五十

 赤々とした鮮血が、煌びやかな着物を染めてゆく。

 次から次へと噴き出して、雨のように、涙のように、流れていく。


 そうしてできた血だまりに、細い体はどうっと沈んだ。




「母上っ!」


 降りしきる赤い雨粒にすら触れられず、銀正は伸ばした手のまま叫んだ。

 叫んで、そして、がむしゃらに動いて、母の体を抱き起した。

 抱えた体は力なく弛緩しかんし、弓鶴は虚空を見つめて唇を血で汚す。


「そんな、母上、どうしてっ」


 悲痛な呼びかけに、全てを目撃していた香流は即座に動いた。

 香流は素早く刀を握り直すと、弓鶴を切り裂いた明命の鎌を鋭い眼差しで捕捉。

 伸縮して戻ろうと空を舞っていたそれを、一刀両断に断ち切った。



『ぎゃあああああ!』



 片腕を失った蟷螂が、苦悶の絶叫を上げる。


『わしの腕、腕があああああ!』


 飢神は灯臓がある限り、いずれ体の欠損は再生されてゆく。

 だが長らく城に籠り、手傷を負うことのなかった明命は、久方ぶりの痛みに狂って暴れた。

 香流の刃を逃れていた上格たちがその身を案じてすり寄る声を背にし、香流は弓鶴のもとへ走る。


「弓鶴様っ」


 銀正のそばへ滑り込むように膝をつくと、香流は焦燥した様子で弓鶴の傷を確かめた。

 裂傷は弓鶴の肩から腹を裂き、大量の出血に濡れていた。

 重ねた着物のおかげで即死は免れたようだが、この血の量では長くはもたない。

 全てを悟ってしまった香流は、血に汚れた白い頬を撫でて首を振った。


「どうしてですか、弓鶴様。 どうして……」


 苦悶の問いかけに、弓鶴は苦しげに笑った。

 それは、なにかを嘲笑うような、皮肉気な笑みだった。


「動かないでください、傷に障る」


 武骨な腕で労わるように母を支える銀正。

 銀正自身もこの傷では助からないと理解しているだろうに、それを否定するような声音で弓鶴に呼びかけた。

 香流は銀正の想いを支えようと、弓鶴の打掛を断ち切って傷に押し当てる。

 二人がかりで救命処置に尽力するが、出血は一向に治まる気配がなかった。

 香流は歯を食いしばって止血に力を籠める。

 力を籠めながら、どうしてと呟く。

 その呟きに呼応するように、銀正もなぜ、と顔を歪めた。

 そんな二人を下からじっと見上げていた弓鶴は、突然ふっと柔らかく微笑んで手を伸ばした。

 手は、銀正の傷跡が深い頬を包んだ。


 初めてのことだった。


 初めて銀正は、自分を邪険にしてきた母親に、母親自身から触れられた。

 その事実が信じられず、銀正は息を飲んで瞠目する。

 息子のそんな顔が可笑しかったのか、弓鶴は覚束おぼつかない呼吸の合間に、小さく笑い声を漏らした。


「馬鹿な子…… お前を、見捨ててきた、母に…… この期に及んで、助けの手を、のばすとは……」


「っ、」


 弓鶴の揶揄やゆへ、銀正は痛みをおぼえたような顔をする。

 確かにこの母は、幼子の銀正を捨てた母だった。

 寺に預け、けしてかえりみるをせず、長じては明命に手駒として売り渡した人だった。

 銀正の師を奪い、故郷を食い物にするかたきくみし。

 銀正の名を呼ばず、呼びかけに答えず。

 ついには銀正と香流の仲を裂き、それを自分の慰めにしようと画策するような、非情な人だった。

 

 ずっと、どうしてと思っていた。

 どうして、この人は人の道に反する選択をして美弥を飢神に売り渡し、それを静観して平気でいるのか。

 どうして銀正の呼びかけに応えてくれないのか。

 どうして、ただ目を見て銀正がそこにいることさえも、認めてくれないのか。

 ずっと、分からなかった。

 ただ、答えを知りたいと思っていた。

 恨んでいた。

 憎みすら。

 でも。

 それでも、死んでまでほしいとは、思ったことがなかった。


 だって、ずっと銀正は、唯一の家族であるこの人に、自分の生家である右治代へ、お帰りと迎え入れてほしいと願っていたのだから。



「……あなたを恨んでいます、今でも。 きっと、これからも。 しかし…… あなたは私の親だ、唯一の肉親だ。 憎んでも、それでも、死に別れてまで失いたいはずもない……ッ」



