第6話 テルマ(2119年)

 ミハルは狭い部屋で椅子に座っている。

 白い壁に囲まれた部屋。彼の正面には、部屋を二つに分断する分厚いガラスがある。会話ができるよう、壁には幾つかの小さな穴があけられている。

 さほど長い時間を待たずに、壁向こうの扉が開いた。刑務官と思しき男に連れられるように、一人の男が部屋に入った。その男はミハルの正面にある椅子に座った。二人は壁越しに対面する。

 その男はテルマだった。

「ひさしぶりだなテルマ。少しやつれたか?」

「どうかな。長く鏡を見ていないから自分ではなんともわからないな。ああ、でも健康ではあるよ。食事も運動も、ここでは困らないからな」

 ミハルとテルマが会話をしている。しかし、ミハルは〈私〉のはずだ! だがこのミハルは〈私〉ではない!

 身体をもったミハルと、意識だけの〈ミハル〉である〈私〉がいる。〈私〉はミハルに話しかけてみるが、〈一回目の星〉に話しかけた時のように、ミハルは〈私〉の言葉に気づかない。

「結局、終身刑だってな」

「日本語パラ憲法キュトスに準じる法律では、死刑は禁止されているからな。安楽死には周囲の人間の同意書が必要だが、囚人にその権利は認められていない。こればっかりは仕方ないさ」

 テルマは相手から目線を少しそらしながら、自嘲気味に笑う。〈私〉の知るテルマの所作だ。

 どういうことだ。ここは刑務所の面会室なのか? テルマが終身刑で収監されている? 一体なぜ?

「なぜ、と聞いていいか?」とミハルが言う。

「お前とは長い付き合いだけど、ちゃんと話したことはなかったもんな」テルマは笑みを浮かべて言う。「きっと報道で言われている通りだと思うぜ」

「僕はお前の口から聞きたいんだ」

 テルマは数秒だけ目をつむって「どう説明したものかな……」とつぶやく。そして目を開くと、彼は語り始めた。

「理解できないと思うが、俺は人を殺すのが好きなんだ。ナイフを人体に差し込む感覚や、頸動脈を絞めていくうちに力弱くなる瀕死の人間の抵抗が好きだ。世間的には病気とか、サイコパスとか、そういう類のアレだよ。それで、そういう行為をした後、数年間は調子がとてもいいんだ。博士号を取るための数年間、最初にやったことは一人暮らしの学友を刺殺して山に埋めることだった。アレのおかげで俺は博士号が取れたみたいなものだ。他にも似たような動機で人を殺した。とにかく人を殺すと、社会の内側で活躍できるんだ。みんなが俺の仕事を評価してくれて、その期待に応えるために俺は人を殺した。そうやって俺は社会に順応した。あべこべの話だけどな。人を殺さなかったら、俺はたぶん社会に適合できなくて自殺していたはずだよ。その方が、よっぽどマシな人生だったのかもしれないけどな」

「…………」

〈…………〉

 知らなかった。そんな話は初耳だ。ミハルも〈私〉と同じように初めて聞かされる話のようだ。テルマに、〈私〉の知らないそんな悪の一面があったなんて。

 だがしかし、疑問も浮かぶ。

〈私〉の目の前にいる人物は、本当に〈私〉の知るテルマなのだろうか?

 繰り返す時間跳躍の中で、星が私の知る星ではないことがあったように、このテルマも私の知るテルマとは別のテルマなのかもしれない。

 少なくとも、パラ憲法改訂以前に、こんな事件があったという記憶は〈私〉にはない。

「どうして相談してくれなかったんだ?」とミハルが言う。

「お前に? 冗談だろ。正義心の塊みたいなお前に背負える話じゃない。というより、お前は自分の良心を制御しきれないところがあるからな。こんな話を知ったら、お前は苦悩に苦悩を重ねて、果てに自分だけ自殺するかもしれん。そう思ったから、お前には言えなかった。逆に俺を告発しようとしたら、俺はお前を殺すしかなかった。ほらみろ。どっちにしろお前が死んで、俺が生き残るシナリオになる。それがわかってて、お前に話すわけがないだろ」

「矛盾してるだろ。お前がそんなに僕の命を重く見ているなら、簡単に僕を殺したりなんてしないはずだ」

「それは誤解だ。俺にとってはお前の命も、見ず知らずの他人の命も等しく軽いよ。普通、人は豚を食べる時に、その命のことを重たく考えないだろう。考えていたら生活が成り立たない。それと同じだよ。俺が社会で生活を成り立たせるためには、人間の命を重たく考えたりする余裕はないんだ。教師に教わった通りに、社会で役に立つ人間になるためには人を殺す必要があったし、日本語パラ憲法キュトスの規範通りに他者を尊重するためにも、やっぱり人を殺す必要があった。まあ、後者については、バグとしか言いようがないな。パラ憲法も完璧じゃない。すべての人間を包摂することはできない。あと、お前を殺さなかった理由だけどな、お前の命は別にどうでもいんだけど、親友がいなくなるのは少し寂しいからな。それだけだよ」

