五十三

『あははははははははははは!!』



 嗤う、嗤う。

 狂喜と、渇望と。

 そして堪えきれない思いがけなさと。

 求め続けた赤い華。

 その体現者を見つめ、渦逆は轟くような嗤いを上げた。



『ああ、義任、義任、義任! 待っていた、待っていたよ。 その華咲き乱れる日を、ずうっと心待ちにしていた!』


『まさかこんなところで、お前が贄の決断をするとは思わなんだっ』


『お前、自分がその選択をする意味を理解しているのかっ?』




「理解しているさ」


 己の行いをあげつらわれても、香流は頑として引かなかった。

 真人にまでなった狩士である自分。

 その戦力の損失は、一狩士としての責をなげうつものだ。

 そして、飢神に練華を喰わせるということ。

 その意味。

 華の力で力を得た、手強い飢神を生み出してしまうという罪。

 しかも、相手はすでに一度練華を喰らっている。

 今一度華を喰えば、その脅威は計り知れない。

 きっと、数多の指が香流の背を指して言うだろう。


『それはどう考えても誤った選択だ』と。


 それでも香流は断じる。


「私は、贄になる咎を負おうとも、この人を生かしたい」


 香流の決断に、銀正は息を飲んだ。

 そんな、と突き付けられた選択を受け入れきれず、呼吸が揺れる。

 それに香流はふっと微笑み、銀正が見つめる目の前で、悠然と利き腕を横に構えて言った。


「くれてやる、渦逆。 この右腕、さっさと喰らって消え失せろ」


「香流殿っ!」


 焦燥。

 いや、最早哀願のようでもある呼びかけがのどからほとばしった。

 しかし、香流は振り返らない。

 自嘲的な笑いと共に、銀正を遠ざける。


「譲りませんよ、御当主。 よくお考えなさい、この状況、最早詰んでいる」


 物理的な攻撃の通らない相手。

 唯一応戦できる香流の爆薬は、すでにほとんどを使い切ってあとがない。

 渦逆の言が正しいなら、明命が死んだ今『帳』の力は失せたであろうから、はじき出された美弥狩司衆と真殿たちは城下に向かうはず。

 だが、それらも町から遠い。

 城下に残っている狩士もあるだろうが、確実に銀正は殺されるし、崩渦衆の力なくして渦逆を止めることは叶わないだろう。

 真殿たちがここに至るまでに、きっと渦逆は多くを殺す。


 だとすれば、


「この国を守り、あなたを守るためには、これが最善策」


「だがっ、それは禁忌だ!」


 すがるように言い募る銀正。

 それに、香流は「ええ、しかし、それでも」と首を横に振った。


「私はこの策以外はないと判断します」


 確かに、禁じ手。

 飢神を増強し、後々の脅威としてしまう一手。

 分かっている。

 だが、分かっていても、選ぶのだ。



「あなたもそうしたはずだ」


「!!」



 香流の指摘に、銀正の肩へ怯えが顔を覗かせた。


 確かに、銀正も選んだ。

 右治代当代を継いだ日から。

 多くのために少数を犠牲にする道を。

 その咎を負う道だと理解して、それでも。

 誰にもその重すぎる罪は譲らないと覚悟して。

 それでも、進んできたはずだ。


 だから同じことと、香流は銀正の否定を封じる。


「全てを了解して、咎を負う。 あなたもしたその選択を、私もするだけ」


 そう言って。



 この国の命を見捨てられない。

 銀正の命も見捨てられない。

 それが、後々の脅威を生むとしても。

 この道を選ぶ罪は、この身に負う。



「同じ道を選んだあなたに、否定はさせない」





『涙ぐましいなぁ義任ぉ』


 不意に、二人を静観していた渦逆が、絡みつくような声で舌なめずりした。


『そんなにこの国に情があるか? そんなにその小僧、お前にとって意味があるのか? お前、その小僧を比肩にでもする気か?』


「ああ、そうだ」


 迷いない答えに、異形と男が同時に息を止めた。

 だが、香流に二言はない。

 腕のかすみくゆらせたまま、香流は厳然と断じた。


「そうだ、言っただろう。 私はこの人に終生を捧げる覚悟をした。 この人が頷いてくれるなら、私の比肩はこの人だ」


 一切の偽りなし。

 そう突きつけるような香流の眼差しに、渦逆は至極可笑しそうに体を揺らした。


『正気か、義任!? お前、その小僧を選ぶのか? ……あははは、あはははははははは!』


 そして見せつけるように両腕を広げ、


『まさしく比肩の贄というわけか!』


 これ以上の余興はないとばかり、叫びあげた。


『喜べぇ、小僧…… お前は千獲万狩たる左厳の狩士に選ばれたのだ!』


 渦逆はふらふらと揺れ動くと、一本伸ばした爪先で、先ほどから動かない銀正を指さす。

 銀正はその視線に貫かれ、ぐっと詰まった。


「だ、めだ…… 香流殿、」


 やめてくれ。

 なんとか絞り出した言葉は、ただの聞き分けのない子供の駄々だった。

 銀正だって分かっている。

 今ここに居る香流と銀正だけで渦逆の脅威からこの国を守るには、香流の打った手が最善。

 渦逆の異能がある以上、銀正に手などない。



 でも、



 ――――でも?




 一瞬、思考が止まった。




 何かが、違うと言う。




 本当に?と。




 真人に至るほどの狩士。

 その人が、自分に願ってくれたこと――――『受けてくれるなら、この人が私の比肩だ』

 狩士として、己の命を預け合う相手、比肩。

 比肩を願う。

 あなたに私を預けると表明するに等しい言葉。

 香流は、銀正にそれをくれると言った。

 それに自分は?

 銀正はどう答える。


 どう応えるかだと?


 そんなことは、決まっている。




 だが、



 何も考えずともよいなら、自分は、――――私は、



 香流という人を、









 声がする。




 懐かしいあの声。




『銀正、』




『その力を使うとき、お前さんは飢神の前に無防備になる。 だからいつか。 お前さんがその力量と性根の美しさに、これこそ信を置くべき人だと見出した誰かに出会ったとき』


