三十八

 香流はいつの間にか、片手で己の胸元を掴んでいた。

 強くえりを握りしめたまま、俯いていた。





 行燈の灯に、月影に。

 あの方の白い面差しが浮かぶ。



 白さの中に唯一艶やかな、紅の唇が笑っている。



『そうか、なら、憐れんでおくれ。 夫に先立たれ、里も遠く、未だこの国に一人きりの我が身。 其方の慈悲で、愛おしんでおくれ』


 笑っている。


『憐れなこの身。 嫁に来た、遠き昔と同じ。 この国に馴染めず、一人きり』


 絶えることなく笑っている。


『この孤独、のは其方そなただけだ』


 そこに何の苦悩も見せないままで、笑っている。





『だから、のう、香流。 このぽっかりと空いたうつろ、其方が埋めておくれ……?』


『妾と同じだと、言うておくれ』


 飛べぬ鳥だと、言うておくれ。









 どうして、と腹の奥で憤りが叫んだ。





 どうしてですか。


 どうしてあなたは笑っている。


 どうしてあなた方親子は、傷を隠したまま、笑うのだ。


 そこにある熱量が違ったとしても、どうしてあなた方は笑って全てを見せようとしない。





 眼の奥。


 あの祭りの晩に、部屋へ残していった拒絶の背がよみがえる。

 弓鶴様と、細い悲しみが喉を焼いた。


「(あなたは…… あなたは、つがいに信じてもらいたかったのか)」


 信を置いてもらいたかったのか。

 けれど、その願いかなわず、だから。

 だから私に、同調を求めたのか。

 同じ身の上の私の同調に、なんらかの慰めを得ようとしたのか。

 それを、私は、


「香流様?」


 苑枝の声が心配している。

 答えなくては――――けれど。

 身の内でのたうつような行き場のない遣る瀬無さ。

 そのうねりが香流を圧迫して、すぐに声を上げることを許さなかった。



 ずっと、待ったのだろうかと、思った。

 この広い屋敷の奥深くで。

 あの人はずっと、己の比翼を待ち続けたのだろうかと、思った。




『誰にも…… 誰にも、この心は許さぬ。 この心、この傷は、あの方以外に癒せはせぬ!』


『あの方以外…… あの方だけが……』


『あの方だけが、私の比翼……!!』




 ただ、夢見た比翼となろうと、その心の真を捧げ続けた人を、ずっと。

 それはどれほど緩やかで、重く振り払えぬ孤独だろう。

 あの方は、それに耐え続けた。

 姑のそしりも、夫の無関心も、すべて受け入れて、ずっと。

 ただ、愛したたった一人の真心を得るために、耐える道を選んだ。

 まっすぐに自分の真を差し出し続けたまま。




 ――――想いを捧げ、決してかえりみられることなく捨て置かれるその心情は、いかばかりに悲しみに満ちたものだろう。




「弓鶴様は、」


 小さく零れたのは、意図せぬ言葉だった。


「弓鶴様は、私に傷ついてほしかったのでしょうか……?」


 銀正が言ったように、己と同じと見立てた香流と銀正を疑心に惑わせ、傷を負ってほしかったのか。

 信頼を得られない苦しみを思い知らせ、そして、


「己と同じ苦しみを、知ってほしかったのでしょうか」


 だとすれば、あの祭りの晩、香流は言うべきだったのだろうか。

 銀正を疑ってしまう心だって確かにあると、その苦しみを示して見せるべきだったのだろうか。

 そうすれば、あの人は。

 あの人は、その心深くにある傷を、香流に見せてくれたのだろうか。


 なのに。


 なのに自分はあの時、弓鶴に言ってしまった。

 銀正の真は自ら確かめると、強くね付けてしまった。

 あの人が歪な笑みの下に隠した…… きっと臆病ゆえに隠した期待を、知らずに否定してしまった。

 だから、あの人は、――――あの人は。

 

 あの人は、激昂と共に香流を拒絶した。

 




