第22話 「こんにちは。」

 〇志麻


「こんにちは。」


「まだ準備…あら!!お帰りなさい!!」


 準備中の札がかかってた『あずき』のドアを開けると、おかみさんが元気のいい声で出迎えてくれた。


「朝子ちゃん、お兄さんだよ。」


 おかみさんが厨房に声をかけてくれて、奥から朝子が出て来た。


「あ、お兄ちゃんたら。部外者なのに入って来て。」


「お土産。」


 紙袋を差し出すと。


「わっ、ありがと。」


 朝子は笑顔になった。


「お兄さん、座って座って。」


 おかみさんがお茶を入れてくれて、俺はカウンター席に座る。


「ささやかですが…お土産です。」


「あら~、いつも悪いわねえ。」


「いえ。妹がお世話になってますから。」


「もう、いいお兄さんだねえ。」


「でしょでしょ?」


「おやおや、甘えっ子だこと。」


 朝子の笑顔を見ていると…安心する。

 まだ顔に傷は残っているが、それでも…やっと幸せになれた。

 …気に入らない男ではあるが、あいつに感謝しなくてはと思う。



「…お兄ちゃん。」


 ふいに、朝子が小声で言った。


「ん?」


「三日前に…海君に会ったの。」


「え?」


「…手術、受ける事にした。」


「…そうか。」


 それは…待ち焦がれた報告でもあった。


 朝子の顔の傷…

 それがあってもなくても、俺には関係なく…愛しい妹に違いないが。

 朝子自身に、それは必要ないと思っていたからだ。



「それで、急なんだけど…検査もあるし、週末からアメリカに行く事にしたの。」


「…本当に急だな。」


 そうは言ったものの、俺は少し笑顔だった。

 朝子の傷がなくなる。

 それは…朝子が色んな苦悩から解放されるという事でもあった。


 週末からアメリカ。

 実はこの件はすでに、空お嬢さんのご主人である渉さんから話を聞いていた。

 一番近い検査日も教えて下さり、それまでに朝子が決断するかどうか。

 もし朝子が決められないなら、何とか説得しようと思い、帰国を二日早めたが…


 …良かった。

 来週の向こうの現場の応援に行く事にすれば、検査に付き添える。



「あっ、そう言えば…咲華さんに会ったよ?」


「……」


 ふと…胸が痛くなった。


「寂しそうだった。早く会いに行ってあげて?」


「…ああ、そうだな。」


「仲のいい兄妹で羨ましいって笑ってくれた。咲華さんって、本当…柔らかい雰囲気の美人だよね。」


「……」


 咲華とは…明後日、入籍の約束をしている。

 あの時、咲華を待たせすぎている事への罪悪感も手伝って…入籍の気持ちが強く湧いた。

 嫌なわけじゃない。

 そうじゃない。

 だが…なぜか、また…悩み始めている俺がいる。


 俺が関わるのは…危険な仕事だ。

 実際…咲華のお父さんだって、ダメだとは言わないが…いい顔はしない。

 この一ヶ月…ドイツの現場で動いて、もっと二階堂のために…と何度思ったか分からない。


 入籍したとしても、結局は俺が現場に出てしまうと咲華は一人になる。

 この、今の状態となんら変わらない。


 俺が選ぶべきなのは…

 どの道なんだ…。





 〇咲華


 6月15日。

 あたしは普通に仕事に行って…お昼で早退した。

