第9話 桐生院 咲華
「……」
その時私は思った。
もしかしたらマサ子は私を待っていたのではなかろうか、と。
細く白い手は小刻みに震え、久方ぶりの再会に潤んだ瞳はあの一度だけの接吻を鮮明に思い起こさせた。
『マサ子ちゃん…今、幸せなのかい?』
問う私の顔を見上げる事なく、マサ子は膝に置いた手をギュッと握りしめると痩せた肩を少し落として。
『…幸せとは…どういう事を言うのでしょうね…』
小さな声で呟いた。
その声が、その言葉が、あまりにも…あまりにもマサ子の現状を物語っているように思え、私は胸の奥深くに怒りにも似た感情が湧きあがるのを堪えた。
なぜ私はあの時…マサ子を連れて逃げなかったのだろう。
怖かったのか?
そうだ…怖かったのだ。
私は愛の多い人間…と言えば聞こえはいいが、単なる好色と言われてしまえばそれまで。
しかし私は今まで冗談で接吻をした相手などいない。
誰の時も本気であり、どの愛も大きさは変わらない。
本妻がありながら他の女性に愛を配るなど、単なる不貞に過ぎないと言われようが、私の愛はそうだったのだ。
今、隣にいるマサ子を抱きしめ、着物の袂から手を差し入れて乳房を揉み、荒々しく唇を吸い、私のものになれと言ってしまいたい。
家のために結婚し、娘を事故で失くし、夫が愛人に産ませた息子を引き取り育て、夫は愛人との性交中に腹上死するなど…マサ子の人生、いったい何が光り輝いていたと言うのだ。
今からでも遅くはない。
私が女としての悦びを教えてやりたい。
きっとマサ子の身体はまだ女になり切っていないだろう。
私の手によってマサ子を…女にしたい…
「…誰がこんなのコピー取ったの…」
家に帰ると、大部屋は珍しく無人だった。
でも、ホワイトボードの『お風呂』の位置に父さんと母さんのマグネットがあるから…帰ってはいるのね。
無人の大部屋の座布団の上。
コピー用紙が一枚、折りたたんで置いてあった。
その内容は…何だか、昼メロみたいな小説…?
母さんと
おばあちゃま…
あたしが眉間にしわを寄せてそれを読んでると。
「…子供には早い。」
後ろから手が伸びて来て、紙を取られた。
「はっ…」
振り返ると、父さんがいて。
「…読んだか。」
あたしの目を見て言った。
「…読んだ。」
「面白かったか?」
「いや…そこだけじゃ分かんないわよ。」
「そうか。」
「誰の話?」
お茶を入れようと立ち上がると。
「…別に誰って事はない。新聞で連載してるやつだ。」
「…官能小説ってやつ?」
「この回は官能小説とは言えねー出来だな。」
確かに…そうなのかな。
官能小説って、もっとどぎついイメージある…
父さんはコピー用紙を小さく折りたたんで…茶箪笥にしまった。
…捨てないの?
まあ…いいけど。
「最近元気ないな。」
父さんのお茶も入れてテーブルに置くと、すかさず言われてしまった。
「…そっかな。」
「志麻とは会ってるのか?」
「…今ドイツだから。」
そう…
ドイツだから。
あたしは…先月28歳になった。
28…
母さんは19であたしと華音を産んで、22で華月を産んだ。
28の時には…もう三年生と年長の子供がいたのに。
あたしには…憧れだけ。
「あら、おかえり
母さんが笑顔で言ってくれて、少し和んだ。
「ただいま。」
「ご飯は?」
「食べちゃった。」
「あら、そう。」
「え?今からなの?」
母さんが冷蔵庫から色々出し始めて。
あたしもそれを手伝う。
「ええ。帰るの遅かったから、先にお風呂入っちゃった。」
「あ~…このサラダはあたしも食べる。」
「じゃあ、お箸とお皿出して。」
「はーい。」
『あずき』で一人、カツ丼を食べて帰ったんだけど。
母さんと父さんと三人で晩御飯なんて…珍しいから。
つい、一緒にビールを飲みながら食べた。
「おまえ、食って帰ったんじゃねーのかよ。」
「だって、美味しいんだもん。」
「太るぞ?」
「いいもーん。」
「…誰に似たんだ。この食いっぷりの良さは…」
ボヤく父さんに。
「
母さんがビールを注ぎながら笑う。
…目の前で、仲良しな二人を見て…嬉しくもあり、悲しくもなった。
女としての悦びって…何なのかな。
マサ子さん。
マサ子さんを奪いたいと思った人は、女の悦びは…快楽と思ったのかもしれないけど…
あたしが思う悦びは…
何なのかな…。
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