間、〈青滝〉のことが頭から離れなかった。

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