第4話 「おはよ。」

「おはよ。」


「…おはよう。」


 いつものように…俺が起きて大部屋に入った頃には、知花ちはなはすっかり行動的で。

 たぶん今朝は軽く走って来て、シャワーも済ませてるはず。


 で。

 我が家で一番出勤の早い咲華さくかのために、朝食を作っている。


「おはよう。」


 大部屋に入って来た咲華は、月に二度ぐらいしか見かけない珍しいパンツスーツ。


「あ、母さん…あたし今日はご飯だけでいいわ。」


 咲華が少し元気のない声で言った。

 その言葉に、俺も知花も咲華を見る。


「ご飯だけって…調子悪いの?」


 普通に飯を一杯食えば、調子が悪いとは思われないのかもしれないが…

 咲華は毎朝、トーストを食った後に飯を食う。


「んー…ちょっとダイエットしようかなって。」


「ダイエット?咲華、太ってないじゃない。」


「今は太ってなくても、このまま食べてたら将来が怖いから。少しずつ人並みに…って思って。」


 咲華は冷蔵庫からドレッシングを出したり、俺の前に湯呑を置いたりしながらそう言った。


 …確かに、咲華はよく食う。

 桐生院家で、一番の大食漢なのは間違いない。

 ただ…咲華の食いっぷりは、本当に気持ちがいい。

 俺はそれを見るのが好きなんだが…


「ダイエットなんかするな。普通におまえのペースで食え。」


 新聞をたたみながら言うと。


「…将来太ったら『あの時父さんがあんな事言うから!!』って責めるわよ?」


 咲華は真顔。


「俺と知花の娘だぞ?太るわけがない。」


 咲華の目を見て言うと、咲華は知花を振り返って首をすくめた。



 朝は…なるべく咲華が朝飯を食う時に、一緒にいるようにしている。

 ビートランドに所属してる俺と知花、華音と華月は時間が不規則な事が多かったり、遠征があったり泊まりがあったりもする。

 不規則な中でも事務所で会うが、咲華とは『行ってきます』と家を出てからは、帰って来るまで会う事はない。

 だから、確実に会えるであろう朝飯だけは…できるだけ、咲華と。



「…咲華。」


 お茶を飲みながら、視線はつけたテレビに向けたまま問いかける。


「何?」


「何か欲しい物はないか。」


「……」


 返事がないと思って咲華を見ると、咲華は首を傾げて眉間にしわを寄せて俺を見ていた。


「…何だその顔は。」


「…あたしに言ったの?って思って。」


「咲華って言ったよな?」


「うん…だけど…華月と間違えてるのかなって思ったから…」


「間違えてない。」


「……」


 咲華はゆっくり知花を振り返ったり、遠慮がちに俺を見たり…

 で、結局…


「特に…今これと言って…ないかな?」


 すごくゆっくりな口調でそう言った。


「服とか靴とかバッグとか。」


「…今ある物で十分…」


「欲のない奴め。」


「……」



 華月は、何か欲しい物があるかなんて聞いたら、次から次へとリクエストする。

 そう言えば、咲華は昔から何かをねだったりした事がないな。

 …二階になりたい。って無理な事を言い続けていた以外は。


 あの頃の咲華は本当に可愛かった。

 いや、今でも可愛い娘には違いないが。


 誰にでも笑顔で、少しませてて。

 俺は…咲華に悪い虫がつくんじゃないかと心配でたまらなかった。

 これだけ可愛いんだ。

 絶対学校中の男が目を付けてたはずだ。

 親バカと言われようとも、俺はそう信じて疑わなかった。


 華月も負けず劣らず可愛い娘だが…

 あいつは独特な空気を持っていて。

 自分が心を開いている人間以外には、笑顔は見せない。

 おまけに学校には変なメガネと三つ編みで通って、モデルをしている事は卒業までバレなかった。


 華月は俺に似てる。

 だからなのか…あまり心配もしてなかった。

 きよしもそばにいたし、まあ…詩生しおとくっつくかもしれないって言うのは、想定内というか…

 本当にそうなりそうになってからは、むしろ…詩生しおがどれだけ華月を守れる男に成長するか、見守っている。


 …咲華には、俺の見える所に『男』がいなかった。

 だから心配もした。

