第23話 「おはよ。」

 〇桐生院華月


「おはよ。」


「……ああ。」


 ドアを開けた父さんは、まだ少し眠そうな顔。


「入っていい?」


「…おまえ、ここまでどうやって?」


「おじいちゃまが暗証番号教えてくれたの。」


「……」


「ついでに、スペアキーも持ってる。」


 あたしがポケットからキーを出して見せると。


「…それなら勝手に入れば良かったのに。」


 父さんはそう言って部屋の奥に歩いて行った。


 …機嫌悪そうだ~。

 そりゃそうか…

 大好きな母さんから、別居を申し出られちゃ…



 父さんと母さんが別居なんて…すごくショックなんだけど。

 聖はすごく普通で。


「親父一人で色々できんのかな。時間出来たら見に行って笑ってやろ。」


 なんて…のんきに言ってた。

 あたしはそんな風には笑えないんだけど…



 別居一日目の昨日は、事務所でも全然父さんを見掛けなくて…

 お兄ちゃんに聞いてみると『ルームで歌作ってるらしい』って。

 …まあ…仕事に来れてるならいいのかな…って。


 だけど帰って、晩御飯の時に父さんがいないのはおかしな感じだった。

 すると、おじいちゃまが。


「千里と二人きりで会えるいい機会だ。」


 って、みんなにスペアキーをくれた。

 …母さんが、お風呂に入ってる時に…ね。


 それであたしは早速、来てみた。

 やっぱり…気になるし。



「朝御飯食べた?」


「…いや、食ってない。」


「そうかなーと思って、買って来ちゃった。一緒に食べよ?」


 あたしはトートバッグからカンカンで買って来たパンを出した。

 あたしのお気に入りは練乳パンなんだけど、父さんは甘いの好きじゃないから、くるみパンとかクロワッサンを買って来た。


「キッチン借りるね。」


 スクランブルエッグとサラダを作って、コーヒーを入れてテーブルに置くと、父さんはベランダに出て外を眺めてた。


「父さん…」


 背中に声をかけると、父さんは振り返らないままで。


「…みんな元気か。」


 小さな声で言った。


「……」


 あたしは父さんの隣に並ぶと。


「うん…元気だけど…変な感じ。」


 手すりに手を置いて、指をもてあそびながら言った。

 しばらく黙ってそうしてると。


「…コーヒーが冷めるな。」


 父さんが、あたしの頭をポンポンとして言った。


「サラダも作ったのよ?」


 父さんの腕に手を回して言うと。


「…全部食えるかな。」


 父さんが小さく笑った。

 それだけの事なのに、すごく嬉しくなった。



「いただきます。」


 二人で向かい合って座って、手を合わせた。


「洗濯してる?」


 サラダを食べながら問いかけると。


「三日ぐらい溜めたらクリーニングにでも出す。」


 父さんは何でもないように、サラッと言った。


「えーっ、もったいないよ。洗濯ぐらい自分でしたら?」


「……」


 あきらかに面倒くさそうな顔。

 そうよね。

 したくないんだよね。


「…今までずっと母さんがやってた事、経験してみるのもいいんじゃない?」


 怒るかなあ…って思ったけど、ちょっと言ってみた。

 だって…最悪の事態に向かう別居じゃないにしても…別居だもん。


「いいチャンスだと思って、父さんも色々出来るようになったら?」


「……」


 父さんは無言でフォークを置くと。


「俺が何もしないから、別居したいって知花が言ったのか?」


 すごく不機嫌そうに言った。


「そうじゃないよ…そうじゃないけど、母さんは今までずっと、仕事をしながら家の事も子育ても父さんの世話も全部して来たんだよ?少しぐらい母さんの大変さに寄り添ってみようって思ったっていいんじゃないの?」


「…俺の世話…な。」


 父さんは足を組んで鼻で笑って…


「手の掛かる亭主だったって事か。そりゃ知花は大変だったな。」


 ムカッ!!


 あたしはすごく目を細めて父さんを見据えて。


「…そうね。母さん大変だっただろうな。男は何もしないのが当たり前って古い頭じゃ、自分の時間もなかなか取れなかっただろうしね。」


 早口でそう言うと、目の前の料理だけは全部口に押し込んで。


「ほしほーははっ!!」


 自分の食器をシンクに運んで、バッグを持ってズカズカと歩いて玄関を出た。

 でも、あっ。と思ってもう一度玄関に入ると、靴箱の上に置いてあったメモ帳を手に洗濯機の前に行って操作方法を書いて。


「いい大人が洗濯機も使えないなんて、カッコ悪いっ。」


 父さんの目の前にメモを置いてマンションを出た。



 あー!!もう!!


