第6話
「…何の用だ、べに」
「ハッ、分かってんだろうが。わざわざ訊く事ぁテメェには野暮だろ」
『Seiren』の発足ライブの翌日。『話がある』とべにに呼び出されて行ってみれば、久々に訪れた部室のソファーで、彼女はどっかりと座り込んで俺を睨んでいた。
奥に立てられた赤いギターは、金をあしらった黒いベースに寄り添うように置かれていて。眉を顰めた俺を一瞥すると、べには苛立たしげに舌打ちをした。
「率直に言う。別れよーぜ」
…ああ、やっぱりか。
「…どういう風の吹き回しだ」
「テメェとあたしじゃもう馬が合わねェんだよ。一緒にいたって苦痛なだけだ。…澪さんにも言われたしな。もう付き合ってる意味なんて無ェだろ」
「…そうか。俺はもうどうでも良い。べにの好きにしろ」
「ッ!?…ああそうかよ」
震える声で吐き捨てると、べには不意に立ち上がってずかずかと扉まで歩いて行く。だが、ドアノブに手を掛けると「…なあ」と振り向かないまま声を発した。
「最後に聞かせろよ。どうだったよ、どうでも良い女と付き合った感想は」
「…どうもこうも無い。全てが無意味だった、ただそれだけだ」
「は…?どういう事だよ」
「…言ったままの意味だ。俺の事は忘れろ」
「…ッ」
荒々しい扉の音と消される照明。一瞬の暗闇。少ししてぼんやりと浮かび上がった壁掛け時計は、午後八時をゆうに回っていて。
…どれくらい経ったのか、ふと視線を移せば、月光の差し込む窓辺に白百合が生けられているのが見えた。
『龍牙!』
鮮明に甦る、柔らかい声と綻んだ笑顔。
淡い記憶に導かれて歩み寄ろうとしたその時、扉の開閉音と聞き慣れた声が鼓膜を震わせた。
「龍牙」
月影に照らされる癖毛と、静かに揺れる滑らかな瞳。…やっぱりお前かよ。
「…んだよ、澪」
「…べにちゃんに、何て言ったの」
「お前が知る必要は無い」
「そうじゃない。…何で、泣かせたの」
「…悪いかよ」
顔を背けて無愛想に返せば、澪は「答えてよ」とこちらへ詰め寄る。
差し込んだ蒼に濡れる、不気味なまでに白い肌。見慣れた瞳の奥に滾るものは、燻らせた炎のようにゆらゆらと揺れていて。
…ああ、そういう事か。
「お前…べにが好きか」
「!?」
「なら、今度はお前が傍にいてやれ。アイツは…」
「龍牙あッ!」
突如俺の胸ぐらを掴み上げた澪は、今までにないくらい声を張り上げて俺を睨みつけた。いつもの温和な面影の消えた…そう、まるで、ライブの時にだけ見せる野性の姿のようで。
壁に押し付けられ、一瞬だけ止まる呼吸。俺達の影が荒々しく歪んで、差し込んだ蒼を黒で掻き乱す。
「…ッ」
「…僕だって、出来る事ならそうしたいよ。べにちゃんの事は弟子として可愛がってるし、一人の異性としてだって…。…ねえ龍牙。龍牙の言う通り、僕はべにちゃんが好きだよ。ギターよりも、軽音部よりも…本当は何よりも優先したいくらい。…何回だって龍牙を羨んだし、何回だって嫉妬した。それでも…べにちゃんが幸せそうだったから、いつも通り笑ってくれてたから、僕はそれで良かったのに…ッ!」
幼馴染の慟哭なんて、今まで聞いた事も無かった。
幼い頃から澪は、自身を内に秘める男だった。いつも静かで穏やかで、感情を露にする事なんて無かったのに。
「…澪、何でべにの事知ってんだよ」
「…ここに来る途中、魁斗と擦れ違ったんだけど…『軽音部のギターボーカルを生徒会室に匿った』て言われたんだよ。詳しく訊いてみたら、泣いてたって話だし。…べにちゃんが昨日のライブの後に『近いうちに龍牙に話つける』って言ってたから、そこからは推測だったけど」
…『澪さんにも言われた』って、そういう事か。
「俺じゃなくて、澪に相談してたって事かよ」
胸の奥で、何かが蠢くのが分かる。…これが劣情だろうと嫉妬だろうと、俺にはもう資格すら無いってのにな。
ふと、自嘲するような笑みが口をついた。
「…でもね、どれだけ僕がそう願ったって、べにちゃんには龍牙しか有り得ないんだと思う。僕と話すときも、べにちゃんは龍牙の事ばっかりだから…。だから、べにちゃんが幸せなら、僕は見ているだけで良い。…綺麗事かもしれないけどさ」
「好きな人には、笑っててもらいたいから」
例え、それが僕以外に向けられたものだとしても。
俺の胸ぐらを掴んだまま歪む澪の顔を見て、不意に蘇る昨夏の会話。
「おいどうすんだよ澪、ギター一本足りねえぞ」
「その事なんだけどね、去年の中等部で『新進気鋭の二刀流』って謳われたギタリストがいたんだって。龍牙も知ってるんじゃないかな?三味線一族、九十九家の跡取りの璃梨…本名、九十九べにちゃんの事」
あの時の悪戯っぽい笑顔と今のコイツの表情で、ようやく頭の中でピースがカチリと音を立てる。
…ああ、そうか。コイツはあの時から…。
「澪…」
「…自分の女くらい手放すなよ、男だろ」
背けられる視線と、搾り出すように紡がれた声。
感情の綯い交ぜになった双眸は、俺の奥…蒼い月影に浮かぶ窓辺の白百合を映していた。
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