第2話 君思う、故に我あり(2019年)

 風間星かざま せいは周囲の人間に比べて勘の良いところがあったが、この日の感覚は少し異様なほどに冴えていた。彼がそのことに違和感を持っていることがわかる。

 新聞配達の労働は早朝に行う。当然ながら車の往来は少ない。ビルや住宅に青みがかった風景を、彼はいつも通りの最短配達ルートをバイクで走行している。やはり人も車もほとんど見かけない。ところが、いつも目にしている十字路の速度制限標識が、彼には「左折せよ」というメッセージに見えた。つまり〈私〉が彼の意識のなかでそう囁いたのだが、まだ彼は〈私〉の言葉をうまく聞くことができない。彼には標識の「40」という数字の「4」の左に突き出ている形が矢印のように見えた、という感覚しかない。

「…………」

 訝しみながらも、彼はその感覚に従って普段は直進する十字路を左折した。配達を終えた帰り道にその道の近くを通った時、普段の配達ルート上でトラック同士の衝突事故の現場を彼は見た。彼は直感的に、もしいつも通りのルートを使っていたら、自分はあの事故に巻き込まれていたことを理解した。それも〈私〉が囁いて伝えたことだ。〈私〉の知る改訂前の歴史では、彼はその事故に巻き込まれ全治二ヵ月の怪我を負い入院するはずだった。彼が病院へ搬送され、ベッドで目を覚ますまでの間に、真下名花ました めいかもまた交通事故に遭い、こちらは死亡する。

〈私〉は名花の命を救うために、星に幾度も声をかけるが、なかなか意思疎通はできない。

 時間はあまりない。現在は午前五時半。名花が事故に遭うのは午後零時十三分。後六時間四十三分だ。

 配達の仕事を終えて帰宅した星は、そのまま就寝するのが日課だった。しかし今日は寝てもらっては困る。〈私〉は彼に名花の事故の時間を教える。彼は自分が脱ぎ散らかした靴が、時計の長針と短針のように見える。左右の靴が示しいてる時刻は午前零時十三分。彼はその時計を読む向きも、午前か午後かの判別も無意識にできている。〈私〉が囁いているからだが。

〈私〉の言葉は少しずつ彼の脳に馴染んでくる。最初は、暗号のようにしか受け取れていなかったのが、段々と言葉に近づいていく。

 時間がない、と〈私〉は囁く。

 星は部屋の時計の電池が切れていることに気づき、根拠のない焦燥感を覚える。

 寝てはいけない、と〈私〉は囁く。

 星は乱れた布団と枕を見て、寝る気を失くす。

 名花のところに行け、と〈私〉は囁く。

 星はカレンダーの花の写真を見て、名花のことを連想する。

 彼は部屋にいると落ち着かず、携帯灰皿を持ってアパートの外へ出た。煙を吐き出した時、彼は驚く。煙の形が、人の顔のような形に見えたからだ。

〈……今、…………電話をかけて、…………いけない〉

「!?」

 彼には煙の顔が自分に語り掛けてきたように感じたが、それは彼の脳が彼にそう感じさせているに過ぎない。ようやく彼に直接〈私〉の言葉が届き始める。

〈……か?〉

「誰だ?」

 彼はつぶやく。

〈……ない。……に電話をかけて、……止めないといけない〉

「……どっから話しかけているんだ?」

 彼が自分に話しかけている存在を認めたことで、〈私〉の言葉が彼の脳内で鮮明になる。

〈私の言葉に耳を傾け、私の言葉を信じてほしい。君が今朝、事故に遭わなかったのは偶然ではない。私が君に事故を教えたからだ〉

「…………」

 彼は自分が疲れていると判断する。幻聴はそのためだと。そうでないことを〈私〉は伝えなくてはいけない。

〈今、右手の道から犬を連れた女性が歩いてきているな。十秒後に、その女性は大きなくしゃみをする。その拍子に、彼女はリードを手放し、犬が走り出す。その犬を追いかけて、彼女は「こら! 勝手に行かない! アル!」と叫びながら、君の目の前を通り過ぎる〉

「…………」

 彼が右手を向くと、実際に犬を連れた女性が歩いている。そして〈私〉の言った通りのタイミングで、〈私〉の言葉通りの出来事が起こる。彼は茫然とそれを見ている。

「…………」

〈私は君の妄想でも幻聴でもない〉

「……ちょっと待ってくれ。よくわからない……」

 彼は煙草の煙を一度大きく吹き出した。たったそれだけの行為で、自分の心が落ち着いていくことが彼には実感できた。

「お前は誰なんだ? 俺の妄想でも幻聴でもないって、なんで言える?」

〈もうすでに君はそのことを理解しかけているはずだ〉

「……そう、だな。いや、違和感は確かにあるんだけど、段々、お前の存在が疑えなくなってきた気がする」

〈私の意識と、君の意識のつながりが強くなってきたからだ。私の意識と言葉は、君の脳に間借りして存在している。だから君は、自分の脳が感じさせる私の言葉に徐々に実感を覚えている〉

「自分の脳が考えていることだから、こんなにリアリティが感じられるっていうことか?」

〈そうだ。『君思う、故に我あり』だな〉

 彼の持っていた煙草はいつの間にか燃え尽きている。それを携帯灰皿に入れると、彼は自分の部屋に戻ることにした。

「ちょっと落ち着いて話そう。コーヒーでも淹れるから、ちょっと待ってくれ」

〈いいだろう。ただし時間は残りすくない。あまりゆっくりはしていられないぞ〉

「なんの時間だ?」

〈君の恋人の真下名花を救うための時間だ〉


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