幕間

 その人が庵にやって来たのは、夜ももう遅い頃合いだった。


 香流の兄であるその人は、罪人となった身の銀正に、全く変わらぬ態度でへらりと笑って手を上げて見せた。


「よぉ、まだ起きてたかよ右治代殿」


 濡れ縁の障子を開けて上がり込んできた真殿に、銀正は最初戸惑った。

 しかし、入室を拒否する権利など自分にはない。

 銀正は頭を下げて真殿をうながし、障子を閉めた。


義兄あにう…… いや、左厳の……」


「ああ、いいよ。 名は気にするな。 取りあえず義兄と呼んどけ」


「しかし、」


「便宜的にってことでな。 一応、沙汰が出るまであんたは右治代殿だし、香流の許婚で、俺はあんたの義兄だ」


 真殿はそう言って畳の上に座り込むと、持ってきていた酒で手酌を始めた。

 屋敷のを頂戴したと悪びれず笑う真殿は「あんたのもあるぜ?」とさかつきを取り出して見せたが、銀正は首を振って断った。

 元々寺育ち。

 確かに僧の全てが精進潔斎を全うしているとは言えないが、銀正は基本的に酒や色事などの余分は控えていた。

 それが性分としても合っているし、育ての親である前の会照寺住職の教えであったから。

 己を律しきれなくなるようなものは慎むべき。

 己の弱さを自覚する銀正の信条だった。

 そんな銀正を真殿は含みありげに眺めると、「ふぅん?」と一笑。

 注いだ酒を一気に飲み干した。


「あの、どのようなご用件でこちらに?」


 一向に話を始める気配のない真殿に、銀正はおずおずとたずねた。

 これでも、明日罪に問われる身だ。

 屋敷の庵とはいえ軟禁されている状態の銀正に、余分な接触は差し支えるはず。

 その上酒まで持ち込むのだから、まったく真殿の意図が読めずに、銀正は当惑した。

 一方真殿は銀正の戸惑いなど素知らぬ顔で、二杯目を景気よく飲み干すところだ。

 空になった杯の端をちろりと舐めると、真殿はすいと目を細めて銀正を面白げに見る。

 その顔がひどく自分の想い人に似ている気がして、銀正は一瞬だけ胸が痛んだ。


「いや、暇を持て余したものだからな。 折角だ、あんたと話そうと来てみただけさ」


「話、ですか……」


 あっけらかんとした真殿の答えに、銀正は拍子抜けする。

 なにか重要な決定でもあって知らせが来たのかと思ったが、違ったようだ。

 それはそれでいいのだが、少々緊張もあったため、銀正はほっと肩から力を抜いた。

 真殿は銀正の緊張が解けたのを察すると、人懐っこい笑みで「飯は食ったかい? 風呂は?」と訊ねてきた。


「食事は、いただきました。 風呂まではと思ったのですが、近衛頭領様のご厚意で先ほど」


 銀正は軟禁される以上、どんな扱いも承知するつもりでいた。

 だが意外なことにあの冷然とした近衛の男は、見張りつきではあるが銀正に大抵のことを許したのだ。

 おそらく、もうそれほど生きている時間もないだろうという憐れみ故だったのだろうが、銀正にはありがたいことだった。

 真殿も銀正の答えに、


「よかったじゃねーか。 生きてるうちに、できることはやっとけよ」


と、くつくつ笑って酒を舐めた。





 庵の中は、ろうそくの灯が一つだけだ。

 それでも慣れてしまえば十分明るく、銀正は香流によく似た男を失礼のない程度に眺めた。


「似てるかい?」


「!」


 突然の問いに、銀正ははっと息を飲む。

 その様を興味深げに眺め、真殿はまた目を細めた。


「香流を思い出すか? この顔を見ると」


 重ねられた問いかけに、答えるのは躊躇ためらわれた。

 それは羞恥であり、悔いであり、自戒でもあった。

 真殿はそんな銀正の胸中を知ってか知らずか、


「あんた、やっぱり相当あの子が大事みたいだな」


 土足で上がり込むような調子で銀正の心を暴いた。

 銀正はぐっと言葉に詰まると、着流しの着物を掴んで俯く。

 この兄弟は、まこと軽々と銀正を翻弄する。

