第8話 カンティック・ジャンクション(2119年)

「よし。入れ」

 男に促されて、扉をくぐる。

 視界に入るのは、見覚えのある白い壁の部屋だ。中央には、部屋を分断する分厚いガラスの壁。その向こうに、テルマが椅子に座ってこちらを見ている。

 ミハルを――〈私〉を――部屋に入れた男が、背後で扉を閉める音がした。

 部屋には、ガラスを挟んでミハルとテルマだけが残った。

 ミハルはガラスの前に置かれた椅子に座る。

「久しぶりだなミハル。ちょっとやつれたな。お前みたいな根が神経質な奴には、やっぱり刑務所は堪えると見える」

 テルマは場の緊張など介さずに陽気な声で言う。

「お前は、相変わらずだなテルマ」ミハルが言う。「スタッフのみんなは元気か?」

「ああ。結局、アレはお前の単独犯だったっていうことになったからな。職を失った奴もいないし、今もあの研究所で働いているよ。まあでも、みんなお前のことは心配している」

「そうか。迷惑をかけて悪い」とミハルはテルマに頭を下げる。

「おいおい、そういうのはよしてくれ。……しかし、なんというか、お前は、少なくとも俺とは違って、もっと社会と上手く折り合いをつけていく人間だと思っていたんだが……いや、人間の本性というか、根底にある気性みたいなものはどんなに親密な間柄でもわからないものか……」

「僕からすれば、お前の方が僕よりずっと社会に上手く適合しているように思えるけどな」

「俺は……」少しだけテルマの目の色が変わった。〈私〉には彼が言おうとしていることが想像できた。彼も苦しんでいるということなのだろう。それがいかに自分勝手な苦しみだとしても。「……いや、なんでもない」結局、彼は自分の秘密を口にしなかった。

「それよりも、お前の話だよミハル。一体全体、なんであんな大それたことをしようとしたんだ? 普通、わかるだろ? 日本語パラ憲法キュトスを私的に改訂しようなんて、そんなこと計画すれば、こういう結末にたどり着くってことがさ」

「報道ではなんて書かれているんだ?」とミハルが言う。

「劇場型テロリストとかなんとか。良くも悪くも、お前がやったことは成否に関係なく世界史に名前が残ってもおかしくない犯罪だったからな」

「大体そんなところだよ」

「茶化すなよ」テルマが真剣な面持ちで言う。「俺は、お前の口から、お前の言葉で聞きたいんだ」

〈私〉は奇妙な感覚に襲われている。これでは、あの時の、テルマの告白を聞いた状況の真逆の再演だ。

 一体、ここにいる二人は、〈私〉の知る二人と、どのくらい同じで、どのくらい違う存在なのか。

「…………僕の母親は」

 ミハルは、自分の言葉をひとつひとつ耳で確認するように、ゆっくりと喋り始めた。

「あの戦争で死んだんだ」

「……ああ、それは聞いたことがあるな。それで? ……いや」何かに気づいたようにテルマが口をはさむ。「いや、ちょっとまってくれ。お前は、まさかそのために? 世界そのものを改訂しようとしたのか? 嘘だろ? どれだけピュアなんだよ……参ったな……」

「…………」

 ミハルは無言で、その言葉を肯定した。テルマが椅子の背にのけぞりかえり、天を仰ぐ。

「戦争で亡くなった自分の母親を救うために、過去を変えようとしたのか……」

「…………そうだ」

 ミハルは低い声でそう言った。その声には、後悔も反省も少しも混じっていないことが〈私〉にはわかる。再び、〈私〉の知らないミハルの計画の動機が語られている。〈私〉はけれど、以前のような驚きは少なくなっている。奇妙な納得感があった。〈私ならやりかねない〉と感じるのだ。同時に、これまで自分がその動機を持たなかったことのほうが不自然にすら感じた。

