五十四

 渾身の一刀と共に渦逆と交錯した直後。

 背後に崩れ落ちた宿敵の気配を感じながら、香流は残心を解いた。

 刀に滴る渦逆の血を振り払い、そして瞑目。

 深く息を吐く。

 ようやく終わった。

 そんな感慨に飲まれ、束の間、狩り獲った飢神の冥福を祈った。

 永い月日だった。

 十二で狩場に立ってから、ずっと渡り合ってきた飢神だった。

 いつか必ずると決意しながら数年。

 やっと今日、思い遂げられた。

 全ては、共に生き遂げようと手を伸ばしてくれた銀正のおかげだ。

 閉じた目の内、ようやく生き延びた実感と深い喜びが広がってくる。

 その柔らかな心地に息を吐いた香流は、想いの向かう相手と喜びを分かち合おうと振りかえった。

 すると、


「!」


 ぶつかり合うように駆けてきた体が強く香流を抱きしめ、息を飲む。

 銀正だった。

 全て投げ出して香流の道を開いてくれた男が、全身ですがるように香流を抱きしめていた。

 男はしかと香流を捕まえると、その耳元に呟いた。


「……生きて、おられるか」


 その存在を、温もりを。

 全て確かめるように、背に回された手が香流の着物を握りしめる。

 御当主、そう呼びかけようとして、


「生きておられるんだな……」


 強く絞り出すような声に、言葉を消した。

 銀正は香流の首筋に深く顔を埋めると、ひどくのどを震わせてその声を濡らした。


「あなたは、生きておられるのだな……ッ」


 もう、私は、


「失わすに、済んだのだな……!」





「御当主……」


 聞くほどに切ない嘆息と、首を伝っていく熱い雫に、香流はそっと頬を撫でる銀の髪へ手をやった。

 銀正は肩を震わせながらも、腕の力を緩めない。

 ともすれば痛いほどのそれに、身動みじろぎした香流は寂しげに息を吐いた。

 まるで、ようやく帰りつく場所にたどり着いたような。

 長い恐怖から解放された、迷い子の安堵に似た感情に、銀正は震えていた。

 だから香流は待った。

 銀正がその心に手にした安堵が、確かなものと思えるまで。

 我が身を全て任せて、待つことにした。

 沈黙は、それほど長くはなかった。

 触れ合う線から、だんだんと昂りの波が引いていく気配がする。

 香流がそれを感じていると、不意に背中に回っていた手の力が緩んだ。

 覆いかぶさっていた体はそっと力を弱め、ゆっくりと香流を開放した。

 強すぎる抱擁のせいで骨がきしむような気がしたが、香流はぎこちなさを押し隠して俯く顔を見上げた。


「御当主」


 自分の芯の、深い奥底。

 その水面から湧き上がる想いと共に微笑んで、香流は銀正を見つめて言った。


「生きておりますよ、御当主。 私たちは、生きております」


「まだ、どこにも離れてはいない」


「今も、一緒に居ります」


 ほら。


 そう証明するように腕を広げれば、美しく泣く顔がぎゅうと歪む。

 銀正は何かをこらえるようにうつむくと、広げられた香流の手を取った。

 咄嗟に刀を捨てて、伸びてきた武骨な手に自分のそれをゆだねる。

 すると銀正は握り込んだ香流の両手を額に当て、深く息を吸った。


「……ありがとう」


 それだけ。

 それだけ言って、けれどもそこには言葉で言い表せないほどの万感を籠め、銀正は最後の雫を零した。

 その全てを見ていた香流は、熱く胸に迫るモノへ息を詰める。

 全身を打ち震えさせる高揚。

 親しみも、嬉しさも、何もかも。

 それら全ての中心にいる人をじっと見据え、香流は目を閉じた。

 そして掴まれた手に力を籠めて開放を訴えると、離してくれた銀正の手を逆に取り、その足元へひざまづいた。

 薄汚れた床へ膝を置き、そっと見上げれば、雫に濡れた目が見開き揺れて、香流を見ている。

 あどけないその驚きに優しい笑みで笑い、香流は捧げるように掴んでいた銀正の手を離した。


 ようやく、と思った。


「……ようやく、まったく嘘偽りなく、私はあなた様を見つめ返すことができる」


 もう香流に、銀正へ隠すものは何もない。

 素性も、家名も、全てをつまびらかにした。

 隠し続けた罰は、銀正が望むならいくらでも受けよう。

 でも今は。

 今はただ、あなたに言いたい。

 聞いてほしい。


 だから。


 立てた片膝にこうべを垂れ、



「右治代忠守殿」



 この肩に唯一と認めた人の名を呼び、左厳の狩士は己の全てを賭けて問うた。