『お前さんが守るべき《何か》が定まった時。 そして、自らを大切にできるようになった暁に、』


『命を代償に、それでもと覚悟を持つことができたなら』




 その時は。






 *








 すでに渦逆の辛抱は、限界に達していた。

 それを理解していた香流は、これから襲い来る全てを覚悟するように、じりっと地に構えた。

 今にも襲いかかろうとする体を押さえつけるように、渦逆は己を抱きしめる。


『いいさ、義任、なんでもいい。 お前が己のために華を咲かせてくれるなら、己はそれを喰らうだけ』


「御託がやかましいぞ渦逆。 いいから喰うもの喰って、さっさと失せろ」


 にらみ合う人と異形。

 渦逆は身を低く構え、求めてやまない紅蓮の華に狙い定める。

 香流もこれから失うものを静寂の心で受け入れ、たくし上げていた袖を掴んで口元に引き寄せた。

 睨みつけた異形の姿。

 その前に、先刻亡くなったばかりの人が思い浮かんだ。



「(弓鶴様)」



 末期。

 穏やかだったあの笑みで、弓鶴は笑う。


『其方は、比翼を得るのかしら』


 その微笑みに、香流は決意をもって告げる。


「(弓鶴様、私は、比翼など得られますまい。 そんな遠く美しすぎる夢、私には過ぎたものだ)」


 理想は、人を魅了する。

 どうにか手に入れたいと、強く思わせる。

 でも今この場で、香流はそんな美しいだけの夢よりも、失えないものがある。

 だから、銀正と共に飛び行く空を、欲しいとは願わない。


「(私は、あの方にとっての比翼とはなれなくてもいい。 その代わり、)」


 守ろうと己を縛り続けた日々から、銀正を解き放つ。

 その命が先に進むため、背中を押す。


「(あの方の比肩として、あの方を自由にして差し上げたい)」


 今ここで、銀正を終わらせたくない。

 もう守り続けずともいい日々に、彼を送りだしてやりたい。

 だから、銀正を自由にするために。

 一人で飛んでいけるように。

 自分は、銀正が空を目指す最初の場所になる。



 私たちは片翼ではない。

 一人でだって、進んでいける。


 だから、



「(私は、あの方が飛び立つ肩でいい)」



 弓鶴が微笑む。

 香流の答えに満足したように、うっすらと消えていく。

 その幻を寂しく見送り、そして、現れた長きに渡り狩場を共にしてきた宿敵に、香流は叫んだ。




ね、渦逆! お前にはこの腕以外、何人なんぴとたりとも喰わせるものか!」


『義任ぉおおおおお!』




 咆哮。

 渇望迸る轟きと共に、渦逆は香流に迫る。

 求め続けた華を喰らい取ろうと、防御のために普段開かぬ牙までもが香流を狙って解かれた。

 香流は口に含んだ袖を噛みしめ、襲い来る痛みに備えた。

 惜しいものなど、あろうはずもない。

 新たな脅威をつくる罪も、狩士として戦う責を投げ出すことも。

 銀正が守ろうとした国のためなら。

 苦渋に耐えて生きた人のためなら。




 惜しさなど、一片たりとてあるものか!




