少年よ、塵の中で躍れ

永坂暖日

プロローグ

プロローグ

 体の奥にずしりと響く轟音と、足がよろめくような衝撃。

 辛うじてバランスが取れた秋香あきかは、倒れるのを免れた。衝撃に耐えきれず、あるいはバランスを取り損ねて床に倒れ込む仲間の姿を、視界の隅でとらえる。

 駆け寄って助け起こすことはしなかった。気遣わしげな視線を送る余裕もない。秋香の視線は、ほとんどずっと、対象に向けられていた。

 目を離したら、次の瞬間に何が起きるか分からない。何が起きたか理解できず、自分が死んだことに気付かないまま、絶命している可能性は十分にあった。

 そうやって死んだ仲間の亡骸が転がっていた。口を二つに分けるように、頭の上半分が恐ろしくきれいに切り落とされていた。油断すれば、秋香も同じ運命をたどるだろう。

 死にたくない。

 顔全体を覆う全面形の防護マスクの下で、秋香は歯を食いしばった。対象に向けて銃を構える。

 仲間の投げた火炎弾は、近くにあった近距離移動用の車両をも巻き込んで爆発した。残っていた燃料に引火して、通用口全体を揺るがすほどの威力になった。

 巻き込まれた車両は、この三区が保有する四台のうちの一台だ。その中でもいちばん新しかった。火炎弾が放物線を描いて飛んでいくのを見た一瞬、惜しい気持ちが湧いたが、あれ一台で三区全体が全滅しかねない状況を免れることができるのなら、安い代償だった。

 しかし、それも無駄に終わった。

 燃えさかる炎の中から出てきた『それ』は、若い女の顔を持ちながら、人間とは思えない姿形をしていた。

 髪の毛は燃えて一部が縮れ、左のこめかみ周辺はひどい火傷をしたように黒くなっている。それなのに、少しも痛みを感じていなさそうだった。表情が抜け落ちた顔で周囲を睥睨していた。首は普通の三倍は長く、肩から下は粘土でできた体をでたらめに引っ張ったみたいに延びている。関節が存在するとは思えない腕はロープのようにしなり、胴体は自在に捻れる。

 不定形の生き物が、人間のような四肢を持とうと擬態をしている、と表現する方が近いかもしれない。そのくせ、顔だけならば、普通の人間にしか見えないのだからおぞましい。

 まして、その顔が知人とあっては。

 異形の化け物がぬるりと動く。秋香は、化け物の長く伸びた胴体に照準を合わせて引き金を引いた。爆発と炎に耐えたあれが、銃弾で致命傷を与えられるとは期待していない。だが、攻撃しないわけにはいかなかった。

 立って動ける者は少ない。あの化け物にやられてしまった。他の区に応援を要請しているが、彼らが到着するまでまだ時間がかかる。それまで、倒せなくとも、ここであれの足止めをしなければならなかった。

 秋香は化け物から目を離さないまま、背後を意識した。彼女から十数メートル後ろにあるのは、両開きの大きな扉だ。ここは地上と地下の境界線で、扉の向こうは地下世界だ。

 汚染された大気と切り離され、地上を跋扈する危険から守られた、人類が生きる世界。扉の向こうが居住区に直結しているわけではないが、入り口ではある。あそこを破られたら、三区が壊滅的な被害を受けるのは想像に難くなかった。だから、なんとしてもここで食い止めなければならない。

 秋香は立て続けに撃った。一発は胴体に、一発は左腕に、一発は外れ、最後の一発は右の頬を貫通した。

 頭は多少効くのか、化け物は上半身をのけぞらせて前進をやめた。振り回していた長い腕から力が抜ける。

 近くで息を呑む音がした。ちらりと振り返ると、顔面蒼白で立ち尽くす男がいた。銃を持っているが、構えるでもなく化け物を見つめていた。

 そうしたくなる彼の気持ちは分からなくはない。異形の化け物を禍々しく見せている若い女の顔――あれは、彼の、蒼平そうへいの妻と瓜二つだった。

莉乃りの……」

 化け物が頭を振り、ゆらりと顔を上げる。銃弾が貫通したはずの右頬は無傷になっていた。焼け焦げた髪の毛や火傷も、いつの間にか消えている。胴体に受けた傷もなくなっていた。