「どうかこの私、左厳義任を、あなたの比肩とお認め下さい」




 血潮舞う狩場。

 その死に最も近い場所で、己の背を預ける相手――――比肩。

 最も危うい場所で、最も大切なものを預け合う権利を持ちあう者。

 その立場を、どうかと。


 香流は願い、請うた。


「私に、あなたの背、守る許しを。 この命、預ける許可を」


 それは狩士として、最上位の敬意。 

 最上位の乞い。

 香流は己のすべてを捧げて願った。

 すでに覚悟は腹の内。

 終生この人と決めぬいて、全霊で挑んでいた。

 この人がいいと思ったから。

 この人になら構わないと思ったから。

 その芯の、貴く美しい様を見つけたから。

 だから、と。

 


 跪く香流に、目の前の気配は息を飲んだようだった。

 銀正は狼狽うろたえたようにじりと後ずさると、「か、顔を上げてくれ……」と困り切った声音で言った。

 言われた通り香流が顔を上げれば、見下ろしてくる顔は悲しげに俯いている。

 どうしたのだろうと香流が首を傾げて立ち上るが早いか、銀正はさっと香流から距離を取って首を横に振った。

 その口が、何かを言い募ろうとする。

 それを聞き届けようと、香流が一歩踏みだした――――その時だ。




 ぴいいいいい!




「「!!」」


 鋭いさえずりと共に、伝鳥が壁に空いた大穴から飛びこんできた。

 咄嗟に二人がその姿を目で追えば、鳥は室内を旋回。

 受取人を定め、伸ばされた銀正の腕へ舞い降りた。


「美弥狩司衆の鳥だ」


 悲しみから一転、真剣みを帯びた顔で、銀正が文を解く。

 役目を終えた鳥はその肩に移動し、共に紙面を覗き込んだ香流と銀正を眺めた。

 少し草臥くたびれた紙に乱雑に書きつけられた内容を、二人は読む。

 瞬間、伝達内容から全てを理解した香流は、同じく焦燥した様子で顔を上げた銀正と見つめ合った。

 厳しい色を帯びる琥珀の目が揺れるのを、じっと見つめる。

 そして頷いた。



「急ぎましょう」






 *






『美弥近隣の飢神、情勢急変』


 短くそれだけ書かれた内容は、一勝負終えて息を吐いてた二人の背に爪を立てた。

 崩れ行く国主の間を後にし、香流たちは城の外を目指した。

 広い城郭を駆け抜け、小高い位置にある城の外縁の坂を走って下っていると、


「御当主!」


 城下の向こう、馬で駆けてくる影を見つけた香流は、走りながらそれを指さした。

 前を走る銀正は同じ先を見据えると、「うちの馬だ! ……だがあれは、」と乗り手に目を細めた。

 そのまま外へ通じる門へ至れば、大通りを――――おそらく入国の規制を突破してきたのであろう二頭の馬が駆けてくる。

 到着を待ち構えていた香流が、見知った赤銅の着物に顔をしかめれば、横で銀正が「義兄上」と呟いた。


「おぅ! 無事か香流。 渦逆、来ただろ?」


 着くが早いか、馬上の人――――真殿が、それなりに真面目そうな顔で二人の無事を問た。

 しかしそれもどこか呑気そうで、どうにも真剣みに欠ける。

 この国の一大事ともなりえた話をそんな調子でするものだから、はぁと息を吐いた香流は、つかつかと降りてきた真殿に近づ……


 いたかと思うと、助走をつけて脇腹に蹴りを見舞った。

 

「香流殿!!?」


 吹っ飛ぶ真殿、仰天する銀正。

 真殿についてきたらしき同じ着物の配下の男が、「あ~あ」と肩を竦める。

 渦中、それはそれは見事に兄を吹っ飛ばした香流は、ゆらりと立ち上がると、砂にまみれて転がっている真殿を睥睨して冷然と眉を上げた。


「無事かではありませんよ、この馬鹿能天気。 なに口滑らして、私の居場所をあの華狂いに漏らしてるんですか」


「ぐっふ、」


 冷たく問い詰める妹に、びくびくと痙攣しながら起き上がろうとしていた真殿がむせる。

 それから「あ、あいつ言ったの?」と蹴りの炸裂した脇腹を庇ってへらへら笑った。

 どうやら香流は、真殿が渦逆に香流の所在を教えてしまった件を、怒っているらしい。

 妹の怒髪天を引き気味に見ながら、真殿は「いやぁ、」と頭をかく。


「もーあいつ、暴れるたんびに『お前はお前は』ってしつこいもんだからなァ…… つい?」


「ついで済むか、この愚か者。 その頭、空か? それともカスでも詰まっているのか? あなたが私の所在を漏らしたせいで、この国が危機に晒されたんだ。 分かっているのか? いや、分かっているとしてもその罪、縛り上げて肥溜めに沈めたところでそそぐに足らん」