 恨んでいた。

 憎んでいた。

 それでも、死までは望めなかった。

 きっとそれは、子供の頃に得られなかった親愛の欠如故の、肉親への執着だった。

 けれども。

 銀正は董慶に出会い、寂しさを埋めることもできた。

 あの頃のおかげで、銀正はただ純粋に願うこともできるようになっていた。

 失った家族というものを、いつか取り戻してみたい。

 例え、その家族が銀正を見てくれなくても。

 恨み、憎むその対象でも。

 だから。

 こんな姿を、見たくなかった。


「どうして……っ」


 悔やむように、銀正は母を責める。

 その顔をただじいと眺めながら、弓鶴はそっと銀正の頬を撫でた。

「……馬鹿な子」と。


「嫌な子…… 死ぬほど、うとましい子」


 涙をこらえる息子を前にして、弓鶴は情け容赦ない言葉を吐く。

 けれど、


「あの方に、生き写し」


 はっと、香流と銀正は息を飲んだ。

 その様を再び微笑んで見つめ、弓鶴は微かな吐息と共に、


「憎ぅて…… 憎ぅて、仕方がなかったぁ」


「こんなに愛おしいのに」


 そう、明かした。






「はは、うえ?」


 耳飛び込んできたものに、銀正は思考を止める。

 目を見開き、呼吸を止める表情を笑い、弓鶴は香流へと力ない手を差し伸べた。


い、子」


「弓鶴様、」


 聞き取れなくなっていく声にすがるように、香流は白い手を握った。


「結局…… あの夢は、馬鹿な女の見た、馬鹿な夢、だった」


「いいえ、いいえ、弓鶴様。 あなた様は確かに理想を追っていた。 でも、そこにあった耀角様への想いは、偽りないものだったはず。 あなたの見た理想は、けっして愚かな夢ではない」


