第28話 「…もしもし。」

 〇神 千里


「…もしもし。」


『…あたし。』


「ああ…」


『今から…そっちに行っていい?』


「あ?」


 事務所から帰って、晩飯を…作ろうとしたが、やっぱりそれはオフの日にするかと思って冷蔵庫を開けると。

 咲華が焼きそばを作ってくれてた。

『温め方』ってメモも残して。


 いや、もう電子レンジぐらい使えるっつーの。


 電子レンジに入れる前の焼きそばを手にしたまま、電話の声を堪能する。

 …知花の声を、久しぶりに聞いた気がした。



「…ああ、分かった。」


『じゃ、後で。』


 手にしたままの焼きそばは、また冷蔵庫に入れた。

 ビールを取り出して…またおさめて。

 シャワーを浴びる事にした。



 …知花は、何をしに来る?

 この一ヶ月、見掛ける事もなかった。

 咲華の時と同じで、俺からは連絡はしないと決めてはいたが…

 こんな時でも知花は里中とアンプを直してるんだろーなー…と思うと、前みたいに妬くって言うより…


 落ち込む俺が居た。



 頭をガシガシと拭いて、溜息をつきながら鏡を見る。

 F'sの海外ツアー以外で一ヶ月離れたのは初めてだ。

 しかもあの時は毎日電話していた。

 離れてても…離れてる気なんてしなかった。


 だが今回は…


 知花から『離れたい』と言われた。

 たぶん俺は今もショックを受けたままだ。

 深く深く落ち込んでるはずなのに、それを認めるのが怖い。

 そして、聖の言っていた『ズケズケ物を言う』知花…

 俺はそれが少し怖い。


 …なさけねーな。



 ビールを飲もうとしたが…やめた。

 知花が来るなら…ちゃんと話しを聞くために、きちんとしておきたい。

 …かと言って、きちんとし過ぎるのも…


「……」


 考え過ぎてる自分に笑いそうになった。

 知花が来るだけだ。

 普通にしていよう。



 Tシャツを着てスウェットをはいた。

 去年の誕生日に華月がくれたやつだ。

 どこか海外に撮影に行った時に買ったとか言ってたな。

 着心地が良くて気に入っている。

 …そんな、別に今詳しく誰かに話すように考えなくてもいい事を思ってると…


 ピンポーン


 …知花は暗証番号を知らないのか…

 そんな事を考えながら。


「…はい。」


『あたし…』


「……」


 エントランスのドアを開ける。

 それから玄関まで行って…逸る気持ちで知花を待った。


 どんな顔して会う?

 …バカか俺は。

 普通に…『よお』なんて言えばいいじゃねーか…


 ピンポーン


 再びチャイムが鳴って。

 俺はドアを開けて…


「…こんばんは…」


「……」


 知花がそこに立ってるのが見えた途端…


「…え…っ…」


「知花…」


 俺は、知花を抱きしめた。



 〇桐生院知花


 ドアが開いて…千里が見えた瞬間。

 息が詰まりそうになった。

 一ヶ月会わなかった。

 連絡も取らなかった。

 あたしの…大事な人。



 よそよそしく『こんばんは』なんて…挨拶して顔を上げると。

 千里は…あたしを抱きしめた。


「…ちさ」


「知花。」


「……」


「知花…」


「……」


 強く抱きしめられて…泣きそうになった。

 きっと…怒ってるって思ってたのに…


 …いい香りがする…

 髪の毛も…少し濡れてるし…

 お風呂上りなのかな…


 しばらくそうしてると…


「…あ…悪い。」


 突然、千里があたしから離れた。


「…え?」


「…こういうのがいけないんだよな?俺の好き勝手に…」


「……」


「…入れ。」


「…お邪魔します…」



 心地良かったのに…突然その温もりが離れて寂しくなった。

 そして、その後に千里の言った事が…寂しかった。


 こういうのがいけないんだよな。


 …ううん…違うの…

 違うのよ…



 リビングに通されて、ソファーに座るように言われて…

 あたしが座ってるのに、千里がキッチンで何かしてる。

 …居心地悪い…



「あの…」


 あたしが立ち上がろうとすると。


「すぐ行く。」


 千里は下を向いたまま言った。


「……」


 ゆっくり座って…少しだけ部屋を見渡す。

 …きれいにしてる…



「紅茶。」


 不意に目の前にカップを置かれて、あたしは驚いて千里を見た。


「…あ…ありがとう…」


「ティーバッグだけどな。」


「…十分よ…」


「……」


 千里は少し悩んでたみたいだけど…あたしの向かい側に座った。

 いつも隣だったから…何だかこの距離が辛い…


 …でも。

 千里は…気を使ってくれてるんだよね?

