四十八

そそぐだと? どうやってだ』


 恫喝するような唸りが、空気を震わせる。

 明命は飢えた獣がそうするように、頭を低くしてのどを鳴らした。


『どうやってその男の血を払うというんだ、小娘。 お前は、今からわしの腹に入るのだよ?』


「な!?」


 粘ついた唾液にまみれる牙を歪め、明命は香流を舌なめずりして見つめる。

 そこにあるたまらなく自分を喰いたそうな欲を睥睨し、香流はそれでもいでいた。

 ただかたわらにある銀正は明命の言葉を看過ならないとばかり、腰を上げて首を振った。


「待てッ ――――どういう、つもりです…… なぜ、この人を喰おうなどと!」


『お前の嫁が、次の贄だからだ』


 切って捨てる明命の返答に、銀正は息を飲む。

 しかし即座に厳しい顔つきで申し立てた。


「彼女は中央選出の右治代の嫁です! 贄になど…… 許されない!」


『死の偽装などどうとでもなる。 わめくな右治代、わしはそれが喰いたい!』


 喰いたい。

 抑えきれない。

 雄弁に語る複眼に、香流が映る。



『いい匂いが香る…… かぐわしい、たまらん匂いだ……


 その娘、相当の練の持ち主だ』



 喰らいつかんばかりに断言する異形。

 その卑しい有様を、香流は白刃の眼差しで見つめていた。






「香流、殿が……?」


 戸惑い、あるいは、疑いを混ぜ込んだ視線で、銀正が香流を見る。

 眼差しは大半が疑いに揺れている。

 それもそのはず。

 男ならいざ知らず、女人の業人は、



『女の業人は、希少だ。 しかもこれだけの練の持ち主、そうそうお目にかかれぬ』



 業人は、道を究める過程で練を積み、真人に至るもの。

 そのため、職能を持つ者がその母数に多く、職を持つ、つまり、平均的に男子の方が業人に多い。

 女性の業人もいなことはないが、舞踊や手習の類で求道的な道に進んだ者。

 男に混ざって職能を得た者といった、少数に限られる。

 しかも飢神にとって女の肉は男のそれとはまた違った味がするらしく、その希少性から垂涎の対象とされているという話だ。


『舞いか? あるいは技能の類か…… どちらにしろ、わしら飢神にとってみすみす逃せる獲物ではない。 ――――それにおそらくその娘…… いや、そんなことは、もうどうでもいい』