「…って…あたしバカ…」


 マンションの外で、立ち止まって見上げた。


 さっきまで…父さんと並んで立ってたベランダ。

 励ましたかったけど…あたしじゃダメなんだよ。

 だって、あたしは父さんに似てる。

 だから、本当は分かってるのに素直になれない父さんの気持ちも…分かる。


 もどかしいな…


 少ししょんぼりしながら歩き始めると。


「…あ…」


 前方から…


「海君。」


 海君が、歩いて来てた。





 〇神 千里


『少しぐらい母さんの大変さに寄り添ってみようって思ったっていいんじゃないの?』


 華月の言葉を思い出して、溜息をついた。


 知花は…そんなに大変だったのか?

 いつも楽しそうに家の事をして、みんなで笑って飯を食って、俺と風呂に入って…

 …風呂は…一人で入りたかったのかもしれねーな…

 俺に合わせて、無理してたのか…



 目の前に並んだままの、スクランブルエッグやサラダ。

 …食欲も失せた。


「……」


 テーブルに置かれたメモを手にする。

 そこには洗濯機の使い方が書いてあった。

 …誰がするか。


 座ったまま、ボンヤリと時間をやり過ごしてると。


 ピンポーン


 …誰か来た。


 だが、立ち上がるのが面倒でそのままにしてると…しばらくして、また。


 ピンポーン


「……」


 これは…玄関だ。

 俺は溜息と一緒に立ち上がると、玄関に向かった。

 華月が出て行ったままで鍵は開いている。


「誰だ。」


 ドア越しにそう言うと。


『二階堂海です。』


 …より気分が重くなる気がした。


 だが、玄関払いするのも大人げない。

 こいつは…咲華の夫だ。


 ゆっくりとドアを開けると。


「おはようございます。」


 海は軽く頭を下げた後。


「少しお時間いただいてよろしいでしょうか。」


 俺の目を見て言った。


「……」


 無言でドアを大きく開ける。


「ありがとうございます。」


 海は…俺の後にいるはずなのに、気配を感じなくて一度振り返ってしまった。

 これが二階堂のトップ…って事か。



「お食事中でしたか?」


 リビングに入りかけた所で、海が言った。

 テーブルにはまだ、華月が用意した朝食が並んでいるからな…


「…いい。座れ。」


 何もできない俺でも、さすがにコーヒーぐらいは入れられる。

 キッチンに立ってコーヒーを入れている間、海はソファーの前に立ったままだった。


「何してる。座れ。」


「それでは、失礼します。」


 コーヒーを目の前に置いてやっと、海はソファーに座った。


「実は明日の朝、こちらを発たなくてはなりません。」


 俺が座ってすぐ、海がそう言って…

 見るつもりはなかったが、顔を上げると目が合った。


「…明日?」


「はい。」


「……」


 まだ…咲華とも大して話してない。

 俺は明らかに落胆したのだと思う。

 そんなつもりはなくても。

 自然と視線が足元にまで下がってしまった。


「咲華さんとリズは、しばらく日本に残ります。」


「…あ?」


 その言葉に視線を上げると。


「私は少し長くかかりそうな現場に出向くので、少なくともそれが終わるまでは。」


 海は表情一つ変えず、そう言った。



 …酔っ払って結婚した。

 そして、それからまだ一ヶ月だと言うのに…

 何なんだ?

