02

 地下都市に入った男は、応対した職員とその上司が出迎えに現れた瞬間、変化した。

 腕の一部を鋭い刃に変形させ、職員の体を二つに切り裂いた。彼が装備していた銃を奪い、上司の頭を撃ち抜き、通用口付近にいた整備士を撃ち、彼らの銃を奪い、新たな標的を求めて、地下都市を文字通り縦横無尽に駆け回った。

 旅行者の男は人間ではなかった。〈無剣〉と呼ばれる殺戮兵器だった。

〈青滝〉の内部にまんまと侵入した〈無剣〉は、蜘蛛のような体に変形して、天井や壁を這い回り、奪った銃で見つけた人々を片っ端から撃っていった。銃の弾丸が尽きた後は、十本ある脚の数本を鋭利な刃物に変形させ、いくつかの脚で引きちぎった配管を振り回した。

 大人たちは応戦しながら、若年者や年寄りを集めた。老人の多くは、たとえ体が動く人であっても、地上へ出るより〈青滝〉に残ることを選んだ。生まれ育った故郷を離れがたかった人、若者たちに限られた物資を譲るためにとどまった人、理由は人それぞれあっただろう。若い者の中にも、戦うために残った人もいた。

 結局、地上へ脱出するのは十代とそれ未満の子供が中心となった。戦えない大人は、子供たちを逃がした後で脱出する手はずになっていた。大勢で動けば、〈無剣〉に狙い撃ちされる恐れがあったからだ。

 親と離れるのを泣いて嫌がる子供たちを抱えて、和樹は仲間と共に地上へ出た。〈青滝〉からいちばん近い地下都市〈一京〉は、徒歩だと二日はかかる距離だ。小さな子供がいるから、もう一日よけいにかかるとみた方がいいだろう。

 そこに助けを求めるため、和樹たち子供を中心とした二十人ほどの集団は地上を進んだ。

 全員分のちゃんとした防護服などなかった。数少ない防護服は幼い子供に譲り、和樹たち年長者は、簡易の防護服を着込んだ。予備の吸収缶は十分に持たされた。食料も人数分たっぷりとあった。あとは、ひたすら〈一京〉を目指すだけのはずだった。

 地上は、薄暗くて寒くて、汚染された大気で満ちているだけではない。〈無剣〉は他にもいるし、過酷な環境に適応した動物が息を潜めている。

 ただ、〈無剣〉は、人類が地上から地下都市へと移住していく混乱期に製造された殺戮兵器だ。大量の〈無剣〉がかつては地上を跋扈していたが、人々はそれを破壊し、長い時間をかけて減らしていった。その存在が伝説のように語られるにはまだ早いが、運良く〈無剣〉の襲撃を受けずに平穏な人生を送る人々の方が、圧倒的に多い。

 そのため、地上に出た際は〈無剣〉よりも動物の方を心配しなければならなかった。

 地上の環境が激変したため、適応できずに絶滅した種は数え切れない。地下都市に持ち込まれた種もまた数え切れないほどあったが、地球上で生きていた種のすべてには遠く及ばなかった。

 だが、激変した環境に適応した種は少ないながらに存在した。混乱期の前後に、環境に適応できるよう遺伝子改変された種もある。

 適応してたくましく生きているものの、環境が過酷なことに変わりはない。植物はともかく、肉食、あるいは雑食性の動物は、餌となる生き物が少ない地上で常に飢えている。歩いて移動する人間の集団は、彼らにとってはこの上ないご馳走だった。

 食料と予備の吸収缶といくばくかの生活物資。幼い子供は多くの荷物を持てないため、いちばん動ける和樹たちが、大半の荷物を分担して持っていた。銃を持っていたのも和樹たちだ。

 こんな集団では、素早い行動など無理だ。一人で動くにしても、たくさんの荷物を抱えている。〈無剣〉や獰猛な動物に出会いませんようにと祈りながら、和樹たちは〈一京〉を目指した。