 しーくんから連絡が入るかもしれない…と思って…スマホの電源は落としたまま。

 定時まで仕事をしても、残業をしても、会社の前で待ち伏せされる気もして…


 午後からは、バスで少し街から離れて…

 生まれて初めての…

 パチンコ屋。


 操作方法なんて分からなかったけど、座ってると店員さんがやって来て、あれこれ教えてくれた。

 両サイドにいたオジサン達も、優しく手解きしてくれた。

 これがビギナーズラックというやつなのか…

 あたしは、あっと言う間にドル箱を積み重ねてしまった。


 …滅多にないけど…あたしはたまに、こうやって『あたしらしくない事』をしたくなる。

 だけどやってみると、実際あたしらしいんじゃないの?って思う事もある。

 続けて行こうとは思わないけど、今度は競馬とかボートとか…カジノなんてのもいいのかもしれない。

 すっからかんになるほど散財したっていい。



 …こんな気持ちで入籍なんて出来ない。

 そう思ったあたしは…逃げた。

 ちゃんと断ればいいのに…

 嫌いになられる勇気もないなんて。


 …連絡取れない状況にしてるだけで…嫌われても仕方ないのにね。



 いつまで経っても終わらないパチンコに飽きて、周りの人は『もったいない』って言ったけど終わる事にした。

 優しい店員さんに換金方法も教えてもらって、ドル箱は現金に化けた。

 お菓子がもらえるとばかり思ってたあたしは、その現金を手に面食らったけど…

 近くに神社を見付けて、お参りに行って。

 お賽銭箱に全額入れた。


 家族がみんな健康でありますように。

 華音の想いが紅美ちゃんに届きますように。

 華月と詩生君が結婚出来ますように。

 聖…

 聖にいい人が現れますように。

 おじいちゃまとおばあちゃまが、ずっとずっと一緒に居られますように。

 両親が…


「…父さんと母さんは頼まなくても大丈夫か…」


 目を開けて顔を上げてつぶやいて。

 自分の事をお参りしてなかった事に気付く。

 あたしは…


「…これからも、美味しい食べ物に出会えますように…」


 うん。

 これでいい。



 それから、ずっと歩いた。

 初めて歩く街は…なんて言うか…

 あたしの事を誰も知らないんだって思うと、何となくホッとする気もした。

 別に有名人じゃないけど。

 あたしの事、婚約したのに二年以上待たされてる女…って。

 誰も知らない。

 それだけでも嬉しい気がした。


 このまま歩いたら、靴擦れしちゃうかなあ。

 そんな事を思いながら…あたしはひたすら歩いた。

 そしてやがて…ある景色に出会った。


「…ここ…」


 もしかして…

 いつも上からしか見てなかったけど…

 あの街?

 小さな光をたくさん放ってる…あの街?


 あたしの前方、少し高台に…見慣れた木が見える。

 もう暗くてベンチまで見えないけど…きっとそうだ。

 こっちから見ると、こんな景色なんだ…

 片側からしか見てなかったから…反対側まで分からなかった。

 あたしはその気持ちを、自分の恋と重ねた。


 憧ればかりが募って…進まない事に苛立ってたはずなのに。

 あたしは、ずっとそこにいた。

 しーくんの事…好きだから?

 それとも…

 彼との結婚を夢見てただけ?


