十三
「董慶様!」
幼い香流が、
「董慶様ぁ!」
短い足を一生懸命先に送りながら、声を限りにその人の名を呼び止める。
向かう先、馬に乗り上がろうとしていたその人は、驚いて振り返った。
「香ちゃん!」
広げられた手に、勢いそのまま飛び込んでいく。
旅衣装をまとった分厚い体が、しかと香流を受け止めてくれた。
「香ちゃん、一体どうしたんだい。 今は塾の時間だろう。 どうして、」
こんなところに、と続くはずだった声を遮って、香流は顔を上げた。
「じゅ、塾は、し、試験をきり、切り上げて、た、退出、してき、ました」
走ってきたせいで息が上がり、言葉は途切れ途切れだ。
それでもなんとか呼吸を整えながら、香流は董慶の衣を握りしめた。
「く、国を発つと…… け、今朝方、ち、父に、聞きました」
本当ですか?
「…………」
見上げた顔が、困ったように笑う。
本当は、董慶の装いと馬に積まれた荷の様子から、父の話は真だと分かっていた。
けれどもそれを信じたくなくて、嘘だと言ってほしくて、
董慶は何も言わない。
何も言わないのが香流の問いを肯定しているようで、ぐずぐずと涙がこぼれた。
「どうしてですか? お勤めだからですか? も、もう、戻っては来ないのですか……?」
行かないでほしい。
離れないでほしい。
寺に行けば、いつも笑って迎えてくれたのに。
そんな自分の毎日から、いなくならないでほしい。
いつまでも止まらない嗚咽に泣く香流。
その目じりを、董慶は優しく
「きっと、別れがつらいから、黙って行こうとしたんだがなぁ…… 見つかってしまってはしかたない」
「ぅ、」
また、涙があふれる。
董慶は香流の問いを否定してはくれなかった。
行ってしまうのか。
握っている董慶の服を、離すまいと力をこめる。
「い、行くなら、私も連れて行って下さい。 きっとお役に立ちます。 おいて行かないでください」
「またそんなことを。 ついてくるなら、里のみんなともお別れせねばならんのだよ?」
そんなのはいやだろう? と可笑しそうに笑われて、香流は詰まった。
でも、それでも、いやなのだ。
お別れなんて、そんなの……
「!」
伸びてきた片手が、香流の頬を包んだ。
大きな分厚い、片方だけの手。
優しく触れるようにして、顔を持ち上げられる。
董慶は笑っていた。
「そう泣くんじゃないよ、香ちゃん。 大丈夫、永劫の別れではないんだ」
確かに自分はこれから国を発つが、二度と帰らぬ旅ではない。
五年、五年だ。
「五年お勤めを果たせば、きっと帰ってくる。 だからそれまで香ちゃんは、この里で待っていておくれ」
止まり始めた涙の残りが、ぽとぽとと頬を落ちていく。
「本当、ですか?」
本当に、この人は帰ってくるのだろうか。
本当にちゃんとまた、会えるだろうか。
少女の憂いを拭うように、日の光の中、大好きな髭面が破顔する。
「本当だよ。約束しよう、必ず、」
ここへ帰るから。
そう言って、あの人は旅立っていった。
*
さて、どうしたものか。
朝方、自室から庭を眺めながら香流は考えていた。
事は重大だった。
「(もう日が昇って大分立ちますし、まだできていないということはないと思うのですが……)」
なんとなく空の腹をおさえて、思案に暮れる。
今日に限って、下女が膳を持ってくるのを忘れたのだろうか。
忘れる…… あまり考えにくいが、だとすればどうしたものか。
「(あちらが気づくの待っていては、きっとありつき損ねてしまいますね)」
はぁ。
ため息を落とした香流は、仕方ない、と立ち上がる。
決して忘れることなくハタキを背中に負うのは、もう癖だ。
「(炊事場まで顔を出すのは、苑枝殿にあまりいい顔をされないでしょうが…… この際四の五の言っても居られません)」
侍女がついていない香流は、用向きを頼める相手もいない。
歩いていれば、途中誰かしらと行き会うだろうと見立てをして、香流は炊事場を目指した。
香流は奥座敷以外、右治代の家の造りは把握していない。
それでも勘を頼りに、おそらくと見当をつけた辺りをめざして歩いていた。
廊下を進んでいくと、かすかだが、行く手から水と炭火の匂いがする。
「(近いですね。 まだ、残りがあるとよいのですが)」
結局、途中で誰とも出会わなかった。
そのため、朝餉を求めるのに直接下女に声をかけることとなるだろうが…………果たしてあちらはどういった反応をするだろうか。