 明命は不自然に言葉を切ると、ずりりと御簾みすの下から這いずりだし、


『喰わせろ、その娘! 贄としてわしに捧げよ、右治代!』


 ぼたぼたと唾液をまき散らしながら鎌を振るった。




「だめだ!!」




 先刻までの恐慌を振り払い、銀正が香流をかばいに前へ出る。

 香流はその背をじっと見ていた。

 その背が、決して香流のもとから動かぬという覚悟に満ちるのを、じっと見据えていた。

 だから、何も恐ろしさなどなかった。

 この人がいる。

 他の誰でもない、銀正がそばにいる。

 だとすれば、この身に迫る脅威など、何一つとして恐るるに足らず。

 香流は低く身構えて明命をにらみつける。

 その牙が己の喉元を狙う瞬間を逃さぬように。


 その時だ。





「明命様」


 突然、緊張の走る場に玲瓏な声が落ちた。

 香流と銀正ははっとその主を探し、明命はピクリともせぬまま香流たちを凝視して動かない。

 けれどそんな異形に、声の主は淡々と続けた。


「落ち着き下さい、明命様。 そうかずとも、この子らがあなた様の檻から逃れる術はありませぬ」


 弓鶴だった。

 それまでまったくの静観を決め込んでいた弓鶴が、堂々とした歩みで明命と香流たちの間に割り込んでくる。


 弓鶴様、母上、と香流と銀正が呟く前で、弓鶴は打掛を翻して明命を見上げた。



「あなた様には、喰いきれぬほどの業人がこの国にあるのです。 そう頑是がんぜない幼子のように、この娘だけに執着することもないではありませんか」


『……何のつもりだ、弓鶴』


「なに、あなた様の御代を盤石なものとするために、少しばかりご配慮いただけぬかと思いましてな」



 唐突に申し立てを始めた弓鶴を、香流と銀正は戸惑いながら眺めた。

 弓鶴は身の丈以上の人食いを相手取っているというのに、平然とした様子で続けた。


「今、この娘を食らうはやすき事ですが、この子らにはまだ子がありません。 いずれこの右治代当代が何らかの理由で使い物にならなくなった時のために、世継を残しておいた方が得策かと」


 銀正が息を飲んだ。

 香流はすっと目を細めて弓鶴を見つめる。


「(どういうおつもりです、弓鶴様)」


 言葉通りの提言か、あるいはもしや…… 庇われているのか?

 能面のような顔のままの弓鶴の意図がつかめず、香流は静観した。

 弓鶴を見下ろしている明命は、わずかに顔をこわばらせたらしかった。


『わしに、待てと申すか』


「世継さえあれば、その子を右治代当代にして、反抗するこの子らを始末すればいい。 あなた様がわずらわされることもなくなる。 なに、ほんの数年の話です。 先を見通して、先手を打っておくに越したことはありますまい」


『…………』



 朗々と語る弓鶴の言葉に、その場の者すべてが聞き入った。

 香流も苦い顔をしながら弓鶴を見つめていたが、


「っ!」


 不意に目前で湧き上がった気配に、息を飲んだ。

 気配は弓鶴が対峙する異形から、渦巻くように溢れる。

 そこにひどく警戒心を掻き立てられるものを感じ取り、香流は焦った。

 いけない。

 咄嗟に銀正を押しのけて前に出ようとする、その時だ。




「これらが子をすまで捨て置き、それからこの娘、喰ろうても……」



『ああ、ああ、やかましい!』




 細い弓鶴の声を遮り、明命が轟音で喚きたてた。

 謁見の間を震わせるほどの苛立ち。

 突然の明命の怒りに、香流たちは身構え、弓鶴はたじろいだ。

 明命は制御できていない欲の灯を複眼に宿し、弓鶴を睨みつけて鎌を床に突き立てた。



『世継だと? 子供だと? それができるまで、わしにその娘を喰わずにいろというのか!? ふざけるな…… ふざけるな弓鶴!!』


『わしは今! 今、その娘を喰いたいのだ! ただ今、すぐにだ!』


『だというのに、待てだと? このわしに待てと申すか、弓鶴! 貴様程度の分際でっ』


『邪魔立てするな! わしに手向かうなら弓鶴、そこな娘同様、お前も食うてしまおうぞ!』




 欲に荒れ狂う明命が、怒りに正体を無くしかけながら弓鶴を拒絶する。

 巨体の異形の威嚇を真っ向から受けてしまった弓鶴は、怯えるように一歩退いた。

 その瞬間を見逃さなかった香流は、「弓鶴様!」と呼びかけて、咄嗟に走り出していた。

 香流を庇っていた銀正も、一瞬遅れてその後に続く。

 香流は倒れ落ちそうな弓鶴の体を支えると、細い体を抱きしめて腕の中に庇った。


「大丈夫ですか、弓鶴様?」


 顔を覗き込んで問いかけるも、弓痛は白い顔のまま、あの玻璃はりのような目で明命から目を離さない。

 そこに、拾えるような感情は一片も見当たらず。

 それでもなお、香流が何事かを言い募ろうとした時だ。




『もういい。 もう、お前は用済みだ、弓鶴』




 冷徹な宣告が、二人のもとに落ちてきた。

 香流ははっと明命を見た。

 複眼の瞳孔が細まるのを見た。

 その腕の中で、弓鶴が震える。



「……よう、ずみ?」


『ああ、そうだよ、弓鶴。 わしはもう、お前にはほとほと愛想が尽きたのだ』



 体をのけぞらせ、明命が弓鶴を睥睨する。


『右治代の家を任せているというのに、事あるごとに城に逃げ込んでは、惨めったらしく泣きおってからに』


 泣く?