 銀正が躊躇う領分をその真っ直ぐな目で照らし、明け透けに言い表してみせる。

 それに銀正がどれほど途方に暮れてしまうと思っているのだろう。

 しかし、きっとそんなことも見通して見せるのだろうと諦観もこみ上げ、銀正は項垂うなだれた。

 真殿はその様子をふふとのどを震わせて楽しみ、急に、





「あんた、もう生きる気はないのかい?」





 それまでの何もかもを削げ落とした、能面のような顔で訊ねてきた。

 そのあまりの落差に、銀正は最初問われた内容が入ってこなかった。

 だがゆっくりと理解が追いつき、逡巡。

 目を逸らして、答えないに止めた。

 真殿にも、それで通じたのだろう。

 義兄は杯を畳の上に置くと、立てた膝に手を伸ばし、もう片方の腕を後ろについて、閉め切った障子の方を見遣った。



「あんたの処分に同意しといて言うのもなんだが、あんたのそれは、楽になりたいってやつなのかい?」


「っ、」



 踏み込まれている。

 咄嗟とっさに銀正は警戒した。

 しかし次の瞬間にはそれも最早無意味なことと諦め、目を伏せた。

 どうせ明日も知れぬ身だ。

 取り繕っても仕方がない。

 銀正はいつになく草臥くたびれた様子で、「……そうかも、しれません」と自嘲を浮かべた。

 もうずっと、この国を想って銀正は生きてきた。

 それは精神が石臼でかれていくような、長い生き地獄だった。

 だからもうその日々を終わりにしたいという想いも、あるのかもしれない。

 そんなことを銀正が考えていると、


「香流は望まないぜ?」


 告げられた名に、歯を食いしばった。

 今その名を上げて、揺さぶられたくなかった。

 その指摘は、生の終わりと死への旅立ちを見据える銀正には強すぎる毒だ。

 それでも、真殿は銀正の諦観も、その奥にあるそれでも明かしたくないと頭を振る頑固さも分かった上で、銀正の内へ踏み込むのを止めようとはしなかった。

 銀正は苦い顔で再び俯く。

 目の前で黙ったままの真殿は、無言で問うていた。

 


『あんたはあの子を未練にしないのか?』と。



 何かが寄せてくる。

 その何かはじりじりと銀正にい寄り、湾曲した背を伝って喉を締め潰そうとしているように思えた。

 喉がつぶれる。

 こみ上げるものを吐き出したい。

 だが、それは、できない。

 銀正は強くこぶしを握った。

 そして想いを振り切るように、ぎこちない唇を震わせた。


「……一度だけ、あの人の隣で刀を振るえた。 それだけで、私には過ぎた花道を歩めた」


 だから、


「もう、いいんです」


 この国を守るあの大一番で、香流は銀正に何もかも預け、銀正の何もかもを預かってくれた。

 傍で並び立ってくれた。

 共に生きる方へと走ってくれた。



 あの高揚を、銀正はきっと死んでも忘れない。



 だから、



「もういいんです」









 行燈あんどんの灯が揺れる。

 どこかで、風がついえる気配が届いた気がした。

 それが己の終わりを予見させるようで、銀正は目を閉じる。

 束の間の静寂。

 その終わりに真殿は、じっと障子の向こうを見つめていたかと思うと、「言っといてなんだが、あんたの楽になりたいは余分みたいなもんだろ」と息を吐いた。



「あんたは正真正銘、この国のために自己犠牲を成すつもりだ。 あんた、そういう性分だ」



 見てたら分かる。

 真殿は笑い、銀正は意表を突かれた。

 突然の空気の緩みに言葉を無くすと、真殿は再び杯を取って酒を注いだ。

 そしてその酒が澱みなく流れるように語った。


「なぁ、右治代殿。 人の過ちなんてものは、結構そこかしこで起こってるもんだ。 そんでそれを見過ごしたり、なかったことにしたりするずるさを、人は持ってるもんなんさ。 そういうのも、正しさからは外れるが、隠しきれねぇ本当。 …………確かに今回の美弥の一件は、事が大きすぎるのも事実だ。 だが、それでも、」