 風が吹く。

 優しい秋風。

 遠い昔日に問いかけた香流に、笑ってあの人は言っていた。


『ああ、見つけたよ。 わしの唯一無二の『比肩』を』


 香ちゃんも、いつか見つけるだろうか。

 そう笑って撫でてくれた。




 ええ、董慶様。

 私も見つけました。

 この肩、捧げても構わないと思える人を。

 そして、理解した。

 あなたの想いも。

 いつかの日に、あなたが御自分の比肩を守ろうと贄になった意志も。



 だからこの罪、お許しください。







 牙が届く。

 香流の全てを喰いつくさんと、肉迫する。

 けれども香流は決して揺らがなかった。

 喪失も、痛みも、すでに覚悟の内。

 だから、








 だからその刹那、その身を奪った腕に、すべて忘れて瞠目した。





『「!?」』





 すでに、全ては決着している。

 そう信じて疑わなかった香流と渦逆は、突如割りこんできた影に、何もかも乱された。

 影は構える香流を片手でさらうと、突進してくる渦逆をかわして横へ跳ぶ。

 おかげで渦逆の牙は香流の腕を喰らい損ね、巨体はそのまま崩れていた柱に突っ込んだ。

 香流は自分を抱き込む体に驚きながらも、咄嗟に思考。

 懐へ手を伸ばし、崩れ行く体勢からつぶてを放つ。

 投げたものは見事に落ちていた最後の爆薬に届き、瞬間爆発。

 四つだけ残っていたものすべてが爆轟と共にそばの柱を揺らして、渦逆の爪で崩れかけていたそれにとどめを刺した。

 天井の落下と同時に崩れる柱。

 それらは香流たちと渦逆の間へ倒れ、激しいほこりを舞い上げた。



「……はっ、」



 生唾を飲む。

 これで、手持ちは使い切った。

 咄嗟のこととはいえ、それがいい手だったのか判断がつかなかった香流は、その瞬間襟元を掴んできた手に、息を飲んだ。


「っ、」


 ぐっと引き寄せられる体。

 それから近くの瓦礫に押し付けられる。

 充満する埃に目を瞬かせながら、香流は自分を押さえつける人を見た。

 これまで見せたこともないような形相で香流を睨みつける人を見た。


「ぎんせい、どの」


 きつく締めあげられたせいで苦しげに、香流は銀正に呼びかけた。

 銀正は何も言わない。

 まるで食い殺さんばかりの視線で香流を睨み、びょうとも動かない。

 どうして、と。

 どうして止めてしまったと香流は目だけで問うた。

 男はそれに、突き抜けた何かを、死力を尽くして押さえつけているかのような。

 そんな鬼気迫る声で、答えた。


「すべて誤りだったのか」


 あふれ出しそうな何かに震える声が問う。

 その意図がつかめない香流は、呆然と銀正を見上げ続けた。

 香流の戸惑いを受けた銀正は、悪鬼の形相のまま繰り返した。


「己を犠牲に守ろうとしたことは、誤りだったのか」と。


「銀正殿……?」


 押さえつけられたまま、香流は手を伸ばす。

 その手を気配だけで拒絶して、銀正は顔を伏せた。

 そして、震えるような声で小さく呟く。


 自分を犠牲にしてきたその果てにある結果が、あなたという犠牲なら。


 だとするならば、



「すべて謝るから」


 もう、一人で選ぼうとなど、しないから。

 一人選び、一人進もうとなどしないから。

 だから、


「置いていくな」



 振り絞られた言葉に、香流は目を見開く。

 雫が降り注ぐ。

 泣いていた。

 守ろうとした人は、泣いていた。

 行かないでくれと、嘆いていた。



 銀正は掴み上げた香流の襟に額を押し付けると、振り絞るように喉を震わせた。

 そして、悔いをさらすように告白した。



「分かった。 分かったんだ。 全部、自分で決めたのは…… きっと、守りたいなんて二の次で、自分一人決断したのは、」