〈青滝〉が〈無剣〉に襲われたときから、和樹たちの運命は呪われてしまったのだろうか。〈無剣〉にこそ遭遇しなかったものの、飢えた動物には何度も襲われた。そのたびに応戦したが、銃の扱いに慣れた大人たちと違い、和樹たちの腕は未熟だった。襲われるたび誰かが命を落とし、さらわれていった。

 あと一日歩けば〈一京〉に着くというところで、再び動物に襲われた。猫くらいの大きさの、犬と狸を足し合わせたような獣だった。やせていて、土色の毛皮はごわごわと硬そうだった。動きは俊敏で、集団で狩りをするようだった。数匹が和樹たちに向かってきて、それに応戦している隙に、脇から現れた別の集団に、幼子の一人が襲われた。

 これ以上仲間が死ぬところを見るのは嫌だった。和樹は動きやすくするため背負っていた荷物を投げ出し、幼子をくわえて逃げていく獣を追った。和樹の名を叫び、あきらめろという仲間の悲痛な声には一度も振り返らなかった。

 絶対に取り返す。逃げていく獣を追いかけた和樹だったが、その結末は、情けなくなるほどあっけなかった。

 逃げる獣の集団を見失うまいと前しか見ておらず、足下への注意がおろそかになっていた。和樹は、地面に転がっていた大きめの石につまずき、その先にあった窪地に転げ落ちたのである。意識が飛び、目を開けたときには暗闇に包まれていた。

 気絶している間、動物に襲われなかったのは不幸中の幸いだった。だが、さらわれた幼子は取り戻せなかったし、仲間ともはぐれてしまった。

 被害拡大を防ぐため、薄情ではあるが、和樹たちはいなくなった者を探さず、前に進むと皆で決めていた。

 あきらめろという声を振り切ったのは和樹だ。それは後悔していない。探しにこない仲間を恨みもしない。そう決めていたのだから。勝手な行動をした和樹に構うより、一人でも多く、〈一京〉にたどり着いてほしかった。

 窪地で膝を抱えて、ため息を吐いた。さらわれた子の泣き叫ぶ声が耳に貼り付いて離れない。結局助けられなかった。その後悔が、和樹の胸の中を占めていた。

 夜が明けてあたりが明るくなると、和樹は動き始めた。

 荷物の大部分は投げ出してしまい、今やポシェットしかない。確かめてみたところ、吸収缶二つと固形燃料が数個、スティック状の非常食が半日分入っていた。銃は、昨日のうちに撃ち尽くしていた。新しい弾はなく、拳銃サイズでは殴って使うにも大して役に立たなさそうなので、その場に捨てた。

〈一京〉を目指そう。

 仲間から離れずいぶんと走ったが、和樹の足であれば今日中に〈一京〉にたどり着ける。そう思うと、一人でいる不安はずいぶんと減った。

〈一京〉にたどり着ける。ただし、方角を間違わなければ、という条件付きだった。

 和樹はその条件から外れてしまった。食料も吸収缶もなくなり、汚染された大気にさらされて既に一日が経過していた。

 マスクなしでは、地上で長くは生きられない。せいぜい一日、もっても二日。長時間汚染大気に曝露したら、清浄な大気の中に戻っても五体満足でいられる保証はない。粘膜がやられ肺を焼かれ、呼吸するたびに身を裂かれるような激痛にさいなまれるだろう。

 汚染した大気を呼吸して二日目だ。和樹は大きく咳き込んだ。喉が痛み、肺が熱い。咳をしすぎると肋骨が折れることがあるという。胸の痛みはまだないが、時間の問題だと思った。それよりも先に、痛みも感じない体になるかもしれないが。

 小さな子供一人助けられないどころか、自分の身さえ守れない。〈青滝〉を脱出する直前、父と、生きてまた会おう、と約束したのに――。

「父さん……」

 和樹の身内は父しかいない。母は、和樹が六歳のときに亡くなった。肺を病んだと父に聞いている。

 地下都市内の空気は浄化されているが、フィルターで有害物質を完全に除去できないのだ。ほんの少しの有害物質が体内に蓄積され、様々な病気を引き起こす。大きな地下都市であれば、〈青滝〉よりもいい設備なので空気はずっときれいだと、和樹の父は言っていた。たとえば〈一京〉に住んでいたら、母はもっと長生きしたかもしれない、と。