「あれは、あんたの妻じゃない」

 再び化け物を見据え、秋香は険しい声で言った。

「あんたの妻の顔を持つ化け物だ」

 秋香たちは、あの化け物を〈無(む)剣(つるぎ)〉と呼んでいる。

 古の忌まわしい遺産だ。人間を執拗に狙い、殲滅するためだけに動き続けている。分子機械の集合体で、定まった姿を持たない。膨大な数の分子機械を駆使して、様々なものに擬態する能力を有している。人間の姿に化けるのはお手の物だ。高性能な人工知能も搭載されていて、人に化けてごく自然に近付いてくる。そして、警戒心を緩めた人間をほふるのだ。

〈無剣〉のいやらしいところは、外見だけでなく、声や仕草も真似できる点だ。声をかけられたら、親しい者でも本人だと疑わない。

 あの〈無剣〉もそうだった。蒼平の妻である莉乃の姿で、地上から帰ってきたかのように、ふらりとここに現れたのである。

 莉乃がまた勝手に地上へ行ってしまったようだ、と朝から蒼平が心配していたのを、秋香たち同僚は知っていた。だから、莉乃の姿をした〈無剣〉が現れたとき、誰もが莉乃が帰ってきたと思った。蒼平が心配していたぞ、と声をかけた同僚が、最初の犠牲者となった。

 莉乃に化けた〈無剣〉は、腕を鋭い刃に変形させて、その同僚の首を刎ねたのである。莉乃が帰ってきたという知らせを聞いた蒼平が飛んできたときには、複数の犠牲が出ていた。

 これ以上、誰も殺させない。

「蒼平、援護して」

〈無剣〉が再び前進を開始した。体を様々なものに自在に変形させるが、火器は搭載されていないタイプらしい。不幸中の幸いだ。

 秋香はたすき掛けにして持っていた無反動砲を手に取った。同僚の誰かが持ってきて、戦闘の最中に投げ出されたものを秋香が拾っていたのだ。

 元々は、対戦車用の携行型武器として開発されたものだ。発射する際の反動がなく、威力は強大。しかし、秋香の体格と筋力では、携行型だけあって持ち歩くのは可能でも、立って撃つのは無理だった。

 腹這いになるか、最低でも片膝をたてて安定した姿勢を取らなければ、照準をしっかりと定められない。

 標的はすぐそこだ。立ち止まれば自分が格好の的となる。援護は絶対に必要だった。

「頭なら多少効果がある。頭を狙って」

 蒼平から了解の返事はなかった。時間にすればほんの一、二秒の間が空いただけだっただろう。だが、この緊迫した状況では一秒でも惜しかった。

「蒼平!」

「――無理だ、秋香。あれが〈無剣〉だと分かっていても、莉乃の顔は撃てない……」

 蒼平の声は震えていた。泣いているのではないかと思った。秋香は振り返らなかったから、彼がどんな顔をしていたのかは分からない。

 なんて情けないことを言うのか、という失望と苛立ちを覚えた。

 ただそれは、蒼平と、自分に対してのものでもあった。

 自分や仲間が生きるか死ぬかという瀬戸際なのに、自分の感情を優先させるなんて。

 蒼平がそんな男だとは思わなかったし、そんな男を、かつては恋人として愛していた自分が情けなかった。

「もういい」

 秋香は〈無剣〉の頭に狙いを定め、銃弾を撃ち込んだ。〈無剣〉がよろめき、足を止める。秋香は銃を足下に投げ捨て、たすき掛けにしていた無反動砲を肩に担いだ。右膝を地面につき、左足の太股に左肘を載せ、秋香の腕よりも太い銃身を安定させる。

「蒼平、離れて!」

 無反動砲は、発射と同時に後方への爆風が出る。これに巻き込まれたら、下手をすれば死んでしまう。

 蒼平が秋香の背後から退いたのか、確認する余裕はなかった。秋香の持つ武器を認識した〈無剣〉が、距離を詰めようと慌ただしく動き出す。両手は鋭利な刃物に変わっていた。

 これが外れたら秋香は〈無剣〉の餌食となる。

 だが、こんなところで、莉乃の顔をした化け物に殺されるつもりなどない。

 秋香はためらうことなく引き金を引いた。

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