己の立場を思って、億劫な気持ちになる。
とはいえ、腹は空いている。
背に腹は代えられない。
手短に食事が残っているか確認するだけ。
無いならすぐ下がればいい、と胸の内で繰り返した時。
その声は聞こえた。
「それはあんまりではありませんか!」
阿由利の声だった。
匂いがする方から聞こえてくる。
常とは違う声の荒らげように、香流はぴくりと足を止めた。
「何を申すのです、阿由利殿。 この程度、大したことではないではありませぬか」
雅な女の声が答える。
嫌に耳へこびりつく響きだ。
「何が大したことないのですか。 刻限になっても食事を出さぬなど…… いくら何でもやりすぎです!」
何事だろう。
果たして炊事場は、廊下の先にあった。
阿由利たちの声は、そこから聞こえてくる。
香流は人がないのを確認して、そっと陰から中を
「やりすぎとはなんです? まるであの方を庇うような言い方。 阿由利殿あなた、あの方とお役目を共にするせいで、情が移られたのではありますまいな?」
阿由利に応じていたのは、阿由利と同輩らしき年嵩の侍女だった。
その顔には覚えがある。
おそらく、銀正の衣装を整えたときに部屋にいた一人だ。
炊事場にはほかにも下女が集まっていたが、皆二人を遠巻きに見ている。
相手の侍女の後ろには、ほかにも数人、侍女が立っていた。
「そ、そういうわけではありません。 私はただ、程度の話をしているだけで、」
しどろもどろになりながら言い返す阿由利を、侍女たちは心底可笑しそうに眺めている。
時折意味ありげに目配せする様子がなんとも心証悪く、香流は眉を寄せた。
「程度とは、おかしなことを申されますなぁ。 あんな余所者に、手心など必要ないではありませんか」
余所者。
この家で余所者と呼ばわれるとしたら、自分以外にない。
先ほども侍女は、阿由利が役目を共にしていると言った。
どうやら二人が話題にしているのは自分らしいと見当づけて、香流は耳を澄ませる。
「あんな女…… 右治代に見合う家名もない田舎者など、御当主様には相応しくない。 早々に身の程を
ひどく憎々し気に顔を歪める侍女が、口にするのも腹立たしいと吐き捨てる。
阿由利はその剣幕に
足を出した時に
侍女はそれを気味よさげに見下ろし、いやな笑い声を袖口であげた。
「庇い立てするなら結構。 あなたのように変わり身の早い愚か者は、あの程度の女に仕えているのがお似合いですよ」
ああ、いけないな。
どろどろと侍女が
伸ばした手が、太い
かがめていた体を起こして、柄を抜き取った。
侍女が、
そして最後の杭を突き立てるように、言った。
「邪魔者と裏切り者。 程度の低い者同士、いつまでも慣れ合っておられればよろしい」
かっと、阿由利の頬に赤がさす。
くすくすと侍女たちから漏れる、いやな笑い。
侍女が、またしても口を開く。
阿由利を追い詰める言葉を吐く。
その前に、香流の手は無造作に放り投げていた。
ガン! ――――カラン、カラン、カラン……
「「!!?」」
突然、侍女と阿由利の間に、異様に巨大なハタキが投げ込まれる。
大きな音を立てて床に転がったそれに、女たちは皆一斉に立ちすくんだ。
そして、
「ああ、失礼。 手が滑ってしまいました…… 驚かせて申し訳ありません」
やんわりと笑みを浮かべた香流が、物陰から顔を出す。
ハタキを唖然と見ていた白い顔たちは、一気に顔色を変えた。
「! 香流様!?」
阿由利がなぜ、と泣きそうな顔で香流を振り返る。
速足でその
「いえ、それが所用でこちらまで参りましてね」
「お邪魔でしたか?」と聞けば、ぐっと唇を噛んで返される。
泣き言を言わないところが愛らしくて、香流は苦笑を浮かべて振り返った。
視線の先では下女たちが戸惑いを浮かべて立ち尽くしていたが、侍女たちはすぐに立て直して不敵な笑みを浮かべてくる。
「こ、これはこれは、許嫁様。 このような所まで、一体何用でしょう?」
刺すような目であの侍女が言うのを、香流は黙然と眺める。
それから少しおいて、「いえ、」と口を開いた。
「大した用向きではないのですが、少し。 お恥ずかしながら、今朝は朝餉が届いておりませんでしたゆえ、訳を伺いに参った次第なのです。 さすがに一日の始めを抜いて過ごすのは、私も
