第6話 今日の俺はドラム雑誌の取材で。
〇朝霧光史
今日の俺はドラム雑誌の取材で。
昼をまたぐ感じでインタビューを受けて。
腹減ったなー…と、一階のロビーで社食にするか金田に行こうか悩んでる所に…知花を見かけた。
…確か今日オフだよな。
そう思いながら知花を見てると、知花が見上げてる視線の先には…二階のエレベーターの前に神さんがいた。
ふっ。
結婚して何年だよ。
旦那の姿を片想いみたいな目で追い掛けるなんて。
ほんと、知花は…
「……」
その姿に、少し違和感だった。
神さんを見つめてた知花が、大きく溜息をついたからだ。
「…知花。」
おまけに。
俺が声を掛けたのに…気付かないままエスカレーターに乗った。
あんなに耳のいい知花が、俺の声に気付かないなんて。
…何かあったとしか言いようがない。
オフなのに来てるって事は…会長室に用があるか、オタク部屋だな。
とりあえず、社食に行って軽く食って。
オタク部屋の前まで行った。
元々、何でこんな事が出来るんだ?って知識を持ってる知花は。
オタク部屋が出来てからという物…ここに通い詰め。
この部署に知花のタイムカードが置いてあるって聞いた時は、陸とセンとでゲラゲラ笑った。
オタク部屋は腰高の位置からガラス張り。
元々はデザイン部のショールームとして使われていたようだが、引っ越しがあって空いていた部屋に、里中さんの就職と共にオタク部屋が出来た。
八つの大きな作業台と、部屋の壁周りには工具や部品サンプルが並んでいて。
作業しやすいようになのか、いつも煌々とした照明がついていて明るい。
その分、通路は薄暗く感じてしまう。
きっと、今俺がソファーに座って中を見てる事にも…二人は気付いていないだろう。
今日は作業はしないのか?
二人は紙コップを手に、何かを話してる。
相当な広さの部屋の中での会話は聞こえるはずもなく。
俺はその様子を無言で見ていたが…
突然、里中さんが知花の腕を掴んで…別室に移動した。
「……」
おい。
里中さん。
知花は…神さんの嫁だぜ?
知ってるよな?
しばらくその部屋のドアを眺めてると…ゆっくりとドアノブが動いた。
俺は目を細めたまま、膝に肘を着いた姿勢でそこを見てた。
「……」
すると、開いたドアの向こうから…里中さんが出て来て…俺に気付いた。
里中さんは一瞬固まったが、首をすくめて小さく溜息をつくと…オタク部屋から出て来て、俺の隣に座った。
「何かあったみたいだけど…俺は聞いてない。」
「何かあったとは…?」
「さあ。涙ぐんでたから。」
「……」
「…はあ。」
里中さんは溜息と同時に膝を叩いて立ち上がると。
「俺もスタジオのアンプチェックに行って来よう。」
そう言って一度オタク部屋に戻って、書き置きを残しているようだった。
知花は全く気付いてないんだろうけど…
里中さんは、知花に惚れてる。と思う。
あれだけの知識がある女、同類から見たら魅力的なはずだ。
なんなら…さくらさんの事も、好きになる勢いかもしれない。
…いや、それはないか。
しばらくすると、別室からオタク部屋に戻った知花は書き置きを見て…肩を落とした。
俺が相変わらずそれを眺めてると、やっと俺に気付いた知花。
ヒラヒラと手を振ると…少しバツの悪そうな顔をした後、部屋から出てきて。
「どうしたの?基盤でも見る?」
少し無理な笑顔をして…そう言った。
…見ねーって。
〇桐生院知花
ああ…やだ。
本当…あたしってバカ…。
「何か飲むか?って…さっき飲んでたか。」
あー…そんな所から見てたの?