 あれほど大切に抱えていたものに泥を塗る弓鶴の言葉を、香流は懸命に否定する。

 今、香流が言わなければ。

 香流が否定してみせなければ、弓鶴の想いが全て捨てられてしまう。

 そう直感していた香流は、心をぶつけるようにゆっくりと首を横に振った。 

 けれども弓鶴はそれを寂しげに眺め、そしてどこか遠くを見ながら唇を震わせた。


「分かったのだ、愛い子。 私は、例え信を…… 得られず、とも…… あの方の、そばに、在りたかった」


「それだけで、よかったのに」


「私は…… 理想に、拘泥…… する、あまり、道を…… あやまった」


「だから、今度は、間違わない」





「私は、」


「あの方に、会いに行く」





 花が、ほころぶ。

 それは、咲き綻んだばかりの花。

 生れ落ちたばかりの心。

 恋心。

 その可憐な一輪華。

 弓鶴はまるで少女の頃のあどけない恋する顔で、笑って言った。

 香流は瞬間、呼吸を止めた。

 そして、分かっていたと、頭のどこかで声がするのを聞いた。


 そうだ、分かっていた。

 船上で弓鶴が言った時から。


『どんなに恨もうと、憎もうと、その火が年を重ねるごとに潰えていくのを感じていた。

 私はもう、消えゆくあの人の記憶に縋りながら、悲嘆にくれているだけなのだ』


 そう言って、そして、


『ずっと、あの人を忘れないと、誓ったのに』


 耀角様を想うことだけは変わらない。

 いや、変えたくないと、言外に告げた時に。



 ああ、この人は、もう疲れ果てているのだと。

 想いを抱え続け、憎しみに浸り続けることに、疲れ切っているのだと。

 そして、予感していた。


 『変わらない』。


 そう決めてしまったこの人は、いつか変わること――――つまり、生きることを拒絶してしまうのではないかと。

 分かっていた。

 分かってしまっていた。

 しかし、そうならないことをどこかで願い、その声を封じ込めた。


 ――――願っていたのに。


 なのに、あなたは、その選択をしてしまったのか。

 香流は悔恨にまみれた顔で、握りしめた弓鶴の手を胸に抱いた。


「そう、いてかずとも、よろしかったでしょうに……」


 震える声が、弓鶴を責める。

 それをひどく優しい面持ちで眺め、弓鶴は、


「愛い子…… 香流」


 初めて、香流の名を呼んだ。

 そして、


其方そなたは、比翼を、得るのかしら……?」


 何かを挑むように、香流の手を引くように、己の抱き続けた夢を託して結びあった指先を絡めた。

 その交わりは儚い束の間だった。

 力ない手はゆっくりと香流の手を離れると、何かを探すように空に伸ばされる。





「もう、一人は、やめに、しましょう……」





 そこにいるはずもない誰かを見据え、弓鶴は泣く。


「もう、置いては、いかせません。 待ちも、致しません」


 か細い声が、残り少ない命を溶いて、空に放たれてゆく。


「お傍に、ゆきます」


 あなたの、そばに。

 そう、私はもう一度、決めたから。


「あなたのそばに、」


 ねぇ、愛おしい人。





「耀角様」





 想いが解ける。

 想いが生まれる。


 空を掴んだ手は地に落ち、弓鶴は今生に別れを告げた。

 望む場所に行くために。

 自ら死を選ぶその選択は、決して美しいだけの在り方ではなかったが。

 

 香流と銀正はその旅立ちの瞬間を、一切邪魔しなかった。

 もう、二度と。

 弓鶴の想いが絶望に染まらぬよう、只管ひたすら願うばかりだったから。






 *






『痛い! 痛い、痛い、痛いいいいいい!!』


 腕を失った明命が、正体を無くして怒り狂っている。

 傷口からはおどろおどろしい体液があふれ、べちゃべちゃと辺りを汚していた。

 明命を囲んで縋る上格たちは、自分たちがかしずく異形の怒りに、おろおろと戸惑うばかり。

 弓鶴の旅立ちを看取った香流は、そんな騒ぎ背にしながら、そっと血と涙に濡れた白い頬を撫でた。


「弓鶴様、」


 彼岸へ渡った顔は、ひどく安らかだった。

 

