「婚約、ですか?」


 ぐっと絞められた帯に息を詰めながら、香流は目をまたたかせた。

 ここは、右治代家の奥座敷。

 あまり使われていないらしいその部屋で、香流は今夜催される宴席のための着替えに追われていた。


 美弥に着いた翌日。

 昼前、食事もとらないうちから女中たちに手を引かれ、香流は湯あみ、髪結い、化粧と、一通りの身繕いを施された挙句、この部屋に放り置かれた。

 このかん、女中たちは示し合わせたように誰一人声を発しない徹底ぶり。

 困惑していた香流も、その勢いに飲まれて何も聞かなかった。

 ただ淡々と、作業のような流れに身を任せるだけ。

 そうして肌着のまま部屋で待つことしばし。

 楚々そそとした足音とともに障子が開き、これまた数人の女中たちが両手いっぱいに荷を運び込んできた。

 先頭の女性は、見知っていた。

 昨日、右治代当主に紹介された、苑枝という中年の女中だ。

 あれから二言三言紹介された内容によれば、この厳しい顔つきの女性が右治代家の筆頭女中なのだという。

 女たちは苑枝の指示で、テキパキと香流を立ちあがらせた。

 部屋に広げられた毛氈もうせんの上で棒立ちになり、香流はまたしてもだんまりをこなすこととなる。

 言葉を求められないことは、それほど気にしない。

 ただ、体を洗われるのも、衣装を整えられるのも、そのすべてを施していく女たちの手が、まるでどうでもいい人形を扱うように無情だと思えてならなかった。


「(この方たちには、温度がない。 私に差し向けるだけの、熱がないのだ)」


 好意どころか、興味も、価値すら見出していない。

 徹底して、香流という異物に対して頑なだ。

 それでも仕事はしっかりとやり遂げるのだから、さすが格式のある家の者だと感嘆の思いがした。

 そんな風に思っているところに、不意に通告されたのだ。

 『今宵の宴は、婚儀の式ではありません』と。


「私が聞いていたお話では、到着次第、婚儀を結ぶというお話でしたが……」


 五老格と右治代の約定は、香流と銀正の結婚という話だったはずだ。

 なのに、そうではないという。

 だとしたら、この準備は一体なんなのだろう。

 何のための装いなのだ。

 疑問顔の香流に、苑枝は一切手を止めぬまま続けた。


「今宵の宴は、御当主とあなた様の婚約をお披露目するためのものです。 あなた様もそのよし、御承知ください」


 婚約。

 香流は声にせずつぶやいた。

 ほうけた頭に、考えが巡る。


 つまり、右治代としては結婚に至る前に、許嫁という段階を踏みたいということだろうか。

 これだけの名家だ。

 いきなり、どこの馬の骨とも知れぬ小娘(年増だが)を嫁として披露目に出すのは、体裁が悪いのかもしれぬ。

 香流のほうに話を持ってきたのも、あの、いい加減で気まぐれな五老格たちだ。

 香流にした説明に、抜けがあったとしてもおかしくない。

 重要なことすら、ちゃらんぽらんなところがあるのだ。

 爺どもの話しぶりから、即結婚が決定事項だと勘違いしていたのは、香流のほう。

 実際は聞いていたよりも性急な話ではなく、踏むべき段階がある約定だったのかもしれない。

 そう結論付けた香流は、己の勘違いに居心地を悪くして、もぞりと顔を俯けた。

 そうしているうちに装いが仕上がり、苑枝以外の女たちが部屋を引き上げていく。

 人の気配の少なくなった室内で、苑枝が衣装を整える衣擦れの音だけが響いた。


「……花嫁衣裳のほかで、このように上等な装いができるとは思いませんでした」


 何とはなしにこぼすと、一瞬、苑枝の手が止まる。

 本当に一瞬のことで、一つまばたくと、相変わらず苑枝はテキパキと衣装を整える手を止めなかった。

 返事を期待していたわけではなかったので、香流も気にしない。

 ただ、結婚が先に控えているのなら、幾度もこのような贅沢な思いをさせてもらうのは、ほんの少し気が咎めるなぁとぼんやり思った。

 里の母が見れば、なんと贅沢なと呆れかえるのだろう、とも。


「香流様」


 そんな風に物思いに沈んでいたため、久方ぶりに聞いた人の声に、反応が鈍った。


「は、はい」


 見下げると、正面に膝をついた苑枝が、じとりと香流を見上げていた。

 もの言いたげな目に首をかしげると、一瞬その目の中に、無機質ではない何らかの色が過ったような気がした。


「やはりあなたは、他所よその里のお方ですね」


「え?」


 当然のことを指摘され、香流は虚を突かれる。

 そんな香流を、苑枝は厳しい顔で見上げて言う。


「あなたが今言った言葉。 ここでは、中々に誤解を招きますよ」


「誤解、ですか?」


 正直な思考が発した、裏のない言葉だ。

 たった一言の思いに、一体何の含みを見つけるというのだろう。

 疑問が絶えない香流をしばし眺め、苑枝ははぁとため息を落として見せた。


「先ほどの言葉、それを言われて、美弥の者はどう受け取ると思われますか?」


 はて?

 苑枝の意図するところが分からず、香流は目を瞬かせる。


「……言葉通り以外に、どう受け止められるのでしょう?」


 純粋な疑問だった。

 自分だって、言葉のまま受け取る。

 しかし、そんな香流の様子を察しが悪いとでも思ったのか。

 作業に戻りつつ、苑枝が言った。


「あなたは他所の方だから分からないでしょうがね。 この国では、その言い方は嫌味を含んでいると受け取られます」


「嫌味、ですか?」


「花嫁衣裳の前に、こんな装いをさせられる。つまり、『婚儀の約をして輿入れしたのに、仮の嫁として表に出そうとは何事だ』と、暗に右治代をなじっているように受け取られるのですよ」


「え?」


 詰る?

 詰るなんて、そんな。

 そんな見方があるものなのだろうか?

 というよりも、苑枝は『婚儀の約をして輿入れした』と言わなかったか?

 ということは、やはり自分が思っていた通りで話は間違っていなかった?

 ――――んん?


