第10話 パラ憲法誤改訂(2119年)

 見慣れた研究所。

 見慣れたスタッフたち。

 ここは〈私〉が日本語パラ憲法キュトス改訂作業を行った、あの日、あの場所だ。

「ミハル所長、作業前確認全てOKです。予定時間より作業開始可能です」

「わかった」

 あの日と同じ会話が交わされる。

 しかし一つだけ違うことがある。ミハルのカント野にいる〈私〉にはわかる。

 このミハルは、パラ憲法の改竄など目論んではいない。

 ただ自分の能力を、少しでも社会がよくなる方向に使うことだけを考えている。

 日本語パラ憲法キュトスの倫理。強すぎるそれは、倫理と必然性を錯誤させる。ここにいるミハルは、自分がすべきことをただすべきであるという、あまりにも人間的であまりにも非人間的な必然的思考に衝き動かされている。ミハルという人間は、おそらく他の人間よりも少しだけ、カント野の感受性が強いのだろう。周りの人間も、ミハル本人もそのことに気づいていない。ある意味で、このミハルはカント野の必然性の奴隷であり、同時に無垢な必然性の内で生きている限り、誰よりも自由だった。

 そして〈私〉は知ることとなった。〈ミハル〉の長い旅の始まりを。

 改訂作業に使用されるプログラムには、〈ミハル〉がすり替える以前から、バグが存在していたのだ。その事実は、スマートナノマシンへのデータ転送の開始直後に発覚した。作業はすぐに中断された。しかし少しだけ遅かった。〈改訂機〉のすぐそばにいた一人の人間だけ、日本語パラ憲法キュトスの改訂が完了してしまっていた。

 それがミハルだ。

〈私〉が生まれた本当の始まりは、ここだったのだ。

 作為のない人為的ミスによって〈私〉は幾つものミハルやセイとつながった。

 セイの言葉通り、〈私〉の旅の終わりは近い。

 プログラムのバグは、テクストのある一文を誤変換していた。


「他者は自由である」

 ↓

「他者は自宙である」


「私の半分は目の前の他者である」

 ↓

「愛の繁文は黙然の他者である」


 単なる変換ミスの文字列を、ミハルの大脳は律儀に読み解き、その規範に合わせて自身の意識を再構築した。

 現実に意味をなしえないはずのテクストが、現実に存在しえないはずの〈ミハル〉を誕生させた。

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