「本当に、そう急いて追わずとも、ようございましたでしょうに……」


 もう一度、そう責め言を呟き、目を伏せる。


「きっと耀角様も、あなた様のこと。 その寿命が尽きる日まで、ずっと待つおつもりでしたよ」


 きっと。


 弓鶴が耀角を思い続けると、『変わらぬこと』を選び、それに疲れ果てていると直感していたときから。

 もうこの人は、どこかで解放を願っているのだろうと。

 その命を燃やす意志は、ついえ始めているのだろうと。

 確かに香流は分かっていた。


 でも、それでも。

 香流は、自分は。


 弓鶴の終幕が、このような痛みにまみれたものであってほしくなかった。

 あの凍てつくような炎を忘れ、いつか弓鶴が、本当の安らぎを取り戻すことを、願っていた。

 香流はただ一目、弓鶴が心安らぐ姿を、この目で見てみたかった。


「ただ、寂しい」


 寂しいですよ、弓鶴様。

 あなたが、その選択をしたことが。

 残された私は、そして銀正殿も。

 寂しくて、心許ない。



 ――――それでも、あなたが行きたいと願った場所へ向かうことを、止めることなどできようか。




「どうか、迷いのない旅を」


 その黄泉路、必ず安らかであれと、心よりお祈り申し上げます。


 弓鶴の力を失った両手を整え、香流は最後にもう一度弓鶴を見、銀正を見た。

 銀正は呆然と虚脱し、母を見つめていた。

 頬には一筋だけ、むなし気な雫の跡。

 末期に明かされた真実と、失ったものの大きさに打ちのめされ、悄然と母を抱えていた。

 そんな悲しい横顔に香流は両手を伸ばし、そっと頬を包む。

 柔らかな力でうつむく顔を支え、かすみに沈む目を見つめた。


「銀正殿」


 失意の微睡から呼び覚ますよう、香流は銀正を呼ぶ。 

 優しく、強く。

 決して無視させない心で銀正の悲しみを払った。


「旅立ちです。 もう、あの方は、望む場所に行かれてしまった」


 あなたの大切な人は遠く川を渡った。

 しかし、


「ですが、私がお傍に居ります。 どうか、心お強く」


 霞に飲まれた目が、わずかな光を取り戻す。

 その様を眺め、香流は儚く笑った。

 そして次の瞬間、武人のそれへと眼差しを切り替える。


「弓鶴様を、あれの鎌が届かぬ所へ」


 立ち上がざま、鋭く言い置くと、香流は刀を片手に暴れ狂う異形へ向き直った。


「香流殿……!?」


 我を取り戻した銀正が、その背に苦しげな呼びかけを飛ばす。

 行くなと。

 あなたまで失えないと、痛々しく香流を引き留める。

 だがそれを、香流は刀を振り下ろすことで断ち切った。


「御心配召さるな、御当主」


 目の先で構えた刃を、巨大な獲物を、鋭く睨み、断じる。


「すぐに終わらせますれば」






 明命の叫びは止まない。

 狼狽える上格たちの動揺も治まらない。

 そんな中を、香流ただ鎮魂のために祈った。

 

 弓鶴様。


「(きっと、私は、比翼など得られないでしょう、弓鶴様)」


 そんな美しい理想。

 一介の人間である香流には、過ぎた夢だ。

 しかし、


「(でも、それでも、人はその理想を遠く目指しながら歩んでいくことはできる)」


 あなたは届かなかったと嘆いたけれど。

 香流は美しいその夢を強く求めた弓鶴を、心から愛おしいと思った。

 あの人は、愛したただ一人の人と、共にあるために。

 そのために、人が見るには遠すぎる夢に挑んだ。

 その心、香流は決して何者にも、愚かと切り捨てさせはしない。

 そして、遠すぎる夢を見られるほど強くない自分は――――


「……私は、腹を決めましたよ、弓鶴様」


 目前に捧げた刀に、香流は誓う。


「私も、今生を捧げる覚悟を、」


 まなこの奥。

 香流の前に全てを見せた、白銀の人が佇む。

 この国を背負い、立ち続けた人。

 その人へ。

 その人ただ一人に。

 

 この国の闇に一輪咲き、多くを守ろうと汚れ続けた泥中の花へ、終生の誓いを。


「私の真、捧げる覚悟を」


 これが、私の全てが導き出した答え。










『餌だぁああああああ!! 餌を寄越せッッッ 痛いいいいいいい!』


 すり寄る上格たちを振り払い、明命が血走った目で香流を探した。

 複眼の目は香流を捉え、牙の生え揃った口元がだらだらと臭い唾液をしたたらせる。


『肉ぅ!! 肉肉肉、肉だぁ!! 娘ぇ!!!』


 欲と痛みに狂うた異形が、重々しい図体を引きずって近づいてくる。

 香流は銀正たちにそれ以上近寄らせぬため、ゆっくりと歩み出した。

 歩き、そして刀を振り下ろし、鋭い鬼気を全身にまとわせる。


 狩る。


 ただ、それだけ。


 それだけの意志で、白刃の眼差しを明命に突き付けた。




 瞬間。



 に、二者は止まった。




『「!!?」』




 近づいてくる。





 直観が、外へと香流と異形の意識を飛ばす。


 来る。


 来る。



 ――――来てしまう!!





 刹那、香流は振り返って叫んでいた。


「御当主ッ 伏せて!」


 声は、届いただろうか。

 確かめる前に、音は轟いた。





 ズガガガガッ ドゴォオオオオン!!





 凄まじい衝突音。

 一瞬で辺りは砂埃に巻かれ、香流は顔を庇って柱の陰に伏せた。


 何が起こったか。


 突然のでき事を、多くは理解していなかっただろう。

 だが香流だけは、『そうでなければいい』――――そう日和ながらも、見当がついていた。


 そしてその見当の成否を告げるように、声は響いた。



『ようやっと、入れたわいなぁ』



 声を聴いたと同時。

 香流ははっと顔を上げて苦渋にまみれた色にそれを染める。

 それから『ちっ』っと鋭く舌打ち、美弥の外にいるであろう兄を詰った。



「大口叩いておいて、この体たらくですか、兄様」



 砂埃が濃い。

 先を見通せない。

 だが、それは確かにそこにいた。



『あ~ 懐かしい匂いがする……』



 気だるげな独り言をつぶやいて、異形は立っていた。

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