第4話 失敗(2019年)
名花の住居はエントランスにオートロック扉があるマンションの二階で、星がインターホンで呼び出すとすぐに応答が返ってきた。星はもちろん何度も訪ねているので、迷いなく彼女の部屋にやって来る。
「おはよー。とりあえず入って」
部屋着のまま星を出迎えた名花は、眠たそうな声で星を招いた。
「で、話ってなに? 八時には出勤しないとまずいんだけど」
彼女は時計を見て言った。時刻は午前七時だ。
〈うまく説得して、彼女を家から出ないようにするんだ〉
「わかってるよ」
「? 何か言った?」
小声でもらした星の言葉に、名花が反応する。星は首をふってなんでもないとごまかす。
星が名花を説得するために考えた設定はこうだった。突然、田舎の母親がこちらにやって来ることになり、ついては今お付き合いしている相手の顔を見たい。どうにかセッティングしてくれないか、というものだ。
「それ、仕事終わった後じゃダメなの?」と名花が訊ねる。
「それが、日帰りの予定で飛行機のチケットを買っちゃったらしくて、夜まではこっちにいられないらしいんだよ。次におふくろが出てくるのなんていつになるかわからないし、そしたら俺たちが広島に行かない限り挨拶もできないじゃん。だから俺としてもこの機会を逃したくないんだよ」
「まあ、君が私を紹介してくれるのはうれしいけどさ……」
名花は少し悩んだ末に、星の頼みを飲んでくれた。勿論、星の母親が来ることはない。それでも、事故の起きる時間まで名花を家に引き留めることができるのであれば、あとのことはうまく言い逃れればいい。急な予定の変更で、挨拶の時間がとれなかったとか。
あと五時間をやり過ごせば、歴史は変わるはずだ。
〈…………?〉
〈私〉は自分の意識が深いところから戻ってくるのを感じる。直前までの記憶が曖昧だ。どういうことか?
「……あれ、名花?」
星のぼんやりとした声が部屋に響く。
どうやら、星は眠っていたらしい。
そういえば、仕事を休んだ名花と星は暇をつぶすために雑談をしていたが、どうせ時間があるならと、PCで映画を観始めたのだった。今朝仕事をしていた星は、いつもなら寝ている時間に映画などを観たものだから、睡魔に勝てず寝落ちしていたようだ。
星の意識がなくなると、〈私〉の意識も同様に働かなくなるらしい。それはともかく、問題は部屋の中に名花の姿が見当たらないことだ。
〈名花はどこだ?〉
「さっきまで隣にいたはずだけど……」
PC画面の映画はすでに再生が終わっている。
星のスマホが鳴動する。通知を確認すると、名花からLineでメッセージが届いていた。
『ちょっと近くのコンビニまで買い物に行ってます。何か欲しいものあったら返信してください。でもまだ寝てるかな?』
〈星。まずい。追いかけよう〉
「わかってる……時間は?」
〈午前十一時五十五分……非常にまずいぞ〉
「でも、事故現場は職場の近くなんだろう? だったら、大丈夫だよな?」
不安げにつぶやく星の言葉に、〈私〉は〈わからない〉と答える。
〈パラ憲法の改訂による時間移動が、現実にどのような影響を与えるのかは、私にもすべてがわかっているわけではない〉
「肝心なところで頼りがいがない!」
叫んで、星はすぐに玄関から飛び出る。
マンションのエントランスの自動扉が開くのにも焦燥感を覚える。マンションから走りでて、彼の足が止まる。
「コンビニって、どこのだよ……」
〈最寄りの店じゃないのか?〉
「二軒あるんだよ……迷ってる暇はないな。勘頼みだ」
再び星は走り出したが、道中でも、コンビニの店内にも名花の姿は見つからなかった。舌打ちする間も惜しいくらいに、星はもう一軒のコンビニへと駆けた。
〈私〉は嫌な予感がぬぐえなかった。その不安は星にも伝わっているようだ。
「あの十字路を曲がったらそこがコンビニなんだけど……」
星の言葉通りに、道を曲がった先にはコンビニの看板が見えた。
そして、その店の目の前には人だかりができている。
〈私〉は失敗を悟った。
星が駆け付けると、電柱にぶつかってフロントが破砕した車と、人だかりに囲まれるように、道の真ん中で不自然に停車する車が目に入る。
果たして、名花はそこにいた。
車の影になって星の位置からは彼女の顔が見えないが、地面に倒れ伏した彼女の両足が赤黒い池に沈んでいる様子ははっきりと見えた。
「名花! 畜生! どうして……!」
〈……すまない、星。私は、やはり失敗してしまった〉
「…………何言ってるんだ? 今から救急車を呼べば、きっと……」
星はまだ倒れた彼女に近づけず、顔を確認できない。それでも、視界に入る彼女の靴は、彼が見慣れた靴の記憶と一致している。
〈すまない。こうなった以上、私は『次』へ行かなくてはいけない〉
「悪い、話ならあとで……とにかく、救急車を呼ばないと……」
震える指先で、スマホを操作しながら、ゆっくりと一歩ずつ、彼は彼女に近づいていく。
すまない、と。
彼にも聞こえない思いをつぶやき、私は意識の焦点を再び数時間前の風間星に向ける。
星と名花には一度きりの時間しか与えられていないが、今の私は何度でもこの時間をやり直すことができる。この今からさかのぼって過去の風間星の大脳側頭頭頂接合部に戻る。意識のみの私はこの記憶を引き継いだまま、時間を戻ることができる。
彼のカント野から、私の意識が少しずつ離れていくことが不思議と実感できる。彼は私を幽霊みたいだと言ったが、確かに、私は生者に憑りつく悪霊のようでもあった。
彼の言葉が徐々に遠ざかり、私の意識が『次』へ飛ぶ。
次こそは、〈良いこと〉を成すために。
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