六十一

 庵の中、銀正は傍にある行燈あんどんを見つめていた。


 揺れている。

 真殿が残していった余波に浸食されるように、銀正は自分の内側が揺らいでいるのを感じていた。

 その揺らぎは段々と形を紡ぎ、銀正にとってこの世にたった一人の姿になる。

 真殿の問いが、反響する。


『あんたはあの子を未練にしないのか』


 心が鉛を飲むように重く沈んでいく。

 切り刻まれるように千々に割れる。

 どこか遠くで、ずっと慟哭が一つの名を呼んでいる様な気がした。

 他のものなど思い浮かびもしないと言うように、ただ一人、彼女だけを呼んでいる。


「――――」


 唇が、無意識にその名を繰り返そうとした。

 けれどすんででそれを飲み込み、組んだ腕に目を落とした。

 駄目だ。

 今あの名を紡げば、何もかもに耐えられなくなってしまう。

 あの人の声も、意志も、眼差しも。

 何もかも鮮明にして、銀正の目を眩ませる。

 守るべきと選んだ道を、分からなくする。

 しかし、それだけ彼女は銀正にとって――――


「(この世への執着なんだ……)」


 何も考えたくなかった。

 考えれば、全ては彼女に行きついてしまう。

 どうしようもなく、彼女だけが輪郭をもって銀正の目を捕らえる。

 目を閉じるのも、耳を塞ぐのも、記憶をただ鮮明にするだけで銀正を助けてはくれない。

 どれほどその存在を想っても、


「(もう、あの人を目にすることも叶わないのに、な)」


 明日、きっと自分は死を告げられる。

 早ければその日のうちに腹を切ることになるだろう。

 もうどれほど望んだところで、無意味なのだ。

 見切りをつけろ。

 想いに溺れる心へ、諦観と共に言い渡す。

 心は助けを求めるように手を水面に伸ばし、そのまま沈んでいった。

 銀正はそれを掬い上げなかった。

 全てが遅い話だったから。

 自分は死ぬ。

 香流との縁は生死が断ち切り、二度と結ばれない。

 だがそれが、最期まで故郷のために在りたいと、もう一つの自分が選んだ道。

 だから、


「(迷ったりなんて、しない)」


 組んだ腕の下で握った拳が。

 その骨がきしむのが、悲鳴を上げるようだった。

 それでも銀正は追い縋ろうとする執着を拒絶して、庵に己を縛り付けた。

 そうして朝まで耐え続ければ、もう銀正の意志など構われることなく、事態は進む。

 それでいい。

 それでいいから。

 もう、どうか、この執着も思慕も。

 あの人へ向かう全て。

 どうか死に絶えてくれと祈った。








 なのに。








「!!」


 息を飲む。

 唐突だった。

 『何か』の気配が、いきなり銀正の勘を揺さぶった。

 咄嗟とっさに銀正は顔を上げて外へと続く障子を見た。

 庵の外だ。

 それも濡縁の上。

 誰かいる。


「……どなたか」


 気配は急に現れ、銀正を刺激した。

 相手は『そこにいる』と銀正に気付かせたい意図があるのだ。

 その誘いに乗るように、銀正は訊ねた。

 相手は言葉では返さない。

 ただ沈黙のまま、入室の許可を求めていた。

 銀正はそれに態度の軟化で答え、そして、


「っ!」


 座り込んだ姿で障子を開けたその人に、息を飲んだ。


「夜分遅くに失礼いたします」


 香流だった。

 つい先ほどまで、もう会えぬやもしれぬと諦めの海に心を見捨てた、その中心にいた人が、いた。


「どう、して、」


 銀正は呆然と唇を震わせた。

 香流はその問いににこりと微笑み、淀みない所作で庵に入り込んできた。

 障子が締められる。

 閉じられた場所。

 そこに二人きり。

 銀正は理解が追いつかずにただ唖然と香流を見る。

 そんな男に、香流は再び微笑み、




「夜這いに参りました」


「ごっほッ……!?」




 凄まじく直截に言い放った。

 銀正は勢い咳き込み、調子の狂った気管をのどの上から押さえる。

 香流はそこへ「冗談です」と肩を竦めてみせて、銀正から離れた障子の前に腰を落ち着けた。


「い、いきなり、どうして……」


 まだ調子のおかしい息を整えながら、銀正は香流にたずねた。

 ここは見張りもある、罪人の檻だ。

 滅多なことでは近づくことも許されない。

 先ほどの真殿のように銀正の身柄を預かる責任者ならいざ知らず、外に見張りもいただろうに。



 ――――そうだ、見張りは?



