第一章
01
空はずっと灰色だった。一筋の陽光が差し込む気配もない。
ずっと昔から、世界はどんよりと曇っている。
青い空が広がり、白い雲が流れ、日差しが燦々と降り注ぐ――そんな世界は、今では記録映像でしか見ることができない。世界は、今生きている人々が生まれたときから憂鬱なくもり空で、日光が差し込まないせいで薄ら寒かった。
寒さは服を着込めばしのげる。もっとも、ほとんど着の身着のままで逃げ出したせいで、気温に見合った服装とは言いがたかった。普段暮らしている地下都市ならば、温度調整が若干追いつかなくなるとはいえ、長袖に薄手の上着を着ていれば十分だった。
しかし、地上は秋の終わりだ。一昨日には灰色の雪がちらついていた。薄着の上に防護服を着込んだだけでは、冷気を遮断しきれない。
それでもなんとか冷え込む夜をやり過ごせたのは、火をおこし、身を寄せ合える仲間がいたからだ。
現在、地球上の人類のほとんどが、地下に造った都市で暮らしている。地上に出るのはごく一部の者だけだ。その彼らも、地上に長くとどまることはほとんどない。
地上はもはや、人間が生きていける世界ではなくなっていた。
二十三世紀初頭、ユーラシア大陸とヨーロッパ大陸の境近くに小惑星が衝突した。その際に大量の土砂が塵となって成層圏まで巻き上げられ、対流圏に落下したそれらは大気の流れに乗って地球を覆い尽くしてしまった。塵の膜に包まれた地球は、それ以来、日差しの差し込まない薄暗い世界になってしまったのだ。
それだけでも人類史上類を見ない大惨事だったというのに、小惑星衝突からわずか二年後、北アメリカ大陸で超巨大噴火が起きた。場所は、イエローストーン地区。もとより火山活動が活発で、六十万年から七十万年の周期で巨大噴火を繰り返していた地域だ。前回の巨大噴火から六十万年が経過しており、次の巨大噴火がいつ起きてもおかしくない状況ではあったが、小惑星衝突の衝撃が引き金になったといわれている。
噴火したのはイエローストーン地区の火山だけではなかった。世界各地で火山活動が活発化し、近隣の人々に重大なダメージを与えた。
そして、絶え間なく吹き出す大量の火山性ガスが、大気の組成をほんの少しだけ変えた。
一つの火山が噴火しただけならば、そんなことは起きなかったのだろう。あるいは、世界中の火山が同時に噴火しても、大気の組成を変えるほどではなかったのかもしれない。
ただ、火山が噴火したとき、世界は既に塵の膜に包まれていた。
ガスと塵が化学反応を起こし、化学変化したそれは大気循環によって、またもや世界中に広がったのである。
火山性ガスに含まれる人体に有害な成分そのものや、目に見えないほど細かい粉塵自体も、吸い続けるのはよくない。そこに、化学変化した微小な物質も加わってしまったのだ。ガーゼや不織布のマスクだけでは、とても対処できるものではなかった。
当初は、外気をシャットアウトして、浄化した空気を取り込み、極力建物から出ないで過ごしていたが、所詮対症療法でしかない。
抜本的解決は大気中の有害物質を除去することだが、それには莫大な費用と途方もない時間がかかる。
だから、人類は地下に潜ることにした。地下に都市を築けば、通気口の数を絞ることができる。汚染された空気を浄化する技術は既に確立されていたので、人々は一切合切を地下に持ち込んだ。
小惑星衝突から約二百五十年。地上を出歩くのは、地下都市の通気口を管理する整備士や、連絡や商業のために都市間を行き来する者など、限られた者だけだった。
和樹は、その限られた方に入る。通気口の整備士なのだ。より正確に言うと、まだ正式な整備士ではなく見習いのようなものだが。整備士である父の仕事を手伝い、覚えるために、父についてたびたび地上へ出るようになったのは、ここ一年のことだ。
それでも、地上での活動範囲は、和樹の暮らす地下都市〈
和樹は今、見知らぬ場所を歩いていた。
いや、そもそも地上で見慣れた風景などほとんどない。空は塵の膜で覆われ、太陽はどこにも見えないから、自分がどこに向かって歩いているのかも分からなかった。簡易の防護服なので、方位磁石も付いていない。
小惑星衝突前は、自分が地球上のどこにいるのか、携帯型端末で誰でも簡単に確認できたという。しかし、塵の膜が電波通信を妨害し、その技術も使えなくなってしまった。
仲間とはぐれる直前、遠くに見えていたある山を指して、あっちが北だ、と仲間の一人が言っていた。
和樹は、その山と思われるものを右手に見ながら進んでいた。あの山が北ならば、今は西に向かっている。仲間とはぐれた場所と、現在進んでいる方角を、頭の中の地図にそれぞれ印を付ける。間違いがなければ、和樹は、〈
ぜえぜえと荒く息をしながら、和樹は歩き続けていた。
地上に出る際、防護服は必須だ。防護服がなくても、最低限全面形マスクを装着しなければ、汚染された大気で肺を病む。長時間活動するならば、やはり防護服も必須だった。