 悪鬼羅刹もくやとばかり言い募る香流に、真殿は「……お前のそういうとこ、まじ母上~」と視線を遠くした。

 それから、いててと立ち上がると一転、

 

「でも、倒したんだろ、その様子じゃ」


 そう、ねぎらうように言って、砂にまみれた二人を見た。


「……ええ、りましたよ」


 香流が不承不承頷けば、真殿はひどく優しい顔で笑って肩を揺らす。

 そして妹の頭を撫で、


「よくやったじゃねーか」


 そう朗らかに、いたわった。


 もっときっと、どうやってとか、どうしてとか。

 聞いて然るべき内容はあったはずだ。

 なのに何一つ聞かず、全てを察したように真殿は香流を優しく見つめていた。

 それを香流も仕方なさそうに受け入れて、そっぽを向く。


 銀正はそんな兄妹の有様を見つめ、何となく胸を押さえた。

 なにか、身の内の空虚に寂しく風が抜けたような気がしたから。

 自分の手にはついぞ残らなかった親しい想いというものを、見てしまったようなきがして。

 しかし、


「御当主」


 その時振り返った香流が、目ざとく銀正の寂しそうな顔を認めて近づいてきた。

 香流は銀正の顔を覗き込むとそこにある感情を検分して、一つ頷く。 

 そしてにこりと首を傾げ、


「寂しいなんて、思わせませんよ、もう」


「!」


 どうしてと息を飲んだ。

 そんな銀正の頬を撫で、香流は目元を緩める。

 その目が語っている。


『叶う限り、お傍に』


 まるで睦言のような密度で告げる。

 とろりと肌を伝っていくその感触に銀正が立ち竦むと、覗き込んでくる香流の向こうから咳払いが聞こえた。


「あ~ 取り込み中のとこ悪いんだがな」


 見れば、やってられんとばかり遠くを見る真殿が乾いた笑みで二人を見ていた。

 妹の甘い空気に居心地が悪かったのだろう。

 それをこほんと咳一つで切り替えると、真殿は懐から紙束を引き抜いて示して見せた。



「いいかお前ら、よく聞け? つい先刻から、美弥近隣に張ってる狩士たち発信の伝鳥が、ひっきりなしに飛んできてる。 全部急報だ」


「周辺の飢神たちが、こぞってここを目指してるらしい」


「分かるか香流。 こりゃぁ、」








「国崩しですね?」


 溜めて含みを持たせた真殿の言を、香流は引き取って答えた。

 銀正は息を飲み、配下の男もぐっと身をこわばらせる。


「分かってた風だな?」


 真殿が聞けば、香流は「詳しい内容は追々伝えます。 今は、一刻も早く動かねば」と返した。


 国崩し。


 そうだ。

 明命が没した今、この国に守護の力はない。

 業人で膨れ上がったこの国を、周囲の飢神たちは見過ごすまい。

 かぐわしい練の気配に誘われて、飢神が群がり、寄せ付けられる。



「美弥は沈む」


 断じた真殿に、しかし香流は、


「させませんよ」



 決然とした声で否と返した。


「そちらは全員揃いですか?」


 真殿の手勢についてだろう。

 香流が問うと、真殿は肩を竦めながら「城下の間者も合流すりゃ、俺んとこはな。 お前んとこも、総出で来ているぜ」と背後の彼方を示した。


「なら、」


「いや、まだ心許ねぇよ」


 これでいけないかと思案する香流を、真殿は止める。


「これだけの国と人だ。 もう一声、助力が欲しいな」






「あ、あの!」


 不意に、銀正は声を発していた。

 無意識だった。

 気安い物言いで言葉を投げ合っていた兄妹が、疑問顔で振り返る。

 なにか?

