サンサーンスの水族館

増田朋美

サンサーンスの水族館

サンサーンスの水族館

何処の世界にも平凡な家庭というものがあって、毎日、仕事をしたり、勉強をしたりして、一生を終えるというだけの家がある。国家によっては、其れだけで十分しあわせだろうという所もあり、それだけでは満足しないで、何かによりどころを求めなければ居られないところもある。発展途上国では前者の人がほとんどであり、先進国ではほとんどが後者である。しかし、先進国であっても毎日暮らしていくだけで精一杯という人もごく少数なのではあるが、いるのである。そういう人たちのことを、豊かな人たちはいじめという方法で、排除しようとする。実は、そういうことをする人たちが、発展途上国のひとより、もっと貧しいのかもしれない。そのいじめにあった被害者も、どんどん貧しい生活に陥れられるのだが、、、。この二つをくっ付ける接着剤のようなものは何もないのだった。

そういう被害にあって、貧しくなってしまう、という現象は、日本人の重大な問題としてよく扱われているのだが、実は日本ばかりが酷いものではない。

このヨーロッパでも、いじめというものがあって、その被害にあった子は、家に閉じこもってしまうという現象が、しょっちゅうあるのだった。

そして、その家族は出口のみえない、真っ暗なトンネルに、はいってしまうのであって、そこから出るのには、何十年もかかってしまう。

それは、日本でも、ヨーロッパでも、関係ない。そういう事である。いじめがないところなんて、日頃から食べ物に困っている、発展途上国の原住民の世界でしかないだろう。

今日も、マークは朝食をたべながらそんなことを考えていた。隣で、日本人の影山杉三こと杉ちゃんが、本当にうまいと言いながらソーセージを食べているのが、何だか羨ましかった。

がちゃんと音を立てて、部屋のドアが開いた。妹のトラーだった。

「おはよう、おトラちゃん。」

マークの代わりに杉ちゃんが、あいさつした。

「ああおはよう。杉ちゃん。」

客人の杉ちゃんには挨拶して、家族の自分にはあいさつしないのかと、マークは思ったが、あえて言わないで置いた。

「朝飯は、そこにあるからな。」

杉ちゃんは、テーブルの上に乗っている朝ご飯を顎で示した。

「いいわ、水穂に先に食べさせてから食べるから。」

そうはきはきいう彼女に、マークは、あれれ、自分の妹に、こんな明るい一面があったか?と、おどろいて、おもわず持っていたフォークを落とした。

「あそう。じゃあ、そこの鍋にはいってるよ。今日こそたっぷり食わしてやってくれよ。ただ、無理やり食わして、のどにつまったりしないようにな。」

杉ちゃんがそういうと、トラーは、わかったわ、とだけいって、鍋の中身を確認した。

「また蕎麦掻?杉ちゃん。」

「だってしょうがないだろ。食べるもんが其れしかないんだからよ。日本と違って、肉魚ばっかり使ってるんだから。」

「そうねえ。ほかに何か安全な食品ないかしらね。あたし、カフェのマスターに、そば粉を使った料理、何か聞いてこようかな。」

おお、、、。

思わずマークは、ぽかんと妹の方を見た。

「どうしたの、マークさんのぽかんとした顔。」

杉三が、マークにそういうと、

「い、いや、あのね、マスターに聞いてこようなんて、よく思いついたなと、、、。」

と、マークはぼそっと言った。

「まあ、何言ってるのよ。だってしょうがないでしょ。たべないと水穂、たいへんなことになるわよ。」

そういってトラーは、手早く蕎麦掻を皿の上に盛り付けた。そのままお皿をお盆に乗せて、スプーンと一緒に、客用寝室に持って行ってしまった。

「どうしたのマークさん。なんだかぼんやりしちゃって。」

杉三が、ソーセージをたべながら、マークに聞いた。

「い、いやね、杉ちゃんたちがこっちに来てから、トラーのやつ、すっかり変わっちゃったから。もう、今までは、食堂のマスターに料理を聞いてくる何て、そんなことを思いつくなんて、夢のまた夢だと思ってたよ。」