「あんたは、責任のために何の釈明もせず、自分で自分を罰する道に落とすことを、正しさと思うかい?」











「…………自罰は、陶酔の回った弱さと言いますか?」


 銀正は、何となく、真殿の言いたいことが分かってしまった。

 だから痛みを堪える笑みで頬を歪めて返した。

 真殿は意図が通じているのを確かめたようににっと笑い、


「あんたがそんな小さい人間とは言わねーよ」


 酒を唇を湿らせる程度に舐めた。


「あんたは、きっちり美弥の誤りに区切りをつける気だ。 自罰なんて感傷だけで、この道を選んだわけじゃないだろ?」







「でもな、綺麗すぎんだよ、あんた」







 ひどく底意地の悪いような笑みだった。

 真殿はその笑みで、獲物を狙うような視線で、銀正を追い詰めると、手の中の清酒を揺らして言った。




「国のため、民のため、配下のため。 あんたはまるで、菩薩だよ。 そうして過ぎた善行の果てに、今度は命まで投げ出して務めを全うしようとしてやがる。 どこまでお綺麗に生きるんだって話だ」


「あんた見てると、どうにも腹の内がざわつくよ。 まるで誰も手を付けていない真っ白い雪原を見てるみたいだ」




 ぐいと、真殿は清酒をあおる。

 澄んだ水が、腹に消えていく。

 その様子をまざまざと見せつけ、真殿は捕食者の目をにたりと歪めた。





「どうにも、踏み荒らしちまいたくなる」





 銀正は眉間に力を込めた。

 気配が渦巻いている。

 真殿の威嚇だ。

 気を抜けば、隙を取られる。

 もう何もかもどうでもいいはずであるのに、長らく刀と共にあった銀正は無意識に真殿に対抗した。

 しんと落ちる沈黙。

 けれど、首筋にちりちりと火花が散るような。

 そんな激しい静寂が渦巻いた。



 そして真殿は銀正の気勢を獰猛に受けると、歪めた口元で笑って言った。

 


「なぁ、右治代殿よ。 きっと多くの人間にとっちゃ、綺麗なもんは美しく魅惑的に見えるが、これが程度が過ぎてくれば、見てんのも辛くなんのさ。 勝手な話だがな。 それが人間てもんかもしれんぜ? ――――まぁ、雇われ家業っつう薄汚れたことやってる俺らみたいな人間からすれば、殊更にそうなのかもな」


 だから、なぁ?


「あんた、一度薄汚れてみなよ。 そしたら、お綺麗なままでは見えなかったものが見えるかもしれんぜ?」




 真殿はそう言うと立ち上がり、酒を片手に濡れ縁への障子を開いた。

 いつの間にか気配は立ち消え、平穏を取り戻した庵で、銀正はその背を見送る。

 障子を開いた一瞬。

 その合間だけ真殿は振り返ると、意味ありげな目を細めて音もなく外へと消えていった。

 残された銀正は置いていかれた言葉を胸中に反芻し、瞑目。

 もう、と音もなく呟いた。




「もう、そんな生き方を探すいとまもありませんよ、義兄上」















「右治代殿、あんたはあいつの前で、ただ綺麗なままでいられるのかね?」



 星が瞬く夜を濡れ縁から見上げ、真殿は淡く微笑む。

 それから目を前に戻して、そこにいるはずの見張りがいないのに溜息を吐くと、


「おーいー…… しちまうことはねぇだろ。 その始末、誰がつけると思ってんだ」


 木立の暗がりに気絶した見張りたちを縛り上げている二人へ、面倒くさそうに抑えた声をかけた。

 庵から漏れる灯りのために一層闇の濃いそこには、女と男。

 女は袴姿の香流だ。

 横には香流に付けていた配下。

 なにやってんだと男を半眼で見れば、いい歳した図体でえへへととぼける格好を返される。

 やめろ気色悪いと真殿が配下を小突くと、


「あの方は?」


 香流が庵をじっと見て囁いた。

 それに真殿が目だけで居ると示して見せれば、香流は迷いない足取りで庵に近づいていく。

 その背を捕まえ、真殿は銀正に聞こえない程度の声で告げた。


「とりあえず、朝まで時間やるよ。 もう一度言うが、無茶苦茶はするな?」


 釘をさすのを忘れず背を押してやれば、香流は何も返さずそのまま足音を消して庵に近づいていった。


「どうなりますかね?」


 配下が好奇心を抑えきれない様子で香流を見送り、真殿に囁く。

 それに真殿は「さぁな?」と肩を竦めて手を振った。

 すると闇に控えていた配下たちが音もなく現れ、真殿のもとにつどう。

 真殿は男たちにただ目配せすると、最後に頷いて手を振った。 

 現れた男たちはそれを合図にさっと闇に溶け、庵を遠く囲むように見張りにつく。

 真殿は配置を気配で確かめると、




「ま、足掻けるだけ足掻けよ、香流」




 心底楽しげに呟いて、自らも夜の闇に溶けた。

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