 この、咲華の事は知り尽くしている風な…


 それが少し面白くなかった。

 娘の事を一番に分かっているのは、自分でいたかったのかもしれない。

 …知花の事さえ、分かってないのにな…



「…まだ心から認めていただけないのは分かってます。」


「……」


「私は危険な仕事をしていますし、そのトップに立つ人間です。いつ咲華さんに悲しい思いをさせるか分からないと言っても過言ではありません。」


「…酔って結婚した後、すぐ解消する気はなかったのか?」


「リズがいたので、ためらってしまいました。最善の措置を取ろうと考えた所…私達が家族になるのが一番だと…その時はリズ優先で考えていましたが…」


「……」


「思いがけず、彼女に強く惹かれました。自分でも驚くほど、あっと言う間に…でした。」


 自分でも驚くほど…か。

 それを言われて俺は、知花と出会った頃を思い返した。


 あのマンションを手に入れたかった俺は、どうしても誰かと結婚したかった。

 そして…家を出たかった知花と出会った。

 偽装結婚。

 お互いのプライベートには関与しない。


 だが…

 偽装結婚へ向けて、話を合わせている間に。

 まるで本当の恋人同士のような感覚になり始めた。

 マンションを手に入れてからは…俺の知花への気持ちは増し続けた。

 …キッカケなんて…



「…大事な娘さんを悲しませないよう、私は必ず無事に現場から戻ります。」


 ふいに、海が強い声で言った。

 その声に、ゆっくりと…本当にゆっくりと、海を見る。

 なぜ…今まで気付かなかったんだろう。

 随分昔、知花からだったか…噂でだったか。

 そんな話を聞いたような気もするが。

 すっかり記憶の奥に追いやられていた。

 …俺には関係のない話だと思っていたし。



「……」


「……」


 しばらく無言で見つめ合う形になってしまった。


 海は…陸の双子の姉の息子だ。

 陸も姉も、クォーター。

 茶色い髪に、目の色もどことなく日本人離れ。

 だが海は…そんなに茶色くない髪の毛と…

 目元は陸に…つまり母親似だろうが、目は黒い。

 そして、どことなく…見慣れた誰かに鼻筋や口元が…


「…声…ですか?」


 俺がマジマジと見ていたからか、海が少し苦笑いをして言った。


「…何も言ってないが?」


「目が探ってました。」


「…これだから二階堂は…」


「すみません。」


 そうやって、少し話しが逸れた所で…


「玄関、鍵空いてるわよ?勝手に入って来ちゃった。」


 咲華がリズを抱えて入って来た。


「え…どうして?」


 咲華が来ることを知らなかったのか、海は俺と咲華を交互に見た。


 …俺は知らないぞ。


「華月が電話くれたから来ちゃった。」


 咲華は嬉しそうにそう言うと。


「あっ、せっかく華月が作ったって言ってたのに食べてない。」


 テーブルの上を見て頬を膨らませた。


「…あいつが余計な事を言うから…」


 俺が前髪をかきあげて溜息をつくと。


「本当に余計な事だった?」


 咲華は笑いながら、リズを海に手渡した。


「あーん!!」


「ああ、ダメだ。食い物見たから…」


「えー?さっき食べたばかりよ?」


「ああーん!!」


「リズ、あれはリズのじゃない。しー、しー…」


「ふふっ。分かるかなあ~?」


 海と咲華が泣いてるリズをあやす。

 その光景を、何とも言えない気持ちで眺めた。


 結婚して一ヶ月なのに…旅立つ前、最後に志麻と一緒にいた咲華より、今の咲華はとても自然で…

 本当に…幸せなんだろうな…と感じた。



「父さん、食べないの?」


 咲華がテーブルを指差して俺を見た。


「……」


 俺が無言で少し考え込むと。


「ちゃんと食べないとマイナス思考になっちゃうわよ?さ、食べよ?」


 咲華はキッチンでコーヒーを入れて。


「ほら、来て来て。」


 俺の席に座った。


「そっちが俺だぞ?」


「だって食欲ないんでしょ?そっちに座ってクロワッサン食べたら?」


「…華月がつくってくれたんだ。食う。代われ。」


「はいはい。」


「咲華、リズが怒ってる。」


 俺と咲華が席を代わろうとしてると、海がリズを抱えたまま立ち上がった。


「…来い。」


 手を伸ばすと、リズは一瞬泣き止んで海の顔を見て。

 そしてもう一度俺の顔を見て泣きそうになったが…


「お願いします。」


 海がリズを俺に渡した。


「…じー、抱き方が上手いのかしら。顔は怖いのにね。」


 俺と向き合って膝に座ったリズは泣き止んでいて、むしろ笑顔になりかけていて。

 その気配を読んだのか、咲華がテーブルに頬杖をついて言った。


「俺達よりベテランなんだ。当たり前だろ。」


 海が咲華の肩に手を掛けて言う。


「…おまえも座れ。」


「…え?」


「少し食え。そうじゃないと、朝飯食ったんだろうが、咲華は目の前にある物を全部たいらげるからな。」


「そっそんな事ないわよー!!」


「…思い当たる節が…」


「海さん!!」


 それから俺は…

 リズを膝に置いたまま、咲華と海とで食べ始めた。


 …が。


「ははっ。おまえ、そんなにしてまで食…ぶっ…ぶはっ…」


 俺の食ってる塩パンを狙ったリズが、俺の身体をよじ登るようにして邪魔をする。


「目の前で美味しい物食べるじーが悪いわよねえ。リズ、とっちゃえ。」


「こら、リズ…すみません神さん…シャツが…」


「洗えばいい。気にするな。それより…『神さん』はやめろ。」


「…え…」


「知花の事も、こっちにいる間に『お義母さん』って呼んでやってくれ。」


「……」


「……」


 海と咲華が顔を見合わせる。

 俺は興味なさそうに、ムキになって俺の口元からパンを取ろうとするリズと格闘する。



 キッカケなんて…関係ない。

 それは、俺が一番良く知ってるじゃないか。

 酔っ払って結婚なんて、ぶっ飛んでるが…

 二年以上待ち続けて疲れた咲華には…これで良かったのかもしれない。



「…お義父さん。」


 早速そう呼ばれて、少し照れくさい気もしたが…


「…なんだ。」


「ありがとうございます。」


 テーブルに着くほど頭を下げる海。


「…あたしも…ありがとうございます…」


 その隣で、咲華も同じようにした。


「食い終わったら洗濯をするから、教えてくれ。」


 頭を下げたままの二人にそう言うと。


「ほんとに?」


「ああ。」


「動画撮っていい?」


「……」


 ダメだっつーの!!

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