 ゆっくり階段を上がって、途中で何度も街並みを見下ろした。

 変わらない状況を…もっと早く話し合って解決すれば良かったのに。


 あたしは…怖かった。

 待てないって一言を出して、別れようって言われるのが。


 それに…

 彼が…しーくんが…

 あたし以上に、朝子ちゃんを大事にする事。

 それが…とても…とても、嫌だった事。


 …正直に、言えば良かった。



 階段を上がり切って、大きく溜息をついた。

 振り返ると…見慣れた街の灯り。

 この場所は…しーくんに教えてもらった。


 自分を二階堂の『影』だと言ったしーくん。

 自分の在り方が分からないって悩んでたっけ…。

 だけど彼は二階堂のために生きる事を誇りにしてて。

 どの現場に出向く事も、断らない。


 眼下に広がる街の灯りを見ながら、あたしはしーくんと出会ってから今までの事を思い出そうとした。


 出会った頃は…浮かれっぱなしで。

 それが捜査の一環としてでのエスコートだったとしても…嬉しかった。

 優しくてカッコ良くて。

 非の打ちどころのない彼氏。


 しーくんに相応しい女になりたい。

 そう…思った。


 やがて、あたしには本気じゃないって知って…別れを突きつけた。

 だけど、ここで。

 ここで…真島君という偽名の二階堂の人の双子の弟さんから、しーくんの色んな事を聞いて…

 あたし達は…お互いの気持ちがホンモノだ…って、確認し合えた。


 そして、婚約。

 後は、結婚するだけだ…って思ってたのに。

 もう、あれから二年以上。


 …婚約してからのあたし達には…

 あまり、思い出がない。



「……」


 …遅くなるとも言ってないし、母さん心配してるかな…

 父さん、怒ってるかな…

 今スマホの電源入れたら…どんな事になってるんだろ。


 …しーくんは…

 あたしに連絡がつかない事…

 どう思って…


「咲華。」


 名前を呼ばれて、驚いて振り返ると…

 そこに、しーくんがいた。


「……」


「探した。」


「……」


「…帰ろう。」


 しーくんがあたしの手を取ったけど…

 あたしは足を動かさなかった。


「…みんな心配してるぞ?」


「……」


 しーくんは、何を言っても無言のまま動かないあたしをゆっくり抱きしめて。


「…俺に会いたくなかった?」


 小さく…つぶやいた。


「…婚姻届は?」


 あたしは、しーくんの胸に顔を埋めたまま問いかけた。


「え?」


「婚姻届。今日書くんでしょ?」


「……」


 しーくんは少し無言の後…あたしの頭の上に顎を載せて。


「こんな状態で書けないだろ…」


 そう言った。


「…じゃあ…いつ?明日?明後日?」


「…悪い。明後日からアメリカなんだ。」


「……」


 この人は…結局、あたしと結婚する気なんてない。

 そう思った。

 好きなら待てる…そう思ってたけど…

 もしかしたら、好きじゃなかったのかな。


 …もう…


「また…一ヶ月帰らないの?」


「向こうから連絡する。」


「出来ないクセに…言わないで。」


「する。」


 しーくんの腕に力が入って。

 あたしは…強く抱きしめられた。


「連絡するから…待ってて欲しい。」


 待ってて欲しい…?

 まだ?


 …あたしは…どうしたいの?



「…あたし、あの日…婚姻届、テーブルの上で開いた。」


「……え?」


「カナールで。婚姻届、開いたの。」


「……」


 しーくんが、身体を離してあたしの目を見た。


「あたしの名前は記入済み。あとは、しーくんの名前を書くだけの状態の物…開いたの。」


「……」


「だけどしーくん…ずっと外見てたから…」


 そう…。

 ずっと…朝子ちゃんを見てたんだ。


「入籍だけでも…先にどうかなって…」


「……」


「でも…もっと早く気付けば良かった。」


 本当に。


「あなたの中で…結婚の意思が薄れてるって事に…」


「……」


 あたしの言葉に…しーくんは何も言わなかった。

 何も言わないって事は図星って事で…

 しーくんに、結婚の意思は…今は…


「…俺は…」


「……」


 キラキラキラキラ。


 あたしの気持ちとは裏腹に、街並みは小さな瞬きに溢れてる。


「二階堂に尽くしたい気持ちが強くて…正直、自分の幸せうんぬんは後回しだと思ってた。」


「……」


 しーくんの声を拾いながら…あたしは空しい気持ちになってた。

 しーくんは…二階堂に尽くしたいから、自分の幸せは後回し…って言った。

 って事は…

 あたしの幸せも…後回し…


 …うん。

 いいの。

 あたし、しーくんと一緒なら。

 後回しでも何でも。

 結婚が三年先になろうが、五年先になろうが。


 って…


 今までなら、そう思えてたのに。


 ずっと不安だった。

 しーくん…あたしの事、忘れてない?って。

 だから…せめて…

 妻っていう座に落ち着いてしまえば…

 そんな不安から逃れられるって思った…ん…だけど…



「…だったら…入籍なんて、もっての他って事かな。」


 爪先を見たまま低い声で言うと。


「…無理強いはしない。咲華が幸せを求めるなら、俺じゃない誰かを選んでも仕方ないと思う。」


 しーくんは…ずるい事を言った。


「…何よそれ…」


「……」


「面倒なら、正直に言えばいいじゃない。」


 しーくんの手を離して、背中を向ける。


「面倒なんて…」


「じゃあどうして、あたしに決めさせるの?待たせたくないなら、待つなって言えばいいじゃない。もう結婚する気なんてないって。」


「…咲華。」


「いつから?いつからそう思ってたの?」


 ポロポロと、あたしの目から涙がこぼれた。


「ずるいよ。そんな事思ってたクセに…愛してるなんて言わないでよ…」


「咲華。」


「帰ったら入籍しようなんて、気を持たせるから…」


 しーくんが後ろからあたしを抱きしめる。


「…やだ…」


 結婚する気がないクセに…

 こんな事しないでよ。


「…連絡するから…」


「…出来ないクセに…」


「必ず…連絡する。」


「……」


「ごめん…本当に…俺、ずるいな…」


 耳元で大好きな声が…辛そうに囁く。

 今まで、どんな事があっても我慢してきたのに…

 もう…

 あたしの心は…



 疲れ果ててたのかもしれない。

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