 世界を救う。

 友を救う。

 母親を救う。

 上手くこの感情を表現する言葉が見つからないが、私ならそのくらいやりかねない。無論〈私〉も同じことをやるかもしれない。

「パラ憲法改竄未遂で無期懲役。動機は、死んだ母親を生き返らせるため、か」ミハルは突然笑い出す。「はははは! お前らしいな! 三つ子の魂百までってやつかもな!」

 テルマは胸につかえたものが抜け落ちたように、先ほどと比べて明るい表情を浮かべている。

「俺に理解不能な高度な思想犯罪だったら、どうコメントすべきかっていうことをずっと考えながらここに来たわけだが……とんだ取り越し苦労だったようだ! お前がお前らしい生き方を変えていないなら、親友としてはまあ嬉しいさ。残りの人生でお前との雑談をする時間が短くなったのは、心底残念だけどな」

「悪いな。だが反省はあまりしていないんだ」

 ミハルが言うと、テルマはさらに声を上げて笑った。

「だろうな!」

 ひとしきり笑い終えると、テルマは涙目をこすりながら、ミハルを見つめた。

「けど水臭いもんだな。俺にだけは、言ってくれてもよかったんじゃないのかよ」

「実を言えば少しだけ検討した」とミハルは言う。「だが、言ったところで、お前は僕を密告しなかっただろうし、かといって僕の決心を変えることもできなかったと思うからな。それじゃあ、ただお前まで共犯になるリスクを負うだけだろ。だとすれば、話すわけがない」

「ああ、確かにな。そうかもしれん」

〈私〉は不思議な心持ちで二人の会話を聞いている。立場が逆転した二人は、結局のところあの時間の二人と同じような話をしている。奇妙だが、〈ミハル〉としては変わらぬ友情がうれしいし、同時にこの場にいるのが〈私〉ではなく私なのが少しだけ残念だ。

 改訂前の世界で、〈私〉がもっと腹を割ってテルマに向き合っていたら、〈私〉のいた時間でもこんな会話が楽しめたのだろうか。

「それで」テルマが言う。「お前、今の正直な気持ち、っていうのはないのか? 外に残した未練とか、そういうのが。家族がもういないのは知っているけど、それでも何かあるんじゃないか? この際だ。話せることはすべて話しておけよ」

 ミハルは少しだけ思案気に眉を寄せていたが、すぐに「いや、実のところ、特にはないんだ」と答えた。

「本当にか?」

「ああ。というのも、僕の計画は実のところ、成功している気もしているんだ」とミハルが言う。

〈私〉には、ミハルの言わんとしていることがわかる。

「どういうことだよ?」テルマが訊ねる。

「僕が考えた計画は、その実行を本気で決心したときに、もう始まっていて、そして既に終わっているんじゃないかと考えることがある」

 テルマは無言で続きを促している。ミハルは言葉を続ける。

「僕は日本語パラ憲法キュトスを利用して、現在と過去と未来の意識を接続しようとした。最初は、それは単純に過去を変えるためだった。脳が時制の壊れた言語に合わせて無理やり意識の在り方を変えるとすれば、脳が生み出す意識は現在だけでなく過去や未来の意識に調整される。僕は最初、このことを一つの時間軸で捉えていた。でも仮に、脳が意識を調整する際に取り込んだ言語のバグが、時制だけじゃなくて、仮定法も含むとすれば、意識は並行世界にも飛んでいくかもしれない」

「並行世界論。なるほど。その仮説がもし正しいとすれば、この世界ではない別の世界のミハルが、既に計画を達成しているかもしれない、と」

 ミハルは頷く。

「だとすれば、僕はもう既に、誰かを救ったはずだ。それは僕の母親ではないかもしれないけれど、きっと、別の僕が救いたいと強く願った相手には違いない。なら、それはそれで、僕は満足だ」

「案外、この俺たちの時間を見ている意識の〈ミハル〉もいるかもしれないな」

 テルマの鋭い冗談を受けて、この日初めて、ミハルは楽しそうに笑った。

 二人の会話を聞きながら、〈私〉は少しずつ、自分のやるべきことが明確になっていくような気がした。並行世界の入り混じった、〈私〉の生きるこの輻輳的時間が流れるカントカンティック・ジャンクションに、他ならぬこの〈私〉がいる理由。

 それはとても単純なことなのかもしれない。

『次』へと、〈私〉は飛んだ。

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