「……即日婚儀の話は私の勘違い、というわけではなかったのですか?」


「はぁ?」


 香流の問いかけに、今度は苑枝がいぶかし気な声を上げた。

 そのまま見つめあい、数秒。


「えっと、だからつまり、約束のお話は即、婚儀を上げるということでよかったのですよね?」


「今更、あなたは何を言っているんですか?」


 本当に、何を言っているんだろう、お互い。

 いや、香流としては、大切なことの確認をしておきたかっただけなのだが。

 苑枝はとうとう呆れ果てたように首を振って、あわせを整えると、


「あなたは相当、にぶい人ですね。 これから苦労しますよ」


と、話を切り上げた。

 その時だった。

 敷居のこすれる音とともに、二人の背後でふすまが二枚、静かに開く。

 人の気配だ。

 はっと目を向ける苑枝に対し、衣装で動きの取りづらい香流は首を回せず、苑枝の様子から事態を読み取ろうとした。


「大奥様!」


 呼ばれた呼称に、香流はすぐピンと背を張った。

 この家の当主は、昨日会った自分の婚約者。

 となれば、この家で大奥とはその母親。

 香流のしゅうとめとなる人だ。

 即座に香流の重たいすそを持った苑枝に介助され、ゆっくりと体を背後に向ける。

 不敬にならぬよう、視線を落として腰を低くすると、


「あらあら、礼儀はできているようね? 良い子だこと」


 子猫を愛でるような声だと思った。

 とはいえ、少女のように幼いものではない。

 夜露に濡れる、白百合のような芳香と艶めきを想起される声音。


おもてをお上げ? 妾にようく顔を見せて」


 他者へ命ずるのに慣れた物言いだ。

 香流は、そっと顔を上げた。

 目を合わさないように視線をぼやかせたのを…………悟られた。

 さっと伸びてきた扇子の先が、香流のあごを捉える。

 ゆったり持ち上げられるのに従って、目線を捧げれば、


「まぁ。 臆面のない子だこと」


 にこりとした唇の紅が、じわと歪む。

 目が、と思った。

 目がひどく凍てついたように動かない人だと、香流は気が付いた。


「ほほほ、そんなに見つめないでおくれ。 熱うて目がとろけてしまうよ」


 美しい女性だった。

 白面は、銀正によく似た顔立ち。

 すっとした細いつくりの由来は、この人の血なのだろう。

 結い上げた射干玉の髪は、貴人にのみ許された長さ。

 煌びやかな装いはどこまでも優美で、暗い室内で美しく光を放つよう。

 一片の老いすら感じさせぬ、雲上の一輪花。

 この人が、と息をのんだ。


「大奥様、先触れもなくお出ましになるなど、御気分が過ぎます。 御当主様にも知らせておられぬのでは」


 横の苑枝が、抑えた声で苦言を呈する。

 仕える身分で諫言かんげんする様子に苑枝の発言力がうかがえるが、百合の人は何一つ構うことなく、鷹揚に扇子の下で笑ってみせた。


「妾が、この家で一体誰に気を遣うことがある? おかしなことを申すなよ、苑枝」


 冷えたままの目が圧を寄越し、苑枝がぐっと身を固めたのが分かった。