 襟を握る手が、震える。

 苦悩が、毒のように身を蝕んだ。

 なんと取り返しのつかぬ事をと、後悔が内側を削った。


「私は、なんということを」


 案ずるように伸ばされた苑枝の手が背をさする。

 その優しさに一層苦しみを深めながら、香流は痛みを吐いて言った。


「……私は、あの方を、振り払ってしまった」


 あの方を。

 信じればきっと応えてくれると信じ続けたあの方を、


「過去に一人、心を置き去りにしたままのあの方を、もう一度、一人にしてしまった」


 きっと痛みにまみれた記憶の底へ、また一人沈むのを捨て置いてしまった。


「あの方にとって、同じ境遇である私の苦しみが、慰めになったかもしれぬのに」


「その同調すら返さぬまま、あの方を一人に」


 ずっと、誰かを信じようとしたあなたに、


「私…… 私は、」




 私は、あなたに再び絶望を与えてしまった……?











「香流様!!」


「!!」


 頬を張り飛ばすような声だった。

 耳元で叫ばれた声に、香流ははっと瞠目する。

 急速に閉じかけた視界が開け、勢い上げた視線の先に、苑枝が痛ましげに顔を歪めていた。

 香流は苦悩に歪む口元を震わせたまま、その視線を受けた。

 苑枝は苦しみに耐えるように、ふるふると横に首を振って言った。


「気を確かになさってくださいまし。 如何いかに弓鶴様の過去が悲しみに満ちていたとしても…… それがあの方にまったく責のない話でも。 だからといってあなた様が同様に苦しみ、その心の慰めになることはないのです」




「あなたは御自分が弓鶴様の立場であったら、そのようなことを人に願うのですか?」




 ぐっと、のどが詰まった。

 苑枝の問いが、香流の惑いに難しい判断を突き付ける。

 あなたは弓鶴の行いを、真実肯定するのかと詰問する。

 自分以外の誰かを己と同じ苦境に落とし、そうして得られる――――同病相憐れむような同情で自身を慰めるような行いを、本当に認めるのかと問い詰める。

 そして苑枝の目が言っている。

 あなたはそんなことを許すような人ではないでしょうと、厳しく言っている。

 それは、苑枝の信頼。

 苑枝が香流という人柄に向ける、親しみに満ちた心だった。

 その優しい想いに照らされ、香流は唇を噛んだ。

 噛み締める痛みがとなる。

 痛覚に集中するようにきつく瞑目すると、香流は熱で焼けつくような息を、食いしばった歯の間から吐き出した。


 それを合図に、心の奥、自分の芯を震わせる。


 違うだろう、そうではないだろうと、一時の感情だけに流されようとする己自身をじっと見つめた。

 そして感性と理性の天秤を狂わせ、片方だけの海に身を投げ出しそうな己自身に厳然と告げた。




 弓鶴の悲しみを知り、己の行いの意味に動揺して。

 だからその不手際を覆い隠すように湧き上がる安い同情心で、あの方に報いた気になろうとするな。

 それは、決して弓鶴だけを心から想う、誠実などではない。

 自分が弓鶴を傷つけたかもしれないという恐怖に惑う、香流の弱さでしかない。




 傷ついた心の痛みを知るために、感情だって必要だ。

 だが、弓鶴の弱さが求めた、人を傷つけることによって得られる同情の形を、認めるようなことはあってはならない。

 それに否と言うために、冷静を手放さず。

 だが、その上で弓鶴の心を否定せぬために、人情を胸に抱く。

 それが、道。

 己の在る道。

 怯えに惑うな、見失うな。

 あの人を真実想うために、――――お前には、何ができる?