 思い至って銀正が外を見ると、


「全員気絶させてきました」


 素知らぬ顔で香流が答える。

 銀正はまたしても唖然と香流を見た。


「なんということを……」


 多少の非難も込めて呟けば、相手はさして堪えた風もなく眉を上下させた。


「落ち着いてあなた様と話がしたかったのです。 御心配なく、こちらの声の聞こえない程度で、兄の配下が張っています」


 だから外のことは考える必要ないと香流が言えば、銀正は頭を抱えた。

 そうだ、この人はこういうところがある。

 目的のためには何もかもお構いなしで、少々…… いや、だいぶ、手段を選ばない。

 祭りの夜の問答や、渦逆との交渉。

 これまでの記憶がよみがえり、その豪胆さに今更ながら銀正は溜息を吐いた。

 ちらりと横目で視線を送れば、娘はなにやら嬉しげににこりとする。

 つい先ほどまで、もう会うこともないと考えていたのに。

 その当人が、今まさに銀正の目の前にいる。


「(私の覚悟は、どうすれば……)」


 はぁ。

 深くため息をついた銀正は、もう一度香流を見る。

 そのあっけらかんとした顔にこれ以上の言葉を諦め、銀正は居ずまいを正した。

 どうせここまで来てしまったのだ。

 こうなってはこの人は目的、つまり銀正と話すまでは帰るまい。

 ならここに香流がいることで問題になる前に、早く話を終わらせて屋敷へ帰すのが上策と、銀正は切り替えた。


「御用件を、聞きましょう」


 少し他人行儀に、銀正は正面の香流へ膝を向ける。

 香流は銀正の選んだ言い方にすっと目を細めたが、それに仕方なそうに目を伏せてから、懐の合間から何かを取り出した。

 それは布に包まれた小さなものだった。

 なんだろうと銀正が首を傾げる前で、香流はその包みを開いた。

 瞬間、銀正はあっと息を飲む。

 布から出てきたのは、丁寧な仕事で作られたらしきくしだった。

 香流の手に収まるくらいのそれを見た途端、瞬時に思考が走る。



 まさか。

 まさかまさかまさか、



「苑枝殿に、先ほどいただきました」


 微笑む香流の言葉が決め手だ。

 銀正はまたしても頭を抱えると、胸中にうめきを漏らした。

 苑枝…… と慣れ親しんだこの家の筆頭女中の名を呼び、脳裏に数日前の一悶着が回想される。


 あれだけ。

 あれだけ駄目だと言っておいたのに、なのに。


 あの威勢のいい老女は、指示したものではなく、一番まずいものを用意したらしい。


「(だから櫛だけは駄目だと言ったのに!)」


 顔を覆って項垂うなだれた銀正は、屋敷のどこかにいるであろう筆頭女中に恨み節を唱える。

 手の合間からぶつぶつ漏れる、淀んだ声。

 もう絶対彼女には頼まない。

 いや、もうそんな機会はないが、と腐った様子で銀正は肩を落とした。

 そんな姿を香流はじっと黙って見守っていた。

 銀正はその視線に気が付くと、気まずげに居ずまいを正す。


「……その、それは、私が頼んだものではないんだ。 苑枝がきっと勝手に……」


「存じております」


 銀正の釈明を、香流はすらりといなして言った。

 銀正にしてみれば、死ぬことを覚悟した別れに踏みだしたのに、まさかまさかの再会と、暗に求婚を伝えるような贈答品が露見してしまう突発的な出来事に、いたたまれなさが突き抜けるようである。

 しかし香流はそうは思っていないらしく、柔らかな笑みで櫛を見下ろしながら、じっと目を緩ませていた。

 その表情が見るほどに視線を囚われるようで、銀正ははっと自戒して目を落とした。

 香流はその動きに気が付くと、すいと顔を上げて銀正を見つめた。


「本当は、髪紐を下さるはずだったとも聞きました。 …………こうなることを、予見しておられたからでしょう?」


 問いかけには、答えない。

 今の銀正には、肯定も否定も、明確に言葉にする余裕がなかった。

 香流がいる。

 目の前に、殺した心がずっと手を伸ばしている相手がいる。

 その目に見つめられているだけで思考がかき乱され、覚悟が揺らぎそうだった。

 だから頑なに目を合わさず、言葉も控える。

 答えない銀正に、香流は何事かを察したらしかった。

 小さく息を吐く音。

 そして香流はひとり続けた。


「この櫛、苑枝殿に訳を聞いたとき。 私が何を想ったか…… 御当主は分かりますでしょうか?」


 答えない。

 いや、分からなかったから、答えられないが正しい。

 正座した自分の足をじいっと見ながら、銀正は気まずい思いを押し殺した。

 そもそもだ。

 銀正は香流が自分をどう思ってくれているか、全く知らない。

 肩書として、許嫁。

 男女の仲というやつではあるが、あくまで肩書だけだ。

 これまでを思い返して香流が自分をそれほど悪くは思っていない…… と思いたいのが本音だが、正直そこも自信があるわけではない。

 その上、比肩を請うてくれた当人を残して、自分は死のうとしているわけである。

 そんな現状に、止めのようにあの櫛だ。

 当初は髪紐をと言っていた経緯も知ってしまったらしき香流が、どう思っているか?

 考えたくもない。

 正直なところがそれである。

 そんな銀正の拒絶を知ってか知らずか、香流はそっと櫛を愛おしげに撫で、優しい口元で言った。


「腹が立ちましたよ。 あなた様は、その時から私を置いていくつもりであったと思い知らされて。 それに気づけなかった自分が、許せなかった」


 でも、


「おかげで、気づくこともできた」


「気づいた……?」


 何がと言わず伝えられたのに、銀正は咄嗟に聞き返していた。

 香流はあの真殿と同じような目を細める仕草で銀正を見据え、「ええ」と頷く。

 そして言った。


「私は、それを伝えに来たのだ」と。


 なぜか、怖気おぞけがするような気がした。

 なにも、恐れるものなどないはずなのに。

 銀正はもう、死を見つめて覚悟を決めたのに。

 何かが、恐れを掻き立てる。

 身の内で、声がする。

 『それ』を聞くなと叫んでいる。

 銀正はその声に従うまま、微かに頭を振った。

 香流はあの目で……


 まるで獲物を食い殺そうとする獰猛な目で銀正を見て、それを、告げた。





「私はどうやら、あなた様が愛おしいらしいのです」





 うっそりと微笑んで、明確に告げた。

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