 明命の言葉に、香流は眉間を寄せた。

 怒りを向けられている当の弓鶴は、おののくようにびくりと大きく体を揺らす。

 どういうことだ。

 どうして、この人は泣いていたというのだろうと香流が思考した瞬間。



『我が身が守られていたとも知らず、己を庇い続けた伴侶のかたきの肩で己を慰めるとは、全く救えぬ馬鹿な女だ』



 突き立てるように振り下ろされた異形の言葉に、二人は固まった。


「守られていた……?」


 明命を凝視して、香流は呟く。

 その胸元で、弓鶴がゆっくりと顔を上げた。


「はん、りょ?」


 舌っ足らずな問い返しだった。

 それを正確に聞き捕えたらしい明命は、歪な笑みを顔いっぱいに張り付けて言った。


『いい加減、黙っておくのも飽いていたのだ。 弓鶴、お前のこれまでの働きに免じて、お前の夫の真実を教えてやろう』


 そう言うと、明命は腹の下に転がっていた法師の明命の体を鎌で払い、香流たちの目の前に転がした。


『わしが隠れ蓑に使っていたこの男。 お前はこれがを、知っておるな?』


「ぁ……」


 死人のようにくずおれた僧侶姿の男を眺め、弓鶴は浅く息を吐く。

 もともと血色の良くなかった唇が細く震えるのを見取り、明命は傲然と吐き捨てた。


『そうだ、これはお前の夫の背を守っていた男。 十余年前、当時の美弥狩司衆第二の実力者だった、前々代右治代当主の比肩だ』


「なにっ!?」


 明かされた事実に、香流の反対で弓鶴を庇っていた銀正が、驚愕の声を張った。

 そして、ありえないとばかり、首を横に振る。


戯言たわごとをっ 父の比肩だった男は、亡骸が確認されていたはずだ!」


『それは他で用立てた体だ。 わしがそこな上格たちに用意させた。 記録が残っているかは知らんが、その死体、顔が判別できなかったはずだぞ』


 顔だけズタズタに引き裂いたのさ、当人と判別できぬように。



 そう言って笑った明命が語った経緯いきさつはこうだ。


 明命が美弥の乗っ取りを始めた当時。

 耀角と共に城に至った美弥狩司衆の実力者たちは、明命と上格たちに討ち取られ、全員が死んだ――――ことになった。

 だが、実際は少し違う。

 唯一、生き残りがいたのだ。

 それが当時の耀角の比肩だった男だ。

 とはいえ傷を負い、上格たちに体の自由を奪われた比肩の男は、明命に歯向かうことができずにいた。

 仲間に裏切られ、仲間を殺され。

 怒りと無常観に怨嗟の言葉を吐き捨てる男を、明命は利用することにした。

 『蝕』の力で、己の傀儡にすることにしたのだ。

 『蝕』の力は直接精神に関わるため、影響が長引けば対象の生き物はすぐに死んでしまう。

 その点、比肩だった男は武人として体も精神も健全で、勝手がよかったのだ。

 明命は『蝕』の力を使い、男に種を植え付けた。

 男は最後まで抗ったが、結局明命の手に落ちた。

 そして、明命は新たに得た傀儡を使って右治代に向かい、弓鶴に会う。

 弓鶴は男を知っていたため、驚きに動かなかった。

 明命はそんな弓鶴に全てを話し、子の引き渡しを要求する。

 弓鶴はそれを受け入れ、明命にくだった。

 それから幾年月、明命は耀角の比肩だった男を己の操り人形として、今日まで利用し続けた。


 だが、それには一つ、明命とってがあった。



を我が傀儡としてからずっとだ。 わしはたまにこれが零す与太事を聞かねばならんようになった』


「与太事……?」


