幕間
夕暮れの西日に、頬の傷が焼かれる。
綺麗に清められた庵を座して眺め、銀正は思っていた。
なぜ、ここにあの娘が立ち入るのを、己は許したのだろう、と。
一番の理由をあげるとするなら、疑いようもなく『後ろめたさ』だ。
嫁として招いていながら、許嫁という立場に捨て置いていること。
言うに事欠いて、出会って二日で帰れと
その挙句に下働きの役目を押し付けられているのを、気づかずにいたこと。
それ故に、己はあの勢いに飲まれた。
完全にこれまでの罪悪を恥じたがゆえのことだ。
「…………」
自分で列挙しておいて、銀正は額を押さえた。
一つ一つを意識すれば、右治代の、娘に対する扱いは非礼極まる。
仮にもあの娘は、狩司衆最上位、五老格選出の身の上だ。
それをこれほどの扱いで迎えておいて、右治代、いや、美弥狩司衆が中央に非難されずにいられるのは、
そのことに
あの人は何やらあの娘に、並々ならぬ関心があるらしい。
そのために、近頃はよく家にいると苑枝から
常はほとんど家にも寄り付かず、城にいるあの者と懇意にしているくせに、だ。
今日も、もう少しで銀正の母親は、あの娘に何事かを吹き込むところだった。
母親の禁を破ってまで報せをくれた苑枝には、頭が上がらない。
銀正は癖になっている座禅の姿勢をとり、さらに思考に浸った。
この癖も、苑枝にいくらお控えくださいと言われても治らない。
慣れ親しんだ形に足を組むたび、この家の当主たる己も、狩司衆頭目という立場も、ひどく場違いだと思う。
昔、幼子の己を引き取ってくれた和尚が、物心ついた銀正に教えてくれた。
あなたは、母親に望まれずに生れ落ちたのだと。
その和尚は、亡き祖母と懇意にしていた。
和尚の話では、母である弓鶴と祖母の
嫁いできた弓鶴と夫との間には、長く子ができなかった。
それが吉は気に入らず、嫁の弓鶴を責めることが多かったのだと。
そして、嫁いだ月日が二年と半分を越した頃。
ようやくできた第一子は、不幸なことにあまりにも病弱で、狩士として狩場に立てる体ではなかった。
吉はそれにひどく落胆し、次の子供をと息子夫婦をせっついた。
それどころか、息子に
己を軽んじるやり取りを目の前で聞かされていた弓鶴は、産んだ長兄を頼みとし、日々を過ごしたのだそうだ。
その後、またしばらくの年を置いて第二子の銀正が生まれ、奇児という身の上ながら健常な体であった孫を、吉は溺愛した。
長子を愛する弓鶴。
次子を推す吉。
二者の遺恨は根深く、この頃にはもう、その仲は決定的なものになっていた。
それはもう、どうしようもないほどに。
そうしてのち、祖母と当時の当主、つまり弓鶴の夫が死んだことで、三つになったばかりの銀正は家から放り出された。
皮肉にも祖母と親交があった
しかし、すべて物心つかぬ頃の出来事だ。
記憶のほとんどない銀正にとって、母はただ母でしかない。
だが、向こうにとって銀正は憎しみの権化のようなもの、なのだろう。
もう何度も繰り返した思考だ。
何度繰り返しても、自分があの母と呼ぶべき存在に向ける想いの形を、銀正は掴むことができない。
憎しみを向けられて、同じように憎しみを返せたら、
しかしそれは銀正にとって正答ではなく、向き合う気のない親に、戸惑いが残るだけだ。
二十年近く。
それだけの月日を離れて過ごしたことは、親子にとってあまりにも取り返しがつかないことだった。
「(……いかんな、考えが流れている)」
銀正は向き合っていた庵を背に、縁側へ座禅を組みなおした。
庭先には、今日運び出した屑の山がそのままにある。
明日には片付けに来ると帰って行った、娘の後姿を思い描いた。
己が立たされている苦境に何一つ訴えず、全てを受けいれる度量。
国に返そうと提言した銀正の言葉を不要だと断じ、
自分の力量に引け目を感じ、信を得ることを恐れた己に、それでも一人になるなと目を射抜いた瞳。
この数日。
たった数日だ。
その間に、銀正が抱く印象をすっかり鮮烈にしてしまったあの娘に、心は揺れ動いていた。
それが
遠い記憶と共に思い起こされる一人の人物と娘が重なって思え、胸がひどく
幼い時分、あの人と出会ったばかりの頃。
和尚がしてくれた話を聞いて、自分にはもう帰る家も、迎えてくれる人もいないのだと。
己は必要とされる存在ではないと自身に言い聞かせていた銀正に、あの人は『それは難しいだろう』と笑ってくれた。
お前は人に好かれる男だ。
人が放っておかないよ、と。
その時の銀正は、そんなことはないとあの人の言葉を否定した。
しかし、本当は嬉しかったのだ。
家族にすら捨てられた自分。
そんな己が、誰かに望まれ、信を置いてもらえるようになれる未来を、あの人だけは信じてくれたこと。
信じていると、真っ直ぐな目をくれたこと。
そしてあの時、気恥ずかしさと身に余るような思いで背を向けた銀正に、あの人は仕方なさそうに笑って言ったのだ。
『少なくとも自分は、お前が一人になるのは望まないよ』
遠い日の記憶だ。
けれど、今もその人を敬愛している銀正にとって、面影の重なる娘は、決して損なってはいけない人になった。
「(あの娘は、私には真っ当すぎる)」
この国に息をする自分にとって、あの娘は、決して触れてはならない相手。
例え、その白刃
日が沈む。
夜が来る。
そうして朝が来て、また一日、銀正はこの国に生きる。
それがどれほど
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