 置いていかれたくなかったから。


「!」


「あの人は、私を置いて行ったから」


 董慶は。

 銀正の大切な人は、自分で決めて、先に行ってしまった。

 銀正を置き去りにして。


 あの日、銀正は理解してしまった。


 選び進まなければ、置いて行かれる。

 だから。

 置いていかれるのはもう嫌だったから。

 故郷を守る選択をして、今度は自分が先に進もうとした。


 それは結局、


「結局、残されることを恐れただけだ。 守るなんてきれいごとで隠して、私は一人取り残されることだけが恐かった」


 そして今も。

 自分を守ろうと選んだ香流に置いていかれまいと、その断固たる決意をふいにした。

 香流は、銀正の全てを守ろうとしてくれたのに。

 ただ一人。

 香流一人に置いていかれることが恐かった。



「…………ぎ、」

 んせいどの。


 咄嗟に、香流は顔を寄せていた。

 まるで打ち捨てられた捨て子のような有様に、言葉をかけずにはおれなかった。

 だが、口を突いた言葉は、男の両手が顔を掴んだことでかき消される。

 銀正は決して離さないとでも言うように香流の頭を引き寄せると、噛みつかんばかりの距離で叫んだ。

 当たり散らすように、全て擲つように、叫んだ。




「私を生かすというのならっ」


 私を比肩にと望むなら、


「決して私を置いてゆかれるな!」


「私のために犠牲となるな、私を一人にしようとするな!」


「あなたがいなければ意味などないんだ!」


「あなたの血で塗り固められた道など、死んでも御免だ! だから、」




 だから、置いて行かないでくれ。






「私を、手放さないでくれ」











 香流は、瞠目に男を映し続けた。

 そして、当たり散らされた全てを聞き遂げた。

 瞬き、のちに瞑目。

 呟いた。


「弓鶴様がおっしゃった比翼にはなれずとも……共に飛ぶことは叶わずとも。

 あなた様が自由に飛び立てるように、私はこの肩を差し出そうとしたのですがね……」


 零れ落ちる雫を頬に受けながら、香流は観念したように言った。

 諦めたように漏れた吐息に、銀正の呼吸が混ざる。

 香流の諦めに、男は苦悩も悲嘆も何もかも遠ざけた顔で断じた。



「一人飛ぶ、空はいらない。

 刹那に千里を後にする翼があったとしても、

 私はあなたと行けるなら、千里に踏み出す足だけあればいい」



 翼はいらない、共に行こう。



 起き上がった影が、香流に手を伸ばす。

 そして鬨の声を告げた。


「渦逆をる」


「!」


 そんな、無理だ。

 香流は目だけで否定した。

 だが否定する香流の理性を切り捨て、銀正は最早叶わぬ道を行こうと、覚悟を問う。


「獲れる。 そのために、あなたに何もかもを託す。 だから、」


 私にあなたの何もかもを預けてくれるか。



 そう言って、銀正はこの国最高峰の脅威を獲るための術を告げた。



 男の秘策に、香流は目を見開く。

 あまりの内容に、それはと話の真偽を問うた。

 銀正はそれに真と応え、ゆっくりと差し出された香流の手を握る。


 確かに握り合った手に力を籠め、頷いた。



「私が、あなたを生かす。 あなたも、私を生かしてくれ」



 先に行きもしない。

 残されもしない。

 共に歩くために。

 その手を、取った。














 虚しく空を噛んだ牙を舐め、渦逆は瓦礫から立ち上がった。


『よしとおおおおおおお…………』


 愛しい狩士。

 愛しい華を求め、地を這うような唸りを漏らす。


『どこだぁぁああああ、よしとお…… 己の練華ぁああ……』


 鼻先にぶら下げられた垂涎の赤を求め、渦逆はもうもうと舞う砂埃を睨む。