 美しいものは時に恐ろしい。

 恐ろしいのは美しいからか、美しさが恐怖を人に覚えさせるのか。

 その判断は定かではないが、この人はその例に漏れぬ類の人だと香流には思えた。

 この家において、この人の権力は相当なものなのだろう。

 もしやもすれば、あの若い当主すら寄せ付けぬほど。

 そう考えたとき、氷の目が、香流をそこへ閉じ込めた。


い子」


「……は、い」


 無暗なことを言ってはならない。

 この人の張りつめた糸を揺らしてはいけない。

 そんな直観に飲まれ、香流は緊張とともに応える。

 小娘の従順さに満足したのか、凍った目はにんまりと細まってみせた。


「名を言いなさい。 その氏名、妾に教えておくれ?」


 息継ぎさえままならぬまま、「――――香流」と吐き出していた。


「そう、お見知り置き下さい。 嫁に入る身です。 うじは何れ、頂戴しとうございます」


 押し殺したように、そう返した時。


「……そう。 家に入る覚悟を、しているということ」


 空気が、変わった。

 奥方の凍り付いた氷面に、何かが揺らぐ。

 どろりと大きくうねる、なにか。

 しかし、それが何かを見定める前に、ぱんと扇子の閉じられる音が、香流の集中を断った。


「香流、その方。 どうせ、この国も、この家のことも、何一つ知らぬのだろう?」


 哀れな子。

 憐憫とは程遠い、冷えた声が香流に吹きかけられる。

 美しい顔が歪に形を変え、憎しみにも似た色が浮かんでいた。


其方そなた、正式にこの家の嫁となった暁には、妾がその方の義母じゃ。 ようおのが身の振り方をわきまえるがよい」


 先ほどまでの緊張した静けさとは正反対の、烈火のような激しさで奥方は香流を睨みつけ言った。

 そうして香流が応えを返す間もなく、何かを振り切るような勢いできびすを返し、部屋を後にしてゆく。

 襖の向こうに控えていたお付き女中たちも、そのあとに続く。

 煌びやかな気配を失って、唐突に静けさを取り戻す室内。

 香流は奥方の消えていった方を眺めたまま、しんと思考にふけった。

 一度ほとばしれば抑えのきかぬ何かを、あの氷雪の底へ沈めたような。

 そんな不安定で、危うげな人だと、じんわり思った。


「大奥様にも困ったこと」


 ほっとした気配とともに、苑枝が首を振りつつ呟く。


「美しい方ですね」


 香流が返せば、またしてもじとりとした目線が寄越された。

 どうにも自分は、この人を呆れさせてばかりのようだ。

 おとなしく口をつぐんで俯くと、苑枝は立ち上がりながら教えてくれた。


「あのお方が、現右治代当主の母君・弓鶴ゆみつるの方様です」


 この家の、影の権力者。

 氷のように凍てつき、炎火のように激する人。

 そうして言われた。


『この家で平穏にありたいなら、彼のお方のご機嫌を損ねぬよう、努々ゆめゆめ心に留め置きください』と。

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