「はああ、、、。つまり、日本語で言うところの、引きこもりか?」

杉三がそういうと、マークはそうだよとはっきり言った。

「なるほどねえ。それではマークさんもたいへんだったのではないの?こっちでは、感情のぶつけ合いみたいなもんだろ。」

「そうなんだよ。もう僕が一寸何か言えばすぐに泣き出すし、バカロレアの試験勉強しろと言えば、気を悪くして怒り出すし、、、。」

「バカロレア。ああ、日本でいうところの大検か。」

杉三は腕組をした。

「そうなんだよ。隣のチボー君は、音楽学校までいったのに、こっちは何も行ってないから、恥ずかしくて。いくら何でも、リセに行かなきゃいけないぞと言い聞かせたけど、結局やめちゃったからなあ。」

「なるほどねえ、、、。何処の世界にも、学歴は大切なのねエ。」

「そうなんだよ。あいつときたら、何も勉強しないどころか、しまいには部屋の中で一日中寝ている生活になってしまっていて。杉ちゃんたちが来たら、すっかり変わってしまったよ。何年ぶりに、あんな活発な女になったんだろう。出来る事なら、もう一回バカロレアの試験を受けようという気になってもらいたいんだけどな、、、。」

マークは、一つため息をついた。

「まあまあ、一度に一つ以上の期待はしたらいけませんよ。人間一つ一つ解決させていかなくちゃ。一度に解決できることは一つだけ。それ以上は期待しない。」

そういって杉三は、またソーセージにかぶりついた。マークは、そうだねえ、と言って、杉ちゃんのいう通りにしようと考え直した。

一方、客用寝室では。

「おはよう水穂。」

ベッドで眠っていた水穂を、トラーが軽くたたいて、そっと起こした。

「あ、ああ、すみません。こんな時間まで。」

水穂は、痩せた腕でヨイショと体を起こした。

「あら、今日は咳き込まないのね。」

トラーはにこやかに笑った。

「そうですか?」

水穂が聞くと、

「ええ、昨日よりずっと顔色良くなったじゃないの。それではもうちょっとしたら、おきてもいいかな。」

と、トラーは持っていたお盆をサイドテーブルの上に置いた。

「はい、水穂の朝ご飯。」

「あ、すみません。」

水穂は、スプーンを受け取った。

「すみませんじゃないわよ。日本人は、ほんとに謝るのがすきね。」

とらーは、サイドテーブル脇に座った。

「あ、あの、」

水穂は、ちょっともどかしそうに言うと、

「日本人って人が見てたら食事できないのかしら?」

と、トラーは笑って言った。

「あ、すみません。」

「違うわよ。水穂は、食べるほうが先でしょ。」

トラーに言われて、水穂は、申し訳なさそうに蕎麦掻を口にした。蕎麦掻は、本当は箸があったほうが食べやすいのであるが、それをあえて口にしなかった。

「あら、今日は食べられるのね。良かったわ。少し良くなってきてるかしら。このままいったら、デザート何かも食べられるかな。」

「え、ええ?」

デザートと聞いて水穂はすこし怖くなる。

「勿論、あたしカフェのマスターに、小麦を使わない安全なデザート、聞いてくるつもりだから、それは安心して。」

というけれど、果たしてそういうデザート何てあるんだろうか、と、水穂は一寸不安になる。

「ねえ水穂。」

ふいにトラーに袖を引っ張られて、水穂はベッドわきに座っている彼女を見た。

「今日、咳き込まないから、お兄ちゃんが仕事に行ったら、ここに行かない?」

そういって、トラーは散らしを一枚見せた。アルファベットで、何か書かれているが、水穂は、それを日本語に置き換えて、水族館と読めた。

「水族館?」

「ええ、最近、こっちでも、日本の金魚が流行っていてね、珍しい金魚の展示会をしているのよ。」

なるほど、確かにアルファベットでは、「Kingyo」と書いてあった。

「あんまり寂しそうにしてるから、たまにはいいかなと思って。どう、行かない?」

そのチラシには、日本の和金やらんちゅうや、珍しい金魚と言われる地銀まで載っていた。

「どう?」

また言われて、判断にまよってしまう。

「きっと、可愛い金魚たちが慰めてくれるわよ。日本は、地震の話でてんやてんやの大騒ぎになっているらしいから。今帰っても落ち着かないわよ。こっちにいたほうが落ち着いて暮らせるわ。」

トラーさん、それでは、僕たちいつまでこっちに居ればいいんですか、といいたかったが、それは口に出来なかった。すでに、日本を離れて、何日かたっているのに、体が回復することはないらしい。確かに、北海道で大地震がおきて、電波塔が倒れるなどの、大きな被害が出たらしいが、静岡では建物が壊れるなどの被害はなかった。しかし、トラーたちは、水穂たちが住んでいるところが、被災したのだと思っているようで、いつまでも落ち着かないと話していた。