〈青滝〉での平均寿命は六十歳半ばだ。体が弱い人や体質によっては、若くして亡くなる人もいる。父親か母親、どちらかしかいないという同年代の仲間は、和樹の他に何人かいた。

 和樹にはきょうだいもいない。両親とも一人っ子で、やはり早くに親を亡くしたため、和樹には祖父母もいとこもいなかった。〈青滝〉は人口が少ないため、顔見知りの住民は親戚のようなものではある。父しかいない家庭だったが、近所の大人や友人たちがいたおかげで、寂しいと思ったことはほとんどない。

 周りには常に誰かがいた。こんなに長い時間たった一人になるなど、今までの人生では一度もなかった。

 最後に見た父の姿を思い出すと、汚染大気を吸い込んだせいではなく、鼻の奥がつんと痛くなった。

 父はあちこちに怪我をしていた。切ったのか、額からは血が流れていた。和樹と約束を交わしたときの口調はしっかりとしていたし、怪我はあるものの十分に動けるようだった。それだけに、不安がよぎったのだ。

 父は空調局の整備士だ。地下都市の吸気・排気口のメンテナンスを主に担当していて、たびたび地上へ出ていた。

〈無剣〉や獰猛な生き物がいるので、整備士は危険を伴う仕事だ。メンテナンス中の襲撃に備えて、地上に出るときは必ず銃を携行する。

 そんな危険な仕事に従事する父は、自分の仕事に誇りを持っていた。通気口がなければ、地下都市に新鮮な空気を送り込めない。自分の仕事が皆の生活を守っている。それが父の誇りであり、危険でも続けている理由だった。

 そんな人だから、〈無剣〉との戦闘でも最前線に出て行くのではないか。地上へ滅多に出ない仲間と比べ、地上で危険な目に遭うこともある自分は銃の扱いにも慣れていて、いちばんに戦うべきだ。そう考えているのではないか。

 約束をしたのに、父はそれを守るつもりはなかったのではないだろうか。和樹を励ますための方便だったのではないか。

「約束は守るものだって……」

 和樹にそう教えたのは父だ。その父が、最初から約束を守る気がなかったなど、許すつもりはない。自分は守ってみせる。生きて、父にまた会うのだ。

「生きて……」

 咳き込むたび、景色がかすんでいく。全面形マスクは、顔の半分以上は透明な強化プラスチックのカバーで覆われているだけなので、視界は広い。そこが曇っているのかと思ってたびたびこするが、かすみは取れなかった。どうやら和樹自身の目がかすんでいるらしい。

 自分がどこへ向かって歩いているのか、和樹にはもう分からない。奇跡的な幸運で〈一京〉に向かっているとすれば、もうそろそろたどり着いていていいはずだ。〈一京〉でなくとも、他の地下都市にたどり着ければそこで助けを求め、〈青滝〉に戻って父を探さなければ。

 かすむ視界の中に、ゆらりと動く影を見つけた。動物か、〈無剣〉か。和樹の体に緊張が走る。銃はある。弾もまだいくらか残っている。

 和樹は立ち止まった。影の正体を見極めようと目を凝らす。凝らしたところでかすみは取れない。喉が痛い。咳が出そうだ。だが、あの影が和樹の存在に気付いていない動物か何かだったら、咳をすれば気付かれてしまう。

 影との距離は百メートルほどだろうか。周辺の地面はぼろぼろになったアスファルトやコンクリートのなれの果てで、ごつごつとしていた。影に向かって地面は上っている。

 しばらくじっとしていた影が、再び動いた。立ち上がるような動作だった。防護服を着た人間に見えた。ボンベを担いでいるようには見えない。では、吸収缶型のマスクを使っているのか。

 人だ。

 そう思った一瞬、気が緩んで大きく何度も咳き込んだ。

 それが、あの人影まで届いたのだろうか。防護服を着たその人が斜面を駆け下りてくる。

 助かったと思うと、全身から一気に力が抜ける。

 駆け寄ってくる人の顔を見る前に、和樹は倒れていた。

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