 すでに限界だった。

 耐えて耐えて耐えぬいて。

 求め藻掻もがいて、ようやく再び巡り合った。



 この世に代わるモノのない、至上の美味。



 もう耐えてはいられなかった。

 渦逆は狂おしい程に愛おしい華を探し、そして、





 見つけた。



 ――――いや、それは男。






 ようやく叶うはずだった瞬間を邪魔した、憎悪するべき若造。

 それが砂埃の向こう、刀片手に立っている。

 見つめられている。

 睨みつけられている。

 その目は語っている。


『お前を狩る』


 不退転の覚悟で、突き付けている。


 それに嗤いが漏れた。




 ――――ああ、可笑しい。


 可笑しくてタマラナイ、



 オマエ如キガ 己ヲ狩ルダト ?



 笑ワセルナ、



 笑ワセルナ、




 笑ワセ







『笑ワセルナアアアアアアアアアアアア!!』 





 咆哮は、怒り故か。

 それとも。


 角の異能を開放した渦逆は、そのまま一直線に男を目指した。

 全てを千々にする己の力で、男の頭を吹き飛ばすために。


 殺して、殺して、殺して、


 そうして残った唯一の華を、喰らうあいするために。





 持てる力全てをかけて、飛びかかった。


 男は決して逃げなかった。


 そして握りしめた刀を、





 背後へ放る。




『!?』




 唯一の得物を手放した男に渦逆は驚き、しかし、躊躇ためらいなど抱かず爪を振るった。


 男はそのすべてを揺らぐことなく見つめていた。


 何かを信じている様な。


 そんな目で見ていた。




 

 そして、両耳を塞いだ。





 迫る渦逆を最後に射抜き、その目すら閉じる。





 すべてを捨てて、男は無防備になった。




 それを、渦逆はただ眺めていた。




 これで殺せる。




 ただ、それだけ思って眺め、






 爪を振り下ろした。














 銀正は自分に食いついた渦逆を認めると、惜しげもなく抜き身の刀を手放した。

 投げ捨てた刀は背後に渦まく砂煙に消える。

 これで身を守る術は失った。

 そう理解しながら、それでも銀正は引かなかった。


 もう託したから。


 この国も命運も、この身に宿る命も。


 己が信を置けるたった一人と見つけた人に、預けたから。




 だから、銀正は己がやるべきことを成すために、体一つで異形の前に立った。




 恐ろしさなどない。

 本当に恐ろしいのは、置いていかれること。

 遠くなる香流の背中を見ているだけの無力に打ちひしがれること。


 それを心底理解した銀正は、香流に渦逆を倒す策を持ちかけた。


 全容を聞いた香流は、まさかと目を瞠っていた。

 確かに、すぐには信じられない内容ではあった。

 それでも銀正が信じてくれるかと問うと、香流は瞬き一つで頷いた。

 銀正はさらに言い募った。

 この策は、しくじれば二人とも死ぬ。

 それでも、二人で生きるために、挑んでくれるか。

 背負ってくれるかと。


 香流は躊躇いなど見せなかった。






 渦逆が異能を振り翳して迫りくる。


 銀正は引かない。

 自分を粉々に消し去る力を前に、全てを捨てる。


 聴覚、視覚。


 回避のための緊張すら手放して、たった一つの音を拾うために神経を研ぎ澄ませた。



 この手は、国を押さえられた今までは、明命相手には使えなかった。

 使おうにも、この身すべてを預けられる誰かもいなかった。

 誰にも頼れなかった。


 でも今は違う。


 生理的な恐れがどこかで揺らぐような気がした。

 しかしそれも全て、遥か彼方。

 