「だから、もうしばらくこっちにいて。あたしたち、沢山おもてなしするからね。出来る限り、食べるものは調達してくるからね。」

トラーはもう一度、ね、いかない?という顔で切り出した。彼女がそれを使いこなしているつもりなのかは不明だが、その色っぽい顔つきに、断ったらいけないのではないかと思ってしまうところがあるのも、また事実だ。

「じゃあ、早く食べて支度しよう。」

トラーはまたにこやかに笑った。その顔は、やっぱり映画女優みたいに可愛かった。

数時間後、マークが、仕事場に出かけていった。自宅には、仕事場になりそうな広さの部屋はなかった。

それでは、と、水穂とトラーはこっそり家を出た。パリのお天気は、いつもどんよりしている。冬の日差しは弱いから、空は灰色で、街路樹はすっかり葉を落として、雪化粧をしてしまっていた。その寒いのが、水穂にはこたえた。

「こっちよ。歩いていける距離だから、大丈夫。あたし、調べてきたもの。」

とはいっても、あるいていける距離と言ったって、水穂には歩いて行けそうな体力はなかった。その歩くスピードは、亀よりも遅かったけど、トラーは何も文句も言わなかった。

暫く歩いていくと、公園にたどり着いた。トラーは、公園の敷地内に、水族館があるはずだと言った。

「ちょっと確認してみるわ。地図出してみるから、まってて。」

トラーは鞄の中から、手帳を出して、公園の地図を取り出した。水穂はどこかベンチでもあればいいいのにと思ったが、確かにあるにはあるけれど、雪のあとがついている。

「えーと、こっちよ。」

別の方向に歩こうとするトラーに、急いで水穂は方向転換をして、そのあとについていった。

「あれえ、トラちゃんじゃないか?」

ふいに、そんな言葉が聞こえてきたので、水穂ははっとする。前方には、カフェが一軒たっていた。誰かが、カフェの窓から、自分たちを見ているのだろうか。

「おい、とらちゃんだぞ。」

トラーも、見られてしまったか、ギクッとした顔をしていた。

「何をやっているんだよ。君は。こんなところに連れてきちゃダメじゃないか。」

そういって、チボーと杉ちゃんがカフェから出てきた。

「二人とも、こんなところで何をやっているのよ。」

トラーが、口ごもりながら言うと、

「いや、僕らは、買い物に行って、その帰りにお茶でも飲んでいこうかと。」

と、杉ちゃんがその通りにこたえた。

「もう少ししたら、帰るつもりだったが、水穂さんに蕎麦がゆ作ろうと思って、そばの実を買って来たんだけどね。それにしても、なんで水穂さんまでここにいるんだ?布団で寝てるんじゃなかったの?」

チボーは、心配そうな顔をして、水穂の方を見た。そして、トラーが金魚水族館のちらしを持っているのを確認する。

「それでは、いけないじゃないか。まだしずかに寝ていなきゃダメなのに。君も、少しよさそうだからと言って、無理やりこんな所に連れてきちゃダメだよ。それに、金魚の展示会は、この公園を通り越して、一キロ近くあるくんだよ。そんなことさせたら、可哀そうだろ。」

「違います。彼女が悪いわけではありません。彼女は、僕の事を慰めてくれるためにここに連れだしてきてくれたんです。」

チボーにそういわれて、水穂はそういった。

「水穂さん、なんでもそうやって自分のせいにしないでください。其れだから、日本人は損をするんじゃありませんか。そうじゃなくて、しっかり悪いことは悪いと、注意しなきゃ。」

水穂の発言に、チボーはちょっといら立っていった。

「いえ、そんなことありません。トラーさんは、僕が辛そうにしているので、慰めて、、、。」

「馬鹿!それ以上いうな!」

そう杉ちゃんが言ったのと同時に水穂は激しく咳き込んだ。次の一言を言おうとして、生臭い液体が口から吹き出したのは覚えているのだが、そのあとはわからなくなった。

「気が付いた?」

杉ちゃんにそういわれて、水穂はやっと目を覚ました。たしか、公園に来ていたなあと思い出すことは出来たのだが、自分は、いま、ベッドに寝かされていた。よくよく見てみると、マークさんの家の、客用寝室の中である。