視界の端で辺りを見渡せば、見慣れた下女がびくりと肩を揺らした。
それを確認して目を戻すと、侍女が我が意を得たりとばかりに喜色を振りまいている。
「ああ、そのような手抜かりがありましたか…… それはお気の毒なことです。 ですが、今日はもう、食事の支度は済んでしまいました。 許嫁様にはお辛かろうとは存じますが、昼までお待ちいただかねばなりません」
臆面もなく『食べずに戻れ』と言い放った侍女に、背後で阿由利が言葉を失ったようだった。
香流は言い返すでもなく、侍女と向き合っている。
大方そう来るだろうと読んでいたので、返す熱もない。
さて、どうするべきか。
ここでどう振る舞うのが最善か。
香流は背後の阿由利と侍女たち、双方を確認して、頭の中ですっかり答えを出してから、そして――――ゆるりと笑った。
「そうですか、それは残念なことです。 ですが、仕方ありますまい」
これ以上は、求めてもご迷惑になろう。
そうあっけらかんと香流は言い放つ。
それを聞いていた女たちは、唖然と口を開いた。
阿由利だけが「え?!」と慌てたように立ち上がる。
「し、仕方ないとは…… いいのですか、香流様?」
困惑した顔が袖を引くが、香流にこれ以上はない。
「もちろん。 確かに、腹は空いていますが、無いならそれで仕方ないでしょう。 こちらの方が
そう。
ここは引く。
だから、と香流は阿由利の目を
「ですから、」
こちらを見ている女たちに視線を渡し、
「これ以上は皆様、」
顔の色をすべて消し、
「他の者になど目を
口元だけを三日月に歪めて、
「この香流だけを、」
ぞわりと、
「あなた様方のお遊戯の友としてください」
笑った。
「ね?」
『!!?』
異様な微笑みに、女たちがざっと青ざめる。
一番近くでそれを向けられた侍女は、
阿由利には決して見せないように隠したそれは、まさに鬼面。
ふふ、と笑いを零して、鬼は目を細めた。
『張った罠には、お望み通り、かかってやる』
『だから、狙った獲物だけを見て脇目を振るな』
その意を込めて視線を送った香流は、すっと鬼の表情を平素のものに戻し、
「では、皆様。 話もついたので、私は部屋に戻らせていただきます」
さっさと言い放って頭を下げた。
「え? え? お戻りになられるのですか?」
事は済んだと香流が足元のハタキを拾っていると、何も知らない阿由利が慌ててついてこようとする。
香流はそれを少し惜しみ、しかし、数瞬の内に整理をつけると、幼い侍女を押しとどめるように振り返った。
「阿由利殿」
「? は、はい」
「突然のことで恐縮ですが、この日以降は、常のお役目へとお戻り下さい。 私の勤め指南は、もう結構。 本来の場所へ戻ってください。 苑枝殿には、私の方から話をつけておきますゆえ」
これ以上いたずらに距離が縮まれば、この娘は香流の事情に巻き込まれてしまうだろう。
ろくでもない悪意に巻かれることになるだろう。
それはあまりに忍びない。
だから、
「今日まで世話になりました。 阿由利殿」
突然の通告に、阿由利が目を真ん丸にしている。
その口が何か言う前に、香流は侍女たちを振り返って、
「しばらく御同輩をお借りしていて、申し訳のう存じます。 これにて阿由利殿はお返しいたしますゆえ、どうぞ労を
言葉とともに阿由利をそっと、侍女のほうへ押しやった。
そして手が離れて、
「何事です?」
鋭い声が飛び込んできた。
「苑枝様!」
「御当主様!?」
侍女たちが驚愕した悲鳴を上げる。
さっと見た先には、果たしてこの家の筆頭女中と、当主が立っていた。
「朝からこんなところで寄り集まって、あなた方は一体何をやっているのです」
近づいてくる苑枝が、香流に厳しい目を向ける。
流石に事情を話すことが
漂った先で、銀正も物言いたげに香流を注視している。
ああ、不味いところにいらっしゃったと頭が痛んだところで、
「畏れながら!」
先ほどまで
その場の全員の視線を一手に集めた侍女は、ただ一点。
香流のみを
「私共は許嫁様に、お伝えせねばならぬ知らせを預かっておったのです」
知らせ?
苑枝が訝しむのに、侍女が勝ち誇ったように声を張る。
「奥方様のお言葉です! 許嫁様、あなた様には新たなお役目についていただきます」
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