 だって、銀正は手に入れた。



 生きるために。


 そのために共に死ぬ覚悟をと願った自分に、勿論と頷いてくれる人を。





 例え先が死だとしても、共に川を渡る覚悟を固め合うことができたなら。


 最早この世に、銀正を真正躊躇わせるものはなかった。




「(あなたが、私を自由にしてくれた)」



 この身に巣くい続けた孤独という恐怖から。





 ありがとう。










 飢神を前に、目を閉じて、耳を閉じて。


 そうして銀正は、遠い昔、董慶と交わした約束を踏み越える。


 あの日の董慶の声が、鮮やかに響く。




『銀正、お前は、『希色まれいろ』だ』


『希色とは、奇児の中でもさらに希少な力を持つ子供のことをいう』


『希色が特別なのは、その能力ゆえだ。 これらの子らが持つ力には、ある特殊な決まりがある。 それは必ず飢神に関わるものだということだ』





『銀正、お前さんの力は、見るのと聞くのを封じることで飢神の「牙」を「一瞬だけ強制的に開放」する能力だ』



 閉じた世界に聞いた『音』を唱えることで、牙を解き放つ力。



『古い文献の通りの、「破牙」の能力だ』






 それは、外界へ開かれた器官を鎮めることで、希色にのみ発現する能力。

 目を閉じ、耳を閉じ。

 そうして捉えることができる、微かな音。


 それは、飢神の魂を縛る絶対の音色。






『その力を使うとき、お前さんは飢神の前に無防備になる。 だからいつか。 お前さんがその力量と性根の美しさに、これこそ信を置くべき人だと見出した誰かに出会ったとき』


『その誰かを守りたいと願ったとき』


『その時にだけ、力を使うことを許そう』




 


 渦逆の気配が目前にある。

 殺すためだけに殺したいと狂い果てた獣が、銀正の灯をかき消さんと異能を振り下ろす。

 けれども、銀正はもう見つけていた。


 その力量と芯の美しさ。

 全てに魅せられ、心から求めた人を。



 だから今こそ、この力使うとき。






『命を代償に、それでもと覚悟を持つことができたなら』


『その時だけ。 生きて帰るため、生き抜くため。 それを使え、銀正』


『希色のその力』


『生きるために使え、銀正』






「(……あの日交わした約束。 今この時、越えて行きます、師匠)」






 音もない、色もない。

 それでも閉じられた世界に、銀正はその音を聞く。


 目前にある飢神の気配。


 振り下ろされる死の爪先。


 それでも、




 あなたと生きるため。

 



 どうか、託されてくれ。


 私も全てをあなたに。





 そして微かな音を、銀正は捕らえた。





 肉迫する渦逆の刹那。


 、異形の脈動と共に響き渡ったそのおとを。




 懐かしい声が、遠くで叫ぶ。


 生き行けと、銀正の背を押して。



 董慶の声が届いた気がした。






 叫べ、銀正……!!










「『呂縄六生飢神ろじょうろくしょうきじん』……!!」



 閉じた耳殻に、己の叫びだけが響いた。













 男が何かを叫んだ瞬間、渦逆は己の何かが解き放たれたのを感じた。


 それは飢神の魂を縛る音。


 命にあらかじめ編み込まれていた、一つの呪縛。


 そして男が叫んだのは、その呪縛を解くくさび



 すべてを理解する必要などなかった。



 男の叫びを耳にした刹那、渦逆は己の縛りをと知った。



 解き放たれた魂は、その勢いのままに飢神の防衛本能を全て無に帰す。



『!!!?』 



 意思を黙殺し、牙が ――――解放される。




 解かれる。

 無防備になる。


 だがそれは、解放を得た魂が震える一瞬のこと。



 再び眠りにつく本質に代わり、本能が己の核である灯臓を守らんと牙に命を飛ばす。


 防御、防衛。


 生命を守る行動を起こせ。


 命じる声に突き動かされ、渦逆は牙を閉じようと力を籠めた。







 だが、その刹那。


 歴戦の狩人の前に、あまりに長い。







『!!』



 急所を晒した異形は、襲いかかった男の向こうに、影を見る。


 それは砂煙を切り裂いて、疾風のように現れた。


 飢神を狩り取る一本刀。


 男が投げ捨てた得物を携え、娘は風を切る。



 その白刃の眼差しは火炎の意志。



 ただ一つ。



 永年の宿敵を見据え、男の脇を駆け抜けた娘は、勝鬨かちどきを告げた。





「御明、頂戴…………!!」





 野火はしるが如き一閃。


 その太刀筋は確実に発光する灯臓を捉えた。



 異形は瞠目し、自分の最期を目撃する。



 全ては、瞬きの内。






 核を断ち切られた渦逆は大きく震えると、嘆息。


 何かから解放されたかのように遠くを眺め、そして力を失った。




 華を求め、華に狂わされた。


 憐れな異形の最期だった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る