「あ、あの、トラーさんは、」

「あんまりしゃべらない方がいいよ。しずかに寝ていろ。」

杉ちゃんにそういわれても、水穂は、

「トラーさんは何処に?」

と聞いた。

「今ごろ、マークさんにしかられてるよ。全く、色気さえあれば、なんでも通ずるとでも思ったんだろうかな。」

「全くです。」

杉三に目くばせされて、チボーはそういったが、何か、様子が変な感じだった。

「どしたのよ、せんぽ君。」

「いや、なんでもありません。」

そう聞かれてチボーは、ちょっと複雑な表情を見せた。

「あの、僕、何かチボーさんにまで、」

水穂は慌てて謝罪をしようとするが、

「バーカ!おまえさんはゆっくり寝てれば其れでいいのよ。後で蕎麦がゆ食わしてやるからよ。もうちょっと、待ってろや。」

と、杉三に馬鹿笑いされてしまったと同時に咳が出た。チボーが、急いで水穂を横向きにさせて、口元を拭いてやった。

「でも、これで、トラちゃんが、落ち込んでしまったら、おまえさんの世話はどうなるんだろうね。」

確かにそうだ。今まで水穂の世話は、一貫してというより、強引にトラーがやっていた。ほかの人が手伝おうかといっても、彼女はそれをことごとく拒否してきた。

「まあいいかあ、何とかなるか。」

杉三は頭をがりがりとかじった。水穂は何か返事を返そうかと思ったが、咳に邪魔されて発言出来なかった。チボーに、口元を拭いてもらわなかったら、枕が汚れる所であった。

「水穂さん、薬飲んで休みますか。もう暫く眠ったほうがいいよ。」

マークの家には吸い飲みがなかったので、ティーポットを吸い飲み代わりに使っていた。チボーは、それを取って、水穂に中身を飲ませた。中身を飲むと、やっと吐き気も治まったようで、咳はとまった。薬には眠気をもたらす成分があったのか、そのまましずかに眠ってしまったのである。

とりあえず、水穂が眠ったのを確認して、チボーは家に帰った。そのあと、杉ちゃんを含めて、何があったか、彼は知らない。でも、何かショッキングなことが彼の中に起きてしまったようで、その日、隣の家からバイオリンの音が聞こえてくることはなかった。

その日の夕食は杉ちゃんの作ってくれた食事を食べたのであったが、実に湿っぽいというか何と言いうか、おかしな雰囲気であった。トラーは泣きながらだし、マークは、がっかりとした顔をしている。杉三だけがにこやかに笑っていつもと変わらずに何か食べているのだった。

その次の日。杉三は、またチボーと一緒に買い物にでかけたが、チボーはなにか落ち込んでいるという感じだった。とりあえず、一通り必要なものを買って、帰路につくことになったが、そこでもなんだか、気が抜けたような感じだった。

「おい、せんぽくん。」

杉三にそういわれて、チボーははいと、生返事をする。

「お茶でも飲んでいくから、通訳やってくれる?」

「わかりました。」

二人は道路の途中にあった、小さなカフェに入った。ヨーロッパというところは、至るところにカフェがあり、そこでお茶を飲むのは、当たり前の文化になっている。

とりあえず、メニューをもらって、チボーの通訳により、杉三は紅茶とケーキを注文した。

「ほんとにどこへいっても食べるんですね。日本でも、そうやって食べてるんですか?」

「当たり前だい。たべないと、体も持たんよ。水穂さんみたいに、何にも食わないじゃ、体どころか、頭もおかしくなるよ。」

「そうだねえ。」

チボーは、そういう杉三を、なんだか恨めしそうにみた。

「せんぽくん、男らしく、告白しろ。」

杉三は、にこやかに言った。いきなりそんなことをいわれて、ビックリしてしまうが、

「いや、それはねえ、どうでしょうか?」

と、わざとおどけてみせる。

「はやくしないと、とらちゃん、水穂さんにとられてしまうぞ。」

「ま、まあ、それはそうですが。」

杉ちゃんの顔は、真剣だった。それじゃいかんというかおをしている。

「でも、言えないか。その顔じゃな。」

と、またからかわれてしまった。確かに、チボーは水穂さんみたいな、色っぽい、艶かしい雰囲気は持っていない。よく、バイオリニストというと、似合わないといわれるかおをしている。