「(私は、あの方に、どうやって向き合ってさし上げられるだろう)」



 迷いを抜け、弓鶴の心へ向かう意思が。

 動きだそうとする意志が、心の鏡面を晴らした。

 静まり返った水面のように静謐に満ちたそこを己の内側で眺めた時、香流は黙然と顔を上げる。

 そして先にあった苑枝の目を真っ直ぐに見据え、惑いを振り払って頷いた。


「……申し訳ない。 少し、弱きに流されたようです」


 これでは本当に自分はまだまだだと胸中に苦笑い、香流は強く言った。




「私は、あの方にもう一度問わねば。 その御心が、最早決して救いを求めぬほどに傷つききっているのかどうか」


「もし、まだ何かの救いを求めているのなら、それに私が何らかの役目を果たせるのなら、」


「どうかその手を取ることを許してほしいと申さねば」




 もう一度、あの方の痛みに座して向き合わねば。

 あの方が、同調を求めるほどに自身と同一視したのであろう立場にある者として。

 そして、そこまで巻き込まれた以上、立ち入る義理はあるはずだと己にうそぶいて。

 香流は強く心を決めた。

 その迷いを抜けた横顔を眺め、苑枝はほっと息を吐く。

 そしてすこしだけ嬉しそうに微笑み、何事かを決めた顔で口を開いた。


「これは、余談となりますが……」


 そう言って話し始めたのは、昨年の暮れに亡くなったのだという、元狩士であった苑枝の伴侶の話だった。


「夫は、昨年の晦日前に亡くなったのですが、その夫が今際の際の置き土産に、話してくれたのです」






「どうやら耀角様が右治代当代であった当時、今の国主様と耀角様は、対立の間柄にあったらしかった」






「対立?」


 香流が話を訝しんで首を傾げると、苑枝は重々しく頷いて返した。


「ええ。 夫によると当時、国主様は美弥を一層豊かにするために業人の受け入れ制限を拡大しようとしていたらしく、それだけの数を守り切るには美弥狩司衆の力が足りないと目しておられた耀角様と、度々衝突しておられたらしいのです」





 数十年前。

 当時の美弥は、国主が世代交代をしたばかり。

 だが新たな国主となった美弥の主は、国権があったかつての美弥の華々しさを再び得ようと、『不言の約定』を無視した無理な業人の受け入れを図ったらしかった。

 これに待ったをかけたのが、当時同じく右治代を継いだばかりの耀角。

 国を豊かにと邁進する国主と、安全を第一にと訴えた耀角と。

 二者は美弥の行く末を巡って、ひどく対立を深めていったのだという。


 一向に妥協点を見いだせぬその対立は、長く続いた。

 そして二者がいがみ合うために広がった余波は、当時の狩司衆内部にも暗い影を落とした。


「断固として業人の増加に反対する耀角様でしたが、国主様はそれを押し切って、民の受け入れを断行し始めたそうです。 元々、美弥の文化や国力に憧れや商機を見いだす者は多く、美弥に移り住むことを希望する業人には事欠きませんでしたから、当時美弥の人口は増える一方でした」


 だがそれに伴い、美弥に襲撃をかける飢神の数も、増加の一途をたどったらしい。

 その攻勢はすさまじく、日に日に増す襲撃のために出陣回数が重なる狩司衆の疲弊はいちじるしかった。

 当時を知る苑枝の夫曰く、休息の暇もなく繰り返される飢神の猛威のため、日を追うごとに暗澹とした空気が組織内部を覆いつくすようになったらしい。


「夫は当時、美弥狩司衆の組頭でした。 ですがまだ選任されたばかりの若手で、耀角様周辺の深い事情までは耳に入ってこなかった。 それでも当時の美弥狩司衆内部の不和は、あからさまだったと言っておりました」


 激増する飢神の脅威。

 それに伴い、守護の力が失われゆく狩司衆。

 国主はそれが己のまいた種だというのに、飢神に美弥が脅かされる現状に怯え、度々頭狩である耀角を呼び出しては、その働きの足りなさを責め立てたらしい。

 その上、狩司衆内部から自分に追従する狩士たちを選びだして城に囲い込むと、褒賞の名目で金品を下賜し、彼らに自身を守らせるようにもなった。


「それが今の上格方です。 彼らは国主の与える富に目がくらみ、守るべき民を蔑ろにして、耀角さまを裏切った。 これにより、狩司衆内部は耀角様方と国主様、上格様方の陣営に割れ、飢神によって力を削られていた美弥狩司衆は、内部分裂によりさらに混迷を極めたそうです」