 そう言いたげな顔を戸惑いと共に見返し、銀正は苦しげに聞いた。


「助力、いただけるのですか……?」


 まるで、この国を守るために立とうとしているかのような二人の物言い。

 それをどこか信じられないような思いで聞いていた銀正は、言葉を重ねた。


「あなた方は、この国のために戦う理由もないのに」


 贄という歪みを隠しながら、醜く膨張してきた美弥。

 明命が死んだ今、起ろうとしている事態は、因果が返ったにすぎない。

 それは、美弥の負うべき負債。

 香流たちには、この国のために刀を振るう義理も責もないのに。

 なのに。

 どうしてと、銀正は首を振る。

 その姿を、香流は黙って見ていた。

 黙って、そして、



「しない理由がありません」



 あっけらかんと言った。

 あまりに端的。

 しかし、一片のためらいもない言葉に、銀正は目を見開いた。

 その目を見据え、香流は告げる。


「御当主、何を余計な躊躇ためらいに囚われているのです。 我らは狩士。 飢神が迫り、民の命が危機に晒されている今、その狩場に背を向けるなど笑止千万」


「多くを生かすため、己一人生き抜くため、ただ刀を振るう。 それが我らの存在大義」


「理由など、それだけでいい」


 だから、


 火炎の目が挑む。


 なぜなのかなど問う前にと、不退転の覚悟で告げる。


「共に立ってほしいと言いなさい、御当主。 そうすれば、あなたの国は我らが守る」


 燃え上がる炎は、すでに迫りくる大一番を見据えているように銀正には見えた。

 燃える燃える。

 魅せつけられる。

 銀正はすべて忘れてその目に囚われた。

 そして、


「やれ、青い話だなぁ?」


 横から割りこんできた真殿に笑われ、言葉に詰まった。

 真殿は銀正を見ると、ひょいと眉をあげて「そんなに言うなら」と、親指と人差し指で作った輪を振って見せた。


「俺たちを雇いな、右治代殿。 そうすりゃ、あんたも何の気兼ねもなく俺たちを使えるだろう」


「……兄様」


 急に下世話な空気を持ち込んだ兄を睨んで、香流は眉を顰める。

 それに「いーじゃねーか」と笑うと、真殿は両腕を広げてのたまった。


「我らは左厳の狩士。 金さえつまれりゃ、どんな狩場にも立つ荒くれよ! 歴国最強とも名高い秀峰狩司衆にすら引けを取らぬ力だ。 どうする右治代忠守殿、欲するか?」


 挑みかかるように問われたものに、本来なら迷いなど差し込む余地はない。

 現在の美弥狩司衆だけでは、この国を守り切れない。

 分かっている。 

 だが。


「何を迷っていらっしゃる」


「!」


 厳しい声に、思考を取られる。

 香流が、銀正を見据えている。

 迷うなと、あの火炎で銀正を照らす。

 揺るぎない彼の人は、断固とした気配で言った。


「あなたは頭狩すかりだ。 全ては守るべき民のため、お決めなさい」


「この国を生かすため」


「我らを欲しいと言いなさい」





「ぁ、」


 言葉が無い。

 突き付けられる。

 すでに、道は一つ。

 生き延びるために、刀と共に立つ。

 加護のない今、守るべきを守るため。

 ただ、狩りつくすのみと。

 そのために、使えるものは使えと、香流は断じる。

 射抜くような目に圧される。

 しかし、不意に香流は厳しい眼差しをふっと緩めると、銀正の手を取って言った。


「御当主、あなた様が私に言ってくださいましたでしょう。 『私が、あなたを生かす。 あなたも、私を生かしてくれ』」


「あ、」


「あの華狂いから、あなたが私を生かしてくれた。 私も、あなたを生かした。 なら、国崩しのこの危機も、共に生き抜きましょう」



 私はあなたの隣で。

 あなたは私の隣で。


 微笑む顔に窮す。

 銀正は受け止めきれないような想いを渡されたように、呆然と立ち尽くした。

 そして唇を噛む。

 瞬間銀正は深く自戒に沈み、自分と故郷を卑しめて、やるべきを見失いかけた己を恥じた。

 恥じて、それから、自分が本当になすべきを見据えて目を開ける。

 銀正に途方もない想いをくれた人は、目を閉じる前と変わらずそこにいてくれた。

 その穏やかな笑みに、頷く。

 香流は銀正の意志に、華開くように笑った。


「この国のために、我らは必要ですか?」


 今一度問われたものに、銀正は是と返す。

 握り合った手を強くつかみ、願った。



 どうか、この国を守るために、と。



 永い夜明けの先。

 昇り始めた朝日を、拝むため。

 生きて、朝を迎えるために。




 銀正は左厳の狩士たちに、深く深く頭を下げた。




 この国を、崩さぬために。

 

 あなた方が欲しいと。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る