「とらちゃんとは、釣り合わないか。でもな、水穂さんと、とらちゃんがくっついたら、ヴィヴィアンと、ローレンスみたいになっちまうかな。」

「まさしく。あの二人はお似合いですよ。でも、水穂さんのほうが、先に逝ってしまうのは確実でしょうから、彼女には、はやく未亡人にはなってもらいたくありません。」

チボーがそういうと、杉三は、カラカラと笑った。

「まあ、とにかくな。とらちゃんが、こっちを向いてくれるように、なにかやってみな。」

「はい。」

チボーは小さくなって頷いた。

とりあえず、ウエイトレスが持ってきてくれたケーキを食べて、二人は、マークの家にもどった。水穂

のこともあり、さほど長くはカフェに居られなかった。

がちゃんとドアを開けて中に入ると、客用寝室のある方向から、咳き込んでいる音がする。チボーも杉三も、急いで部屋に行ったが、咳き込む音と同時に、ほら、しっかり水穂、という女性の声も聞こえてくるのだ。

「今のトラちゃんだろうか。」

マークさんは、まだ仕事から帰ってくる時刻ではないし、誰か家政婦でも雇ったのかという感じでもない。そうなると、トラーが世話をしているんだとしか考えられないが、チボーが知っている彼女は、一度落ち込むと、立ち直るのに、時間のかかる人物であるはずだった。

一体何をしているんだろう、と、チボーが、ドアの隙間から中を覗いてみると、やっぱり中にいるのはトラーで、水穂をベッドの上に座らせて、そっと背中をさすってやっているのがみえたのである。咳き込んでいるのは、紛れもなく水穂で、トラーがたびたび、口元にチリ紙を当ててやっているのだった。

「まだ、水穂さんはたいへんみたいだな。」

杉三が、チボーの後ろでそっと呟く。

確かに、彼女がこういう風に活発に動いてくれるようになったのは、目覚ましい進歩だが、それはきっと自分から離れてしまうのではないかと、チボーは悪い予感がした。それはとても、辛くて、悲しいことだった。なぜか、自分のそばを離れて行ってしまうということは、チボ―にはとても悲しいという情景だったのである。

「せんぽ君どうしたの?」

杉ちゃんには、泣いている自分の顔を見せたくないなと思った。それを見せてしまったら、笑われてしまいそうな気がした。

「薬飲んで休もうか?切れちゃうとすぐもとにもどっちゃうけど。」

トラーは、そんなことを言っている。水穂も、わかりましたと言って、トラーの差し出したティーポットに口をつけた。中身を飲み込むと、吐き気がなくなって、またぼんやりと眠たくなってきた。

「でも、いけなくて残念でした。」

眠くなりながら水穂はそういった。

「どこに?」

トラーが、そうきくと、

「水族館。」

と、一言だけいって、水穂は静かに眠ってしまった。

「あたしもいきたかったけど、今回は、仕方ないわよ。少し動けば、あなたも何か食べてくれるかなと思って、其れでお誘いした訳だったんだけど。」

そういう彼女も、実はつらそうであった。本当に、そこへ行きたかったという気持ちがにじみ出ていたのである。

なるほどなあ、と、チボーは考え直した。きっと悪気があって、むやみに誘いだしたという訳ではなく、彼のことを思って、そとへ連れ出したのだ。

「もう遅すぎたのかな。」

トラーはそういうが、水穂は返事を返さなかった。もう、眠ってしまっていたのである。トラーはもう一枚かけ布団をかけてやった。そのまま、ベッドの横にずっと座っていた。そういうことが、チボーには一寸歯がゆいというか、一寸変な感じだなという気がするのだが。

「まあいい、戻ろうか。」

杉ちゃんがそういったので、チボーも客用寝室を覗くのをやめることにした。二人は、そそくさと、居間にもどっていく。

「でも確かに、水穂さんも、何か刺激があったほうがいいですねえ。何もなくてただ寝ているだけなのでは、一寸、可哀そうな気がする。それではいけないな。」

チボーは、居間に戻って、そんなことを言った。

「それは確かにそうだなあ。昔と比べて、随分贅沢が出来るようになったねえ。」

杉ちゃんがにこやかにいう。

「贅沢何て、そんな事をいうもんじゃありませんよ。そんなこと言ったら、こっちでは、人権侵害で捕まってしまうんですよ。」

「随分厳しいなあ。日本もそうなってくれればいいのにい。日本では、病人何て、すぐに病院にぶち込んで其れで終わりさ。あるいは、専門の施設に預けちゃうか。日本社会は、はたらけなくなったらすぐ捨てる。これが弱い奴らの運命ってもんよ。」