 その内部騒動からは少し遠かった苑枝の夫は、当時はひどく険悪になってゆく狩司衆の様子を、不安に思いながら眺めていたらしかった。

 ただ、剣呑とした空気の中でも組織の醜聞を外に漏らすことだけはしてはならぬだろうという暗黙の了解は察していて、家族にも事の異様さを漏らさぬまま、日々顔を険しくする耀角を遠巻きに見守っていたのだという。





 そんな折だ。

 ある日美弥に、一際激しい飢神の襲来があった。





「その日は私もよく覚えております。 私が右治代家を離れ、里帰りしていた日でした。 曇天が空を覆い、城下にあっても轟くような、飢神の異様な遠吠えが聞こえてきた日でした」


 苑枝の夫の話によれば、その襲撃は本当に、異様と言うに尽きたのだという。

 周辺の里に散る狩士からの一報もなく、突然湧いたように美弥近郊へ現れた飢神の大群。

 それだけでもおかしいのだが、それらの群れは、なにかひどく恐慌したように狂いきっていたらしかった。

 雪崩のように襲い来るこれらの飢神を狩るため、美弥狩司衆は緊急の出陣を余儀なくされた。

 組頭であった苑枝の夫もそれに加わっていたが、その狩の最中、


「城から伝鳥が飛んだそうです」


 赤隈の内容は、『城中に飢神あり』。

 まさか。

 一報を受け取った苑枝の夫は、なぜ城に飢神がと驚愕した。

 だが、その時は激しい狩りのただ中。

 考えている暇はなく、騒乱の渦中、夫はすぐさま耀角に知らせを届けに走った。

 知らせを聞いた耀角は、同じく一瞬で顔色を変えた。

 しかし、流石に判断は早い。

 耀角はごく少数の配下を伴うと、組頭たちにその場を任せて城へと馬を走らせたのだという。

 苑枝の夫はそれを見送り、言い置かれた言葉、


『なんとしても美弥を守れ』


 それを果たすために、獅子奮迅して飢神を狩った。

 狂った飢神を迎え撃つ狩りは、壮絶を極めた。

 だが、その戦いを美弥狩司衆は多くの犠牲を出しながらもなんとか食い止め、全ての飢神を払うことに成功する。

 苑枝の夫も生き残ったが、この戦いで足をやられ、狩士として狩場に立てない身の上になってしまった。


「重傷であった夫は救護の者に運ばれ、しばらくは昏睡状態でありました。 そして襲撃から数日後、目が覚めた折には、」





 美弥狩司衆当代頭狩、右治代忠守白主耀角の絶命を知らされることとなった。





 耀角は、城に忍び入ったという飢神に対峙し、それを追い払うことができたらしかった。

 しかし、その折に致命傷を負い、国主の護衛についていた現在の上格たちに看取られて命を落とした。

 その骸は苑枝の夫が目覚めた時にはすでに弔われ、死に顔すら確認することはかなわなかったそうだ。

 その後は、先ほど苑枝が話した通り。

 国主の意向によって右治代と美弥狩司衆の実権は弓鶴と上格たちに渡り、それに反発する者はすべてその立場を追われることとなる。

 苑枝の夫は負傷によって閑職に回され、狩司衆内情からは遠くなってしまった。

 だから、その後の美弥狩司衆の実情は把握していない。



「夫はあまり話をするような性格ではありませんでしたし、感情を露にする方でもありませんでした。 ですが、死に際にこのことを話してくれた時には、ひどく寂しそうに耀角様のことを語ってくださいました。 あんなに美弥を想い、狩司衆の狩士に尽くそうとしてくれる人はいなかったと、その死を悼んでおりました」



 話の内容が内容だ。

 元狩士として、狩司衆の内部の機密を守ることを第一としていた夫としても、この話を苑枝にしたのは、死を目前にして心弱くしたが故のことだったのだろう。

 故に、できればこの話は内密にと苑枝は終わりを結び、頭を下げた。



 伝聞ではあるが、おそらくこれが在りし日の耀角側の話だと言って、言葉を閉じた。

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