カンティック・ジャンクション

遠野よあけ

第1話 パラ憲法改訂(2119年)

 これから行う計画が成功したならば、既に誰かが救われている。

 おかしな話だが、ミハルの企みはいわばそのパラドクスの証明に他ならない。

「ミハル所長、作業前確認全てOKです。予定時間より作業開始可能です」

「わかった」

 スタッフの声に応えてミハルは自分のホロ端末を開く。自分の眼でも〈改訂機〉の状態に問題がないことを確認する。そして改定作業で使用するプログラムを自作のものに置き換える。最終確認が完了した今、そのイレギュラーに気づく者は誰もいない。現場責任者であるミハル以外には。

 ミハルはこの役職に就くために、二十年を要した。数学者から転向し、言語学者の地位を得て、特に言語と脳の関係については世界的権威となった。その後、計画を実行する機会は意外に早くやってきた。パラ憲法の施行以来、初となるパラ憲法の改訂である。勿論、改訂実施の是非を問う憲民投票の結果が望む形に落ち着くよう、入念に政治的な根回しも怠らなかった。

 悲願の成就がついに近づいている。胸の奥が震える感覚を覚える。

 スタッフの一人が、ミハルに視線を向けた。

 そのサインに応えるように、ミハルは言った。

「改訂作業開始」

 テストと同様の工程確認、実機作業、進捗確認を経て、パラ憲法の改訂作業が進む。

 2101年に三つに縮小されたパラ憲法のうち、今回改訂が行われるのは日本語パラ憲法キュトスだ。改訂作業は、まず日本語で書かれたパラ憲法のテクストを量子コンピュータのプログラムで量子ビットに変換して圧縮する。そのデータが光データ、古典ビットなどの変換過程を経由しつつ、全世界の日本語パラ憲法キュトス使用者の脳に埋め込まれたスマートナノマシンへと伝送される。スマートナノマシンは、送られてきた圧縮データを解凍し、量子ビットに刻まれた倫理規範を直接使用者の脳に書き込んでいく。作業完了までにかかる見込み時間はわずか三時間だ。三時間後には、世界が変わっている。

 改訂作業は順調に進んでいる。既に、テクストの量子ビット変換は完了した。誰もミハルの企みを察知することはなかった。

 あと、三時間か。

 ミハルのプログラムは、テクストの倫理規範の内容を書き換えるものではない。ただ、日本語の持つ時制をずらし、現在と過去と未来の区別を壊しただけだ。「他者は自由である」という言葉が「既に他者が自由であり続け終えた」となり、「私の半分は目の前の他者である」という言葉が「私の半分が過去の他者になりだった」となる。壊れた日本語であるが、この時制的ノイズを使用者の脳は無理やり調整して自身に取り込む。その際に、脳は規範であるテクストの内容ではなく、自身の現実認識の方を修正する。脳が現在と過去と未来の区別をやめることになる。ミハルが学会に発表もせずに密かに進めていた研究が正しければ、この脳の修正が、人間の意識を過去あるいは未来へと接続させるはずだ。ミハルの目的は2019年に干渉することだった。おそらく改訂後、ミハルの意識は過去にも未来にも接続されるはずだが、意識の焦点を2019年に合わせることで任意の時代に意識を移動させることが可能であるとミハルは考えている。

「順調だな」

 同僚のテルマがミハルに声をかけた。

「ああ」

「無事に終えたら酒蔵のワインを空にするまで全員で騒ごうじゃないか。いいだろう、最高責任者殿?」

「残念ながら僕は少なくとも三日間はほとんど寝ずの番だよ。改訂後に不測の事態が起きないとも限らないからな」

 テルマは学生時代からの旧知の仲だった。脳科学の専門家であり、研究分野を変えたミハルの活動を大いに助けてくていた。

 ミハルはふと、テルマと初めて出会った頃の記憶が、リアルな映像として目の前に迫ってくるような錯覚を覚えた。ふと見ると、テルマが額に手を当てて笑っている。

「まだ一滴も入れてないっていうのに、立ち眩みがした。歴史的瞬間に立ち会った感動が思ったよりも大きいのかもしれん」

「疲れだろう。スタッフ全員、ここのところ作業で忙殺されていたからな」

 手元のホロ端末で作業進捗を確認すると、既に世界中のスマートナノマシンへのデータ転送が始まっていた。世界が改訂されようとしている。

 後悔はない。自分は自分が思う〈良いこと〉のためにこの計画を始めた。

「お前もひどい顔だな。少し一服でもしてきたらどうだ? 作業は順調だし、少し席を外すくらいは大丈夫だろう」

 テルマの勧めにミハルは頷いた。次に自分の身体で煙草を吸えるのがいつになるのか、ミハルには想像もつかない。「何かあれば連絡をくれ」と言って、ミハルはタバコを吸いに喫煙室へ行こうと思い扉を開け、部屋を一歩出たところでミハルの意識は飛んだ。

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