第5話 急に千里がランチに誘ってくれて。

 〇桐生院知花


 急に千里ちさとがランチに誘ってくれて。

 あたしは…飛び上がるほど嬉しい気持ち…な、はずなのに…

 複雑でもあった。


 だけど、今朝も咲華さくか華月かづきに欲しい物がないかって聞いたり…

 千里が、『ただそこにいるだけ』じゃない事をしてくれてるって思うと…嬉しかった。


 本当は…

 最近元気がないって気付いてくれただけで…嬉しかったけど。

 …あたし、どこまで欲張りになってるんだろう。


 自分の中で、色々考えてしまう出来事があった。

 だけどあたしは…それを千里に打ち明けるチャンスを逃してしまって…

 一度飲みこんでしまうと、もう…なかなかそれを口に出す事が出来なくて。

 悶々と…自分の中で、何とか消化してしまおうって…


 だけど。

 だけど、あたし…このままでいいの?って。

 毎日…そんな想いのまま…



「これなんてどうだ?」


 千里がショーケースの中を指差して言った。


 今日は二人でランチをして。

 その後、まさかって感じで…千里が千幸ちゆき義兄さんのお店『高階たかしな宝石』に連れて来てくれた。


 もうすぐ千里の誕生日で…結婚式記念日。

 それでなのかな…?

 こんなに優しくしてくれるの。



 あたし達は再婚してるから、記念日が複雑で。

 最初の入籍からは…もう31年目だけど…一度別れたし。

 再入籍の日は覚えにくいって理由で…記念日は結婚式をした千里の誕生日になった。


 …だから、結婚して何年?って聞かれると…

 あたしはいつも少し悩んじゃうけど…

 千里は、記念日は結婚式の日を言うクセに、『結婚して31年目』って…堂々と言う。


 …本当は、それもすごく嬉しい。

 空白の三年も、ちゃんと想ってたって言ってくれてるみたいで。



「こんなに大きな石、いつするの…」


「誰かに『変な小走り』って言われた時に、そいつに向けてみるとかさ。」


「もうっ、何よそれ。」


「カエルになるかもしんねーぞ?」


「やだもう。」


 千里がふざけて、あたしの前髪に触れる。

 それが嬉しくて…つい、はしゃいでしまった。



「千里。その石に、そんな呪いの力はないぞ。」


 いつの間にか、千幸義兄さんもそこにいて…千里が勧めてくれた、大きなエメラルドの指輪を見て笑った。


「あっ…お義兄さん、お久しぶりです。」


 あたしが背筋を伸ばして挨拶をすると。


「どこのカップルがイチャついてるのかと思ったら…我が弟夫婦だとは。」


 千幸義兄さんは笑いを我慢した様子で、そう言われた。

 …そんなにイチャついてたかな?