杉三は、カラカラと笑った。

「随分冷たい所ですね。ヨーロッパでは、そんな事、信じられないな。そんな人を馬鹿にするような発言を平気でしたら、裁判沙汰になることだってざらにありますよ。」

チボーは、どうもこういうところは理解できないという顔をした。

「其れなら、余計に何かしなきゃいけませんね。」

頭をかじりながら、何か考え事をはじめた。杉三は、さあ晩御飯の支度するかあ!とでかい声で言って、冷蔵庫の方へ移動する。

その翌日。

とりあえずマークは仕事に出かけて行って、トラーと杉ちゃんが、水穂に朝ご飯を食べさせていた時の事である。

「はい、このお宅です。客用寝室でずっと寝ています。」

と、いう意味の言葉が聞こえてきて、チボーが、二人の男性をつれてはいってきた。一人は、スタンドとキーボードをもって、もう一人は、オーボエを持っている。

「僕の音楽仲間なんです。水穂さんのことを話したら、可哀そうだから、音楽を聞かせてやろうという話になりましてね。どうせなら、うんと明るい音楽を聞かせてやろうということになりまして。ちょっと子どもっぽい内容かもしれませんが、動物の謝肉祭よりフィナーレ。」

と、チボーが説明している間に、あとの二人は楽器を組み立てた。水穂も杉ちゃんも予想していなかったらしく、どういうことだという顔をしているが、チボーは、なりふり構わず、あとの二人にお願いしますと挨拶をして、演奏を開始した。

それは、たいへん明るくてたのしい曲で、何か圧倒されてしまいそうな雰囲気があった。子どもっぽい内容と行っていたけれど、そんなことは全くなくて、格調の高い演奏になっていた。

「お、いいぞ!もう一回やって。頼む!」

杉三がそういうと、水穂も布団の上におきて、お願いしますと頭を下げた。チボーは、もう一度と二人に合図して、また演奏を開始する。この時は、杉三が手拍子を入れたのでさらに演奏が盛り上がった。

トラーが、笑って水穂さんの肩をたたいた。水穂も、最初のほうは硬い表情だったが、最後の盛り上がる部分に差し掛かると、にこやかにわらった。

「おう、もう一回頼む!」

三度目の演奏が開始される。この時は全員、にこやかな顔になっていた。

「ほんじゃあ次は、是非、伊福部昭のシンフォニア・タプカーラとかやってよ。」

杉三が、でかい声でそういうと、

「嫌だね杉ちゃん。そんな曲知らないよ。すみません、なんだか、無茶なお願いして。」

と、水穂がそう訂正した。

「お、それをいえるなら、おまえさんも何か一曲やってみろ。そこの電気ピアノ借りて。」

杉ちゃんがそういうと、水穂はおどろいた顔をするが、実はこれがチボー達の狙い目であった。チボーは、ベッドのそばに駆け寄って、さあどうぞ、と水穂さんに右手を差し出した。

「で、でも。」

「気にしなくて結構です。簡単な曲で構いませんから、なにか一曲、是非聞かせてください。」

チボーに手を引っ張られて、水穂は無理やり布団から出て、キーボードの前に座った。トラーが

素早く彼に羽織を着せてやった。

何を弾こうかまよったが、すぐにある曲を思い出して、じゃあ、行きますとだけいって、水穂は、その曲を弾き始めた。

「何だこれ、くらい迷路に迷い込んだような曲じゃないか。短い曲だけど、何だか気持ち悪いな。」

と杉ちゃんは、そう感想を漏らしたが、ほかの人たちは、すぐに何の曲なのかわかったようだ。サンサーンスの、「水族館」である。

「本当に水族館にはいったら、こんな雰囲気がするのかしら。」

と、トラーが感想を言った。確かに水族館に行った事のある人ならわかるだろうが、水族館の展示室は、薄暗く、いろんな魚がいて、まるで、現実から離れた異空間という感じがするだろう。それがうまく表現された曲である。

「すごい、素敵。もう一回やれない?」

「あ、はい。」

トラーにそういわれて、水穂はもう一度水族館を演奏した。先ほどフィナーレを演奏したピアニストよりも、もっと卓越しているくらいだ。

それを聞いて、チボーは、嬉しい気持になったけど、ちょっと、複雑で、もどかしい気持になってしまった。水穂さんもトラーも、お互い元気を取り戻したら、僕のところから離れて行ってしまうのだろうか。

「もう一回言うが、男らしく告白しろ。」

ふいに自分の後ろで杉ちゃんがそうささやく声がした

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サンサーンスの水族館 増田朋美 @masubuchi4996

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