千里とランチをして…高階宝石に行って…
一緒にショーケースを眺めて…
すごく…楽しかったし、幸せだった。
だけど、千里が仕事に行くと思うと…一人で帰るのが嫌で、あたしは里中さんの仕事場に行った。
作業してると、頭の中がクリアになっていいと思ったから。
今日はスタッフ全員がスタジオのアンプの点検で出払ってて。
里中さんと話してると…何となく…涙が出てしまった。
あたし自身…何でそうなったのか分かんない…
里中さんに準備室に連れて行かれて…そこで少し泣いて。
作業室に戻ると、里中さんはいなかった。
作業台の上にメモがあって、それに『俺もスタジオ行って来るから』と。
…迷惑かけちゃったな…と思って溜息をついてると…
通路の椅子に、光史がいる事に気が付いた。
で…
二人でSHE'S-HE'Sのルームに。
「だいたいおまえが悩むって言ったら神さんの事なんだろうけど…何かあったのか?」
光史は自分のお茶だけを入れて、椅子に座った。
あたしは光史の言葉を頭の中で繰り返して…
「…あたしが悩んでるのは…」
あたしが悩んでるのは…
千里の事じゃない。
…よね?
「ん?」
「…ううん…なんか…表現しにくいって言うか…」
両手で頭を抱えて、はー…って大きく溜息をつく。
もう…
すごく幸せな気分だったのに…
どうしてあたし…こんな溜息ばっかり…
「聖子とか瞳さんには相談したのか?」
光史の言葉に首を横に振る。
こんな事…誰にも言えない。
だって…
どう言っていいか分からない。
あたしの中にある、何か…ドロドロした物…
「…ま、あの二人には相談しにくいよな。口止めしたにも関わらず、直接神さんにズケズケ言うって事あるし。」
光史はあたしが落ち込んだ顔をしてるのを見て、少し冗談ぽく…そう言ってくれた。
「でも、溜め込むなよ?おまえ、すぐ不調になるんだから。」
「…うん。」
「俺で良ければ聞くけど。」
「……」
その光史の言葉に…あたしは少し動かされたのかもしれない。
誰に打ち明けたらいいか分からなかった事。
近い人に言いたい。
だけど、近過ぎると千里に分かってしまうかもしれない。
光史なら…
「…上手く…言えないんだけど…」
「うん。別に綺麗に話さなくていいから、思ってる事言え。」
「…ありがと…」
それからあたしは…光史に話し始めた。
まとまりのつかないあたしの、ドロドロした気持ち。
光史は真面目にそれを聞いてくれて…
「…知花、俺…実は…」
「……」
そしてあたし達は…
秘密を持った。
〇高原さくら
今日は知花と千里さんの結婚式記念日で…千里さんの誕生日。
愛娘である知花の、大事な大事な旦那様の誕生日だもの。
あたしはもちろんだけど…なっちゃんも張り切った。
「えー?これ、おじいちゃまが作ったの?」
華月がテーブルの上に置いたパイをまじまじと見て言った。
「そうよ?初めてにしては、見た目はいいでしょ。」
あたしが腕組みをして言うと。
「見た目はいいでしょ。なんて、失礼だな、さくら。」
エプロンをしたなっちゃんが、シャンパンをグラスに注ぎながら低い声で言った。
「おじいちゃま、座ってて?それはあたしがやるから。」
優しい咲華がそう言ったけど。
「俺がやりたいんだよ。去年は、ほぼずっと病院にいたからな…みんなに心配も迷惑もかけたし、こうした祝いも一緒に出来なかったから。」
「そうよ咲華。年寄りの楽しみを奪わないで?」
「誰が年寄りだ。」
「いつも家では年寄りって自分で言うクセにー。」
あたしとなっちゃんがグラスとシャンパンを手に言い合ってると。
「イチャつくなよ年寄り…血圧上がるぜ?」
華音があたしの手元のグラスを一つ取って言った。
「華音。覚えてろよ?」
「最近物忘れ激しくて…」
…ああ…
平和だ~…
一昨年のイベント以降、ほんっと…なっちゃんは入退院を繰り返して。
あたしはー…その間に…自分の記憶を取り戻したくて。
反対されたけど。
色んな人に、反対されたけど。
すごく、反対されたけど。
なっちゃんの…『行って来い。そして、戻って来い。』って言葉に…背中を押されて。
…行った。
あたしが…なっちゃんと出会った街。