 二人の間に、いや正確には私を含めた三人の間に、沈黙が降りた。

 パラ憲法のバグ。それは確かに存在する。同質の倫理規範を共有しても、犯罪自体は社会からなくなるわけではなかった。とはいえその数は21世紀に比べれば劇的に減少している。そして同時に、テルマのような反社会的な嗜好が人格や人生と深く結びついてしまった人間は、やはり社会のなかで破滅していくことがほとんどだった。

「……黙ってたら時間がもったいないぞ。ほら、久しぶりの面会に期待してやってきた俺を楽しませるようないい話はないのか?」

 テルマは軽い調子でそう言う。彼の口調には、先ほどからずっと重々しさというものがない。まるで遅刻癖を自嘲気味に告白する程度の深刻さだ。

「……なあ、テルマ。お前には、今望んでいることはないのか?」

「あー、ほらほら。そういうところだよ。お前の悪い癖は。目の前にある理不尽がどうしても許せない。〈良いこと〉に固執している。お前だけ、日本語パラ憲法キュトスの強度が大戦前と変わってないんじゃないのか? お前の正義感は、お前の本来の良心から生まれたものじゃなくて、お前の脳に刻まれた量子の痕跡から生まれてるんじゃないのか?」

「現代じゃ、それはほとんど等しいものだろ」

 テルマの軽口を流し、ミハルはもう一度先ほどの質問を繰り返した。

「今望んでいることはないのか?」

 テルマは変わらぬ友人の性根が愉快なのか、にやけた口元を片手で抑えながら「そうさな……この社会からいなくなれたら、それが一番いいな」と言った。

「死にたい、じゃなくてか?」とミハルが言う。

「どっちでもいいんだが、でも今の社会じゃ俺は死刑も安楽死も望めない。檻のなかで低度の健康をすり減らしながら死ぬのを待つしかない。その長い時間が嫌なんだ。ここじゃ人も殺せない。人を殺さないと、俺には社会での居場所がない。死ねるなら死にたい。でもどうせなら、いまいち俺の人生と噛み合ってくれないこの社会から消えたいね」

 そんなことがかなうわけもない。そう思いかけて、〈私〉は気づいた。〈私〉なら、彼の願いを叶えることができることに。

 ミハルもきっと、同じことを考えている。このミハルが、〈私〉の知る〈ミハル〉と同じなら。

「その願い、僕なら実現できるよ」とミハルは言う。

 そしてミハルは、言語と脳の関係を研究するうちに、パラ憲法改訂による時間跳躍が可能であることに気づいたことをテルマに話した。ミハルの語る理論は、〈私〉の知るものと同一だ。ただし、彼は第三次世界大戦の回避を計画しているわけではないようだった。そこは彼と〈私〉の差異だった。

「……驚いたな。下手すればお前の方が俺より重罪なんじゃないか? そもそも、本当に実現可能なのか? ぶっつけ本番で、思わぬ失敗をするかもしれない」

「賭けにはなるけど、試してみる価値はある」

「わからないな」テルマは笑みを消して、真剣な面持ちで言う。「親友だからといって、そんな国際的犯罪を犯す必要が本当にあるのか? お前はやっぱり、倫理と必然性を混同しているんじゃないか? その二つは違うものだ。わかってるのか?」

 その言葉は〈私〉にも向けられているように感じられた。

「僕はもう決めたよ。過去を変えて、お前の存在を消す」

 ミハルの言葉に、テルマは諦めたような笑みを浮かべた。

「それに」とミハルは続ける。「僕がこれから実行する計画が上手くいくのなら、変な話だが、既にお前はこの社会から消えているんだ」

「その通りだ。でも俺はまだここにいる。これは失敗なのか? それとも矛盾なのか?」

「それをこれから確かめるんだ。まずは、テルマの家系を調べよう。お前の先祖の系譜をどこかで断てば、お前はこの世界に生まれてくることすらなくなる」

 その言葉が引き金となったように、〈私〉の意識が〈私〉の知らないはずの情報にアクセスする。テルマの祖先の一人は、風間星だ。彼がある女性と結婚し子供を産み、その家系が伸びていきテルマへとつながっている。だが、もしも真下名花が2019年で死亡しなかったら、星と名花は結婚することになり、テルマへと続く家系は生まれなくなる。

 真下名花を救うことが、テルマを救うことになる。

〈私〉は再び、2019年の風間星に意識の焦点を合わせる。意識がミハルを離れ、『次』へと飛んだ。

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