「何か気に入った物はないのか?」


 千里があたしの肩を抱き寄せて、ショーケースを眺める。

 気に入った物…って言われても…

 何だか舞い上がっちゃって、何も目に入らない。


 この歳になっても…こんなに夫の事が大好きなのって…どうなのかな。

 聖子も瞳さんも、それぞれ旦那さんの事を好き…とは言わないけど…

 愚痴や悪口の中にも、ちゃんと愛があって。

 最後には『でもあたしじゃないとダメな奴だからねー』って…


 …千里は…どうなのかな。

 あたしじゃないと…ダメなのかな…


 …あたしの『好き』は…今も大き過ぎて。

 自分でどうしていいか分からなくなる時がある。

 …こんな事、誰にも言えないよ…


 もう、結婚した16歳の時から…31年も経つのに…

 近くにいる分、気持ちが大き過ぎて…欲張りにも贅沢にもなる。


 …苦しい。

 千里の事…

 愛し過ぎて…



 苦しい。




 〇里中健太郎


「あれっ?今日オフだったんじゃ?」


 俺がそう言うと、知花ちゃんは首をすくめて。


「家に帰っても一人だし…来ちゃいました。」


 可愛い仕草で言った。


 …家に帰っても…って事は、出かけてたんだな。


「神と飯でも食って来た?」


 俺がスピーカーをバラしながら問いかけると、知花ちゃんは口元に手を当てて。


「えっ…」


 何とも…分かり易い。


「あははは。何もついてないよ。いつもより少しオシャレだから、そうかなって思っただけ。」


「す…鋭いですね…里中さん…」


 …うん。

 いつもは作業しやすいように、パンツスタイルだけど…

 今日はスカート。

 どう見ても、お出かけしたって感じだ。



 今日はガラス張りのこの部屋の中、俺一人の作業。

 と言うのも、八階のスタジオにあるアンプやスピーカーの点検で、スタッフ全員が出払っているからだ。

 ま、俺は一人で地味に作業するのが好きだから…こういうのがたまにあると嬉しい。



「幸せがにじみ出てるよ。羨ましいな。」


 電ドラを持ち直して言うと、知花ちゃんはエプロンをしながら。


「…また『幸せボケしてんのか、こるぁあああ』って叱られないようにしなくちゃ…」


 小さくそう言って笑った。


「…ごめん。もう…俺、スイッチ入るとわけわかんなくなるから。」


 俺は…どういうわけか、SHE'S-HE'Sのプロデューサーに抜擢されて。

 一昨年のBEAT-LAND Live aliveでは貴重な経験をさせてもらった上に…その後で発売されたSHE'S-HE'Sのアルバムも、手掛けさせてもらった。


 ずっとダメ出しをしてしまったが…それに根を上げず頑張ってくれたメンバー達。

 その結果生まれたアルバムは、SHE'S-HE'Sの中でも最高傑作と言われた。


 …今も一人であれを聴くと…鳥肌が止まらない。

 俺が作った物…っていう気持ちでじゃなく。

 SHE'S-HE'Sの凄さに、だ。



「いいえ、これからも厳しくお願いします。」


 へこたれない彼女にもまた…俺はパワーをもらっている。

 ま…

 神の嫁だから、変な気は起こさないけど。

 ただ、この『オタク部屋』と呼ばれてる作業室の中だけでは…勝手に、一番近い存在だ…って、心の中で決めつけてるんだけどな。

 神は何でも出来る奴だけど、電子基盤にまでは興味はないし。


 いやー…本当、残念。

 神の嫁じゃなければ、マジで結婚を申し込みたい女性ナンバーワンだ。

 気が利くし、優しいし、いつぞやこの部署みんなに差し入れしてくれた手料理も絶品だったし。


 歌も上手い、楽器も弾ける、それに何より…俺以上のオタクだ。

 彼女の泉の如く湧き出る興味と幅広い知識。

 なかなか、こんな女性とはお目にかかれない。



 アメリカに居た時、結婚を意識した事が一度だけあったが…

 スタッフが声をかけてくれないと、食うのも帰るのも忘れて仕事をしてしまう俺。

 そんなダメ男に、恋愛なんて上手く行くはずがない。

 その点…

 ここでは、タイムカードと言う物が存在しているがゆえに…俺はまともな生活を送る事が出来て。

 母の通院にも、付き添う事が出来ている。


 俺なんかに目を掛けてくれた高原さんには、感謝しかない。



「里中さん。」


「ん?」


 また、昨日みたいに『夕べ思いついたんですけど、HFTの裏にSRTを取り付けたらどうなるんですかね?』なんて意見が出て来るんじゃないかと思うと、俺は少しワクワクしながら次の言葉を待った。


「あの…」


「何?」


「…好きな気持ちって…どれぐらい続く物だと思いますか?」


「……」


 すごく意外な事を聞かれて、俺は目を丸くした。


 好きな気持ちって、どれぐらい続くか…?


「…機械いじりが……?」


「……いえ…その…」


「なわけないよなぁ…」


「……」


 誰か、を。

 好きな気持ち。

 それがどれぐらい長続きするか…。


 って。

 …それを俺に聞くかな。

 自分で認めたくはないが…枯れ果てたオッサンだぜ?


「あっ…へ…変な事聞いて、ごめんなさい。」


 丸い目をしたまま無言な俺を見て、知花ちゃんが慌てた。

 俺は部屋の隅に置いてあるポットで紅茶を入れると、一つを知花ちゃんに渡して、自分にはコーヒーを入れた。


「…ありがとうございます…」


「それってさ、相手にもよると思うけどね。」


「…相手?」


「例えば、俺の数少ない恋愛経験の中で言わせてもらうと…音楽以上に夢中になれる相手っていうのがいなくて…好きって気持ちも長続きしなかったかな。」


「……」


「でも、音楽に対しては一途だから…まさに俺の想い人は音楽だな。」


「音楽…」


「俺を常に刺激してくれるし、色んな角度で色んな面を見せてくれる。それによって、自分もこうありたいとか、こうしたいとか…相手が自分にとってそういう人なら、俺も大恋愛出来たかもな。」


 俺が淡々としゃべるのを、知花ちゃんは紙コップを持ったまま静かに聞いて。


「…電子基盤は浮気相手?」


 少しだけ笑って言った。


「そこは音楽にひっくるめてくれよ。」


「ふふっ…そうしておきます。」


 神の事で悩んでんの?

 聞きたい気もしたが…やめた。

 夫婦の問題に首を突っ込むのは良くない。

 打ち明けられたら相談には乗るけど…わざわざこっちから聞きだして、のめり込むのも困る。


 …それぐらい…

 俺は、知花ちゃんへの気持ちをセーブしてるって事になる。


 いやいや…ダメだろ俺。

 今年で51になるんだぜ?

 神みたいに人前で歌う事もないし、今から誰かと頑張って恋愛なんて…

 もう『枯れたオッサン』で十分だ。


 平常心平常心…



「どこからどう見ても、神は知花ちゃん一筋だな。もしかして、神が若手を育ててる事で問題でもある?」


 朝霧さんから押し付けられたと聞いたBackPackも、意外と成長した。

 神はきっと、俺に劣らないスパルタだと思う。



「え…っ…」


 紙コップを置いて作業台に戻ろうとして…ギョッとした。

 知花ちゃんが…泣きそうな顔をしてる。


「どっ…どー…」


 ぶっちゃけ…こういうのには慣れてない。

 俺が少し慌ててしまうと、知花ちゃんは苦笑いしながら首を横に振って。


「ごめんなさい…あたし…どうかしてて…」


 少しだけ、目元を拭った。

 BackPackの事で…何かあったのか?


「……」


 ここは…ガラス張りの部屋。

 幸い、通路に人はいないが…


「ちょっと、こっちへ。」


 俺は知花ちゃんの腕を掴んで、準備室へ。

 ここなら…人目につかない。


 本当は…話しを聞いてあげたいけど…

 前にも述べたように、セーブ中らしい俺には、密室に二人きりはヤバい。


「…落ち着いたら、戻って。」


 知花ちゃんを椅子に座らせて、肩をポンポンとする。


「…ありがとうございます…」


 知花ちゃんの細い声を聞きながら作業室に戻ると…


 通路のソファー。

 目を細めた朝霧が、組んだ足に肘を着いて俺を見てた。

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