そして…あたしが、記憶を失くした街。
あの頃…あそこで何があったのか。
全てを思い出した時…
あたし、本当に自分が嫌になった。
消えてしまいたくなった。
だけど…闘ってるなっちゃんを想うと…そんな事出来ない。
それに、行って来いって言ったなっちゃんは…
あたしを信じてくれてた。
…うん。
だから、どんなに辛くても…
あたしは、帰るしかないんだ…って。
なっちゃんの所へ、帰るしかないんだ…って。
全てを思い出したあたしには、自分がなっちゃんに相応しい人間だなんて思えなくて。
本当は…何度も帰国をずらしてしまって…
向こうで、自分と闘ってた。
…って言うか…
見ないフリ…してたのかな…
あたしにも怖い物はある。
まさかそれが…自分の過去だなんて。
…悔しいよ。
でも、あたしは戻って来た。
なっちゃんの所へ。
あたしの罪は消えない。
消えないけど…それを抱えたままのあたしでもいいんだ…って。
なっちゃんが言ってくれたから…
あたしとなっちゃんをあの街で再会させてくれた廉君と晋ちゃん。
彼らのためにも…あたしは幸せにならなくちゃって。
強くそう思った。
そしてそれは…今、手に入ってる。
不安が全くないわけじゃないけど…
あと何年…なっちゃんと一緒にいられるか分からないけど…
だからこそ、毎日を、この瞬間を、あたしは大事にしたいって思ってる。
「アメリカンチェリーパイが焼けるジジイ…事務所の奴らが知ったら、驚きそうだな。」
パイを切り分けてるなっちゃんの隣で、華音がお皿を持って言った。
「誰の孫だ?この減らず口。」
なっちゃんが目を細めてあたしを見る。
「なっちゃんの孫らしいよ?」
あたしは、そんななっちゃんの腕に少しだけ身体を預ける。
「俺の孫は可愛いはずなんだが…」
ああ…幸せだなあ。
「ふふっ、もう。父さんも母さんも、もう座ってて?千里が待ちくたびれちゃってる。」
知花に言われてテーブルを見ると、千里さんがついてないテレビの方を向いて寝転んでた。
…珍しい。
なっちゃんが立ってるのに、寝転んでる千里さんなんて。
知花と何かあったのかな?って思ってたけど…高階宝石で千里さんに買ってもらったっていう指輪をキラキラさせながら、知花の笑顔もキラキラだし。
…まあ、二人ともお互いを大好きだから…大丈夫だよね?
「ごめんねー?千里さん。主役を待たせちゃって。」
あたしがグラスとお皿を千里さんの前に置いて、顔を覗き込むと…
「……」
「…あれ?千里さん…?」
これって…
「知花、千里さん…」
キッチンを振り返ると、みんながそこにいて…いくら広い家でもギュウギュウって感じで笑ってしまった。
あっ、笑ってる場合じゃない。
「何?」
エプロンを外しながらやって来た知花。
「…熱、じゃない?」
あたしが千里さんを見下ろして言うと。
「……やだ。千里、いつからこうだったの?」
千里さんの額に手を当てた知花は立ち上がってキッチンに行くと、冷凍庫から保冷剤を出して来て。
「部屋行こう?」
テキパキと…千里さんの脇に入り込んで身体を起こした。
…知花、意外と力あるのね?
「母さん、俺がやるよ。」
「ううん。いいからみんなで食べてて。」
「えっ、でも母さ…」
華音が続きを言いきる間もなく…知花は千里さんを部屋に連れて行った。
…こういう時って、知花…すごいよね。
「知花は風邪なら俺にうつしちゃまずいって気を使ってくれたんだろうが…千里、主役なのにな。」
なっちゃんが申し訳なさそうに言うと。
「いや、マジうつるといけないから、母さんアレしとこうぜ。俺持って来るわ。」
聖がお皿を置いて納戸に向かって行った。
「父さん大丈夫かな。風邪なんて…ひかないのにね。」
華月が心配そうに言うと。
「へーきへーき。何だかんだ言って、母さんと二人きりになれるんだから。父さんには結果オーライ。パイ、いただきまーす。」
なっちゃん作のアメリカンチェリーパイ。
どれだけ楽しみにしてくれてたのか…咲華は、笑顔でそれを口に運んだ。
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