 いぶかし気に香流が繰り返すと、明命はさも草臥くたびれたとでも言いたげに「そうだ」と吐き捨てた。




はなぁ、弓鶴。 お前がこやつの肩で泣く度、泣き疲れて眠るお前を前にして、――――わしの支配下でありながら、訥々とつとつと言うのよ。


 『違う、違う、弓鶴様。 違う、違う』と、そればかり』




「ちが、う……?」



 何が、違うというんだ。

 固唾かたずを飲んで耳を澄ませる香流たちに、明命は侮蔑を多分に含んだ目で言った。


『わしはこやつと繋がっとるせいで、こやつの記憶を覗くことができる。 こやつの記憶によればなぁ、弓鶴』




 ――――その当時。


 耀角存命の頃のこと。

 耀角と美弥国主は、業人の受け入れを巡って、ひどく対立する様相を呈していた。

 国を豊かにし、より一層己の私腹を肥やさんと目論んでいた国主。

 そのため国の主たる男は、業人の増加に異を唱える耀角を疎ましく思っていた。

 国主はなんとか耀角を抑え込もうと、色々と策を巡らせたらしかった。

 金品での懐柔、権力による恫喝。

 どんな手も使ったが、耀角は決して屈しなかった。

 そこで最後に目をつけたものがあった。


 

 耀角の家族だ。


 

 ひぅ、と香流の腕の中で弓鶴が息を飲んだ。

 その気配が混乱に固くなるのを、香流は落ち着かせるため強く抱きしめる。


『国主は前々代右治代を押さえるため、その一族…… 特にお前だ、弓鶴』


 耀角の伴侶である、弓鶴と、その子たちを、人質として手中にしようと一計を案じた。

 弓鶴を手中にし、傷つけて、耀角を思う通りに操ろうとした。

 だが、それを察知した耀角は、国主にそれをさせぬため、先に動いた。

 自分にとって弓鶴は価値がないもの。

 人質にする意味もないものだと国主に理解させるために、意図的に弓鶴を自分から遠ざけることにしたのだ。



 この国のまつりごとの闇に。


 自らが身を置く悪意ある場所に、弓鶴を巻き込まないために。






「ぅ、そ」


 か細い声が、かすれて消える。

 香流の胸に寄り掛かったままの弓鶴が、玻璃のようだった瞳を揺らしている。

 香流と銀正は呼吸すらままならぬような驚きに硬直し、明命を見つめ続けた。



『虚言などこの期に及んで言ってどうする。 すべて、この傀儡が知っている事実だよ』



 明命は耀角の比肩だった男を鎌で上向ける。

 比肩だった男が、最早生気なく身を投げ出していた。

 しかし、ただ唯一。

 その口元だけが、微かに動いた。

 『ちがう』と、それだけ。


 誰にも弓鶴を無下にする理由を明かさなかった耀角の心中を、唯一知っていた男が言う。



『何年もわしの『蝕』の支配下にありながら、強情な男よ』



 なあ、弓鶴。

 明命の複眼が、弓鶴を捉える。

 その粘りつくような声に残酷な真実を溶かし込んで。

 この国の闇は、弓鶴に痛ましい現実を突き付けた。



『お前の伴侶は、国主がお前を利用しようと手ぐすね引いているのから庇うため、ずっとお前を遠ざけていたのだ。

 お前を自分から遠ざけることで、国主とのいさかいに巻き込むまいとしたのだ。

 必ずやお前を巻き込まぬように、お前への非情な扱いを自身にいて、只管ひたすらお前への想いを隠し通した』



 守るために。



『お前はずぅっと、愛されていたのだよ? 弓鶴』

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