 知花に似てるから、余計心配な所もある。

 すぐ騙されそうだ。

 実際、咲華のファンは数人いた。

 が、本人はそれに気付いていない。

 俺はそれに何度やきもきした事か…


 志麻を連れて帰った時も。

 陸には悪いが、二階堂の男と付き合うなんて許せない。と思った。

 危険な仕事をしている男なんて…

 いつか咲華が泣くような事になったらと思うと、いい顔は出来ない。


 だが、咲華は志麻を愛して止まない。

 もう婚約から二年以上経つと言うのに、咲華は志麻の事を辛抱強く待っている。

 婚約から三年経ってしまう冬までに来なければ…

 結婚の約束はなかったことにして、別れて欲しいと思う。



「ごちそうさまでした。」


 咲華が手を合わせてそう言って。


「今日も美味しかった。」


 食器を運ぶ。


「お昼までにお腹すかない?」


「仕事に集中して紛らわせるから。」


 咲華が大部屋を出て行くと同時に、華月が起きて来た。


「おはよー…」


「あら、どうしたの?いつもより早いわね。」


「目が覚めちゃったから…」


 朝の華月は…ボンヤリしている。

 咲華は起きてすぐでもきちんとしているが…華音と華月は起きてしばらくは、ボンヤリだ。

 まあ、外ではちゃんとしていると信じたい。



「…華月。」


「……ん?」


 男物の長袖の白Tシャツに、赤いダボダボなスウェット。

 長い髪の毛は適当な感じに後ろで二つ折りにして結んでいて、それがあちこちにピンピンはねている。

 化粧品のポスターなんかだと、我が娘ながら世界一の美人だ。と、惚れ惚れしてしまうが…

 朝の華月は、本当に…ガキの頃のままだ。



「…何か欲しい物あるか?」


「……」


 知花の隣でグラスに牛乳を注いでいた華月は、それを持ってゆっくり俺の前に座ると。


「…買ってくれるの?」


 眠そうな目を擦りながら言った。


「…何が欲しい。」


「チョコちゃんとこのコート。」


「コート?まだ今から夏だぞ?」


千幸ちゆきおじちゃまのお店のアンクレット。」


「……」


「来年の春の授賞式に着て行くドレス、七生さんちにオーダーしていい?」


「…チョコのコートは高原さんにねだれ。アンクレットは詩生に。ドレスはオーダーしてやる。」


「やったー。父さん、ありがとう。」


 華月は寝起きにしては珍しく笑顔になって。

 大きな一枚板のテーブルをぐるりと回って俺の隣に来ると。


「嬉しい~。父さん大好き。」


 そう言って俺の腕に抱きついた。


 …知花も咲華も、こうしてくれると…俺は嬉しいんだがな。



「…何かやましい事でもあるの?」


 ふいに、華月が小声で言った。


「…あ?」


「母さんに口止めしなきゃいけないような事。」


「…あるわけない。なんでそんな事を聞く。」


 バカ。

 いくら小声でも、知花は地獄耳なんだぞ?


 俺はキッチンにいる知花の背中に視線を向ける。

 …聞こえてないか…?


「だって…誕生日でもないのに、ドレスオーダーしていいなんて。」


「何か買ってやりたいって思っただけだ。」


 華月は俺から離れると。


「そ?ならいいけど。あー、楽しみっ。」


 そう言って定位置に戻った。


 やましい事なんて…あるわけがない。

 俺はずっと、知花一筋だっつーの。






「知花。」


 洗濯物を干してる知花に声をかけると。


「なあに?」


 知花はキョトンとして振り返った。


 …なぜキョトンとする。

 あ、珍しいからか。

 洗濯干し場に俺が現れるなんて、それこそ何十年ぶりだ。


「おまえ、今日オフだよな。」


「ええ。」


 今日の俺は二時から夜まで。

 それなら…知花と二人の時間も取れる。


「早めに行って、昼飯でも食わねーか?」


「……」


 俺の言葉に知花は手にしていたタオルを床に落として。


「ど…どうしたの…?」


 少し難しい顔をした。


「…何が。」


「だって…今朝も、咲華と華月に欲しい物ないかって…」


「…やましい事なんてないぞ?」


「分かってる。」


 …やっぱ聞こえてたのか?