肌を大気に曝露させた状態で長時間放置しておくと、火傷をしたようにただれてしまうのだ。目や鼻、口など粘膜のある部分は、短時間でも曝露させない方がいい。特に目は、下手すれば失明してしまう。
それ故、地上で活動する際の防護服は全身をすっぽりと包むタイプが普通だった。外気との接触を断ち、清浄な空気が詰まったボンベで呼吸するのが理想的である。もっとも、行動が制限されるので、ボンベではなくマスクを使う場合が多かった。
それに比べて――と和樹はまたもや咳き込んだ。理想に比べると、卒倒しそうなほど貧弱な装備だった。
防護服は着ているが、それは簡易的なものなので薄手で保温性も低い。頭部を覆うフードはいつの間にかなくしてしまった。手首から先に装着する手袋もそうだ。右手の分はなくしてしまった。ないよりましだろうと、綿の手袋でしのいでいる状態だ。左の手袋には穴が空いている。さっき気付いた。
顔は全面形マスクをしているが、これはとっくに使用限界を超えていた。空気ボンベと接続して使う吸気タイプではなく、有害物質を除去する薬剤の詰まった吸収缶を取り付けて使うタイプだった。吸収缶を通して濾過した空気を吸うのだ。ボンベがない分動きやすい。
吸気タイプはボンベの空気がなくなれば使えなくなり、吸収缶タイプは、薬剤の効果が切れれば、有害物質の除去ができなくなる。吸気タイプと違って、使用期限が来たからといって窒息するわけでないが、有害物質を含む空気を吸い込んでいるということだ。
使用限界を超えた吸収缶タイプは、吸収缶を新品と交換すればいい。だが、予備の吸収缶はもうなかった。仲間とはぐれることを想定して、もっとたくさん予備を持っておけばよかったと後悔したが、後の祭りである。そもそも仲間とはぐれるなど思いもしなかった。
このまま死んでしまうのだろうか。
激しく咳き込む和樹の脳裏に、不吉な疑問が浮かぶ。
汚染大気を吸い続けて半日ほど。吸収缶が意味をなさないため、マスクの内部は汚染大気で満ちている。目や鼻の粘膜もダメージを受けていた。視界がかすむのは、疲労のせいばかりではないだろう。
予備の吸収缶はないし、食料もない。今日中に〈一京〉にたどり着けなければ、疲労と空腹で倒れてしまうだろう。
仲間とはぐれなければ、こんな目に遭うことはなかった。いや、それ以前に、〈青滝〉が襲われなければ――。
何も考えずに歩いていたら、いつの間にか意識を失い倒れてしまいそうだった。だから、なるべく何かを考えるようにしていた。
しかし、頭に浮かぶのは、和樹がこんな状況に陥ってしまった経緯についてばかりだ。
和樹は〈青滝〉で生まれ育った。住人のほとんどは顔見知りという小さな都市である。大地下都市を結ぶ地上の連絡道から外れた場所に位置していて、生活必需品等を搬入する業者や都市間連絡員以外、部外者は滅多に訪れない。
辺境であるため、噂で聞くだけの大地下都市のようなきらびやかな生活とはほど遠い。平凡で変化のない暮らしだったが、平和で穏やかな日常が流れていた。
〈青滝〉の平和が突如破壊されたのは五日前。見たことのない部外者がふらりと〈青滝〉を訪れた。
彼は旅行者で、〈青滝〉に一晩泊まりたいのだと、地上と地下を繋ぐ通用口の重い扉を叩き、頼んできた。
地上は人間が生きていくのにおよそ適していない世界となり果てている。業者や整備士でもないのに、そんな場所をわざわざ移動する者はひどく珍しかった。
通用口は、地下都市の空調設備を管理する空調局の管理下にある。インターホンで応対した職員は、上司にどうするか指示を仰いだ。おいそれと見知らぬ者を受け入れるのは危険を伴うからだ。
防護服で全身を守る旅行者は、三十代前半の男だった。とても疲れているし、吸収缶の予備は尽きてしまって、今使っているものももうすぐ使用限界が来る、と哀願した。
マスクの視野カバー越しに見える顔は、酔狂な行動に興じている割には気弱そうだった。
疲れているから、あるいは、少々画像の荒いモニターのせいでそう見えたからか。上司は、中へ入れる許可を出した。
それが間違いだったのだ。だが、同情心を揺さぶられ、許可を出した彼女を責められなかった。
〈青滝〉は小さな都市のため、自分たちで生産できるものの種類や数に限りがあった。生活物資や必需品が足りなくなることはしばしばで、皆で助け合いながら生きてきた。また、他の大地下都市から供給される物資がなければ、すぐに立ち行かなくなってしまう。
そんな都市だから、困っている誰かを助けるようにと、〈青滝〉の住民は小さい頃から教えられ育ってきた。
空調局の人々は、〈青滝〉の教えに従ったのだ。和樹が彼女らの立場でも、やはり旅行者と自称する男を招き入れただろう。誰が同じ立場になっても、結果は変わらなかっただろう。
つまり、旅行者の男が訪れた時点で、〈青滝〉の運命は決まっていたのだ。
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