 あたしが理由を何も言わないままだったから…



「…元気なのか?」


 その声に、顔を上げて千里を見る。


 …相変わらず…カッコいい。

 ううん…

 ますます、カッコ良くなったように思えちゃう。

 どうしよう…

 あたし、これ以上好きになったら…


「…知花?」


「あ…うん…元気…」


「……」


「……」


「…いただきます…」


 沈黙が怖くて。

 あたしは、紅茶を口にした。

 …千里に紅茶を入れてもらえるなんて…



「…で、今日は?」


 あたしがカップを置くのを見て、千里が言った。


「…話を…しなきゃと思って…」


「……」


「あたし…」


「待て。」


「…え?」


「はー……」


「……」


 千里は前のめりになって、大きく溜息をつくと。


「…隣に、行っていいか?」


 遠慮がちに…下を向いたまま言った。


「…う…うん…」


 千里はゆっくりと立ち上がって、あたしの隣へ。


「…肩に…手をかけても?」


「…うん…」


「……抱き寄せても…?」


「……どうして…聞くの?」


 千里らしくなくて、問いかけると。


「…嫌だったんだろ?」


 千里は…寂しそうな顔で言った。


「ま…まさか。嫌なんかじゃ…」


「……」


 千里はあたしの肩に手を乗せたまま。

 だけどその手は…すごくぎこちなくて…


「…聞いて。」


 あたしは千里の目を見て、言った。



「…春に…健康診断があったでしょ?」


「は?」


 思いがけない言葉だったのか、千里は眉間にしわを寄せた。


「その健康診断で…あたし、引っ掛かったの。」


「おま…何で言わない!?」


 千里が少し声を荒げた。


「…色々思う事があって…言えなかったの。」


「何だよそれ。何の検査で引っかかった?」


「…肺…」


「肺…?」


 千里は両手であたしの肩を掴んで。


「…で、それから?検査は受けたのか?」


 すごく…怒りを我慢してる感じの…低い声で言った。


「…行ったよ…」


「…それで?」


「レントゲンで影があるって言われたけど…大丈夫だった。血液検査も色々してもらったけど…異常なかった。」


「……」


 千里はあたしの肩に手をかけたまま、大きく溜息をついてあたしの胸に顔を埋めると…


「…何で言わなかった?そんなに…」


「……」


「そんなに……」


 何かを言いたいのに…続きを飲みこんだ。


「…ごめんなさい…本当に…」


「……」


「桐生院の父の事もあったから…肺って聞くと少し過敏になって…」


「…それならなおさら…言って欲しかった。」


「……」


 千里は顔を上げると。


「俺はそんなに…おまえに吐き出せなくさせてるのか?」


 震える声で…言った。


「言いたい事も…そんな不安になるような事も…俺に言えなくなったのは、俺のせいなのか?俺の何が悪かった?」


 あたしの肩を掴んだ千里の手に、だんだんと力が入って。

 それは少しの痛みを伴うようになったけど…あたしは千里の目を見つめた。


「…あたしは…っ…」


 やっと出た声は少し大きくて…千里は少し身体を揺らせた。


「あたしは…千里にも、そうして欲しかった。」


「…あ?」


「色んな事、もっと話して欲しかったし、相談して欲しかった。」


「……あれか?高原さんから言われた話の事か?でもあ」


「あれだけじゃなくて。」


「……」


「F'sの事も、アズさん達との他愛ない事も…何でもいいから…話して欲しかった。」


「…俺が普段の事を話さなかったから、おまえも話さなかったっつーのか?」


「そういうわけじゃ…」


 千里はあたしの肩から手を離すと。


「聞けばいいじゃねーか。今日はどーした、昨日はどーしたって。俺は話すほどの事じゃねーって思っちまうんだよ。」


 吐き捨てるようにそう言って、どこに行こうか少し悩んで…また向かい側に座った。


「……」


「……」


「…また、だんまりかよ。言えよ。言いたい事。」


 千里がそう言って…あたしは…


「……健康診断の事、言わなかったのは…ごめんなさい。」


 謝った。

 だけど…


「あなたが話すほどじゃないって思う事、アズさんも京介さんもちゃんと家で話してる。」


 あたしは…千里の目を見て言う。


「…あ?」


「いつもあたしだけ何も知らない。F'sのレコーディングの話も、録音が押した話も、千里がBackPackのプロデュースをする事も…」


「おま…古い話を持ち出」


「千里がスタジオの設計に乗り出した事も、ロビーの電光掲示板のデザインを千秋義兄さんに頼んだ事も、おじい様が亡くなった時に幸介義兄さんが来られなかった理由も、本当はまだ歌っていたいから会長になりたくないって思ってる事も!!」


「……」


「どうして話してくれないの!?」


 あたしは…気が付いたら立ち上がってしまってて。

 千里が驚いた顔で…あたしを見上げてる。



 握りしめた両手が痛い。

 それに…

 あたしの事…


 知らない女。

 みたいな顔して見てる千里の目が…



 …痛い…。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る