 義母さんの野生的聴覚ほどじゃねーが、知花と華音の地獄耳もあなどれない。


「可愛い娘達に何か買いたくなる事なんて、普通にあるだろ。」


「そ…そうだけど…」


「おまえだって、咲華にピアス買ってるじゃねーか。」


「あれは…」


「あれは?」


 知花は少し考え込むような顔をしながら、床に落としたタオルを拾うと。


「……うん。お昼ご飯、行く。」


 顔を上げて、言った。


「よし。」


 知花の頭をポンポンとして、俺は意気揚々と大部屋に戻って、テーブルに出しっぱなしにしてた、F'sのスケジュール表をもう一度眺める。


 …ビートランドを引き継ぐとなると…

 俺は、どこまでF'sをやっていられるんだろう。

 高原さんは、Deep Redを職業とはしていなかった。

 会長として、ビートランドを動かして…たまに、息抜きと言うか気晴らしと言うか…

 その程度のペースでしか、Deep Redをしていなかった。


 いや…

 煮詰まった時のパワーにしていたのかもしれないが…それは本当に…数年に一度。


 ビートランドを引き継いで欲しいと言ってもらえるのは光栄だが、俺は…どうしても、まだまだ現役でF'sのフロントマンとして歌っていたいと思ってしまう。




「一緒にランチなんて久しぶり。」


 香津に行こうと思ったが、電話をしたらいっぱいだった。

 そんなわけで、知花が以前高原さんと来たというフレンチ。


 高原さんとフレンチ…な。

 そんなの聞いた事ねーけど。


 こうしてみると、俺だって知花から聞かされてない事はいっぱいだぜ?

 義母さん、なんだって…



「…F's、また何か出すの?」


 スープを飲んでると、知花が言った。


「あ?なんで。」


「最近、よく会長室に呼び出されてるでしょ?何か作るのかなって、みんな噂してた。」


「……」


 呼び出されるのは…高原さんの隠居の件だ。

 知花に相談してみろとは言われたが…

 何となく、話す気にならねー。


 知花がダメなんじゃなくて。

 俺が、ダメなんだ。

 受け入れられない。

 引き継ぐって事を。



「俺はライヴでもやりてーんだけどな。」


「ライヴ?反対されてるの?」


「いや…個人的にしてーなーって思ってるだけで、まだ打診してない。」


 ライヴもツアーも、F'sとしてはまだ経験してない映。

 恐らくDEEBEEの時とは全く違うパフォーマンスになるはずだから…早く慣れさせたい気持ちも強い。

 テレビ出演の話もないしな…


 ビートランドのアーティストには、基本マネージャーはついていない。

 高原さんがこまめにスケジュール管理をして、各アーティストに『後は自己責任』と任せるからだ。

 反対に、俳優やモデルにはマネージャーが付いている。


 アメリカ事務所では、沙都にマネージャーが付いて以来、数人のソロアーティストがマネージャーを付けたと聞いた。

 …まあ、人それぞれだ。

 沙都みたいに音楽にのめり込みやすい奴には、身の回りの事を気にかけてくれる人物が要る。



「いつまでも高原さんに任せっぱなのもいけないよな…テレビ出演や他のマネージメントも、全部やってくれてたし。」


「……」


「思い切って、全アーティストにマネージャーつけたらどうかって相談してみるかな。」


 俺は淡々とそう言いながら食べ進めたが…

 知花はさっきから手にしたスプーンが止まってる。


「…どうした?」


 首を傾げて問いかけると。


「…まだ、お父さんって呼ばないのかなって…」


 知花は小さく苦笑いしながら言った。


「あー…」


 俺は髪の毛をかきあげて。


「どうも敷居が高いんだよなー。アズなんか、とっくの昔にそう呼んでいい立場になってんのに、いまだに『高原さん』って呼んでるしな。」


 首をすくめた。


 あの大物を『父』と呼べるのは光栄だが…

 なかなかそれには勇気がいる。


 知花は、仕事中は『高原さん』でプライベートだと『お父さん』と使い分けてる。

 そういう所は器用だなと感心するんだが。



「そう言えば、治ったのか?」


 この葉っぱは好きじゃねーなーなんて思いながら、口にする。

 にがっ。

 もしかして飾りだったか?


「……」


 無言の知花を見ると、なぜか…少し驚いた顔。


「どうした?」


「…治った…って?」


「五月病って言ってただろ?」


「……あー……うん…」


「……」


 それから、お互い無言になった。

 これは…まだ五月病だな。

 そういう時って、無理にやる気がないのを奮い立たせるより、のんびり構えてた方がいいんだっけな…

 買い物ぐらい一緒に行って、少し元気になればいいんだが…

 スーパーみたいな、めったに一緒に行かない場所への買い物は、俺が知花に釘付けになるからな…

 普段行くような所…


 あ。

 あそこなら…

 もうすぐ結婚式記念日(俺の誕生日)だし、何か…。

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