第1話 嵐の夜
幾筋もの稲妻が、天と別たれた大地に歪な手を伸ばす、嵐の夜の事だった。
矢のような雨が大地を穿ち、か細い枝々が人々の閉じこもる家の窓や屋根を笑うように引っ掻き、風に吹かれて髪の長い狂女のように身を引きしぼる木々が、ギイギイギシギシと耳障りな音を立てる。人々は家の戸を固く閉ざし、悪魔の手先のような嵐が過ぎ去るのを、じっと待っていた。
それは、村はずれの黒い森の中に建つ、城の主も同様だった。
かつて、この地を守るために建てられたという、要塞としての機能も兼ねた無骨な外観の城。城を構成する石は所々崩れ落ち、何処からか飛んできた草の種が芽吹いて、くすんだ灰色をした外壁を緩やかに侵食している。
何百年も前に廃棄されたこの城の、名を知る者は誰もいない。ひょっとすると、どこかの書物に記録が残っているのかもしれないが、わざわざ膨大な資料の山に当たって、この城を調べようとする者もいなかった。
しかし、人々の記憶からも、歴史の本流からも忘れ去られてなお、黒い森を隠蓑として長い歳月を重ね続けるこの城には、主がいた。いつからかこの城に居着いた、たった一人の住人。それが、この誰も知らない城の城主。その城主は今、城内の安全な部屋の中で安楽椅子に身を沈め、窓を叩く雨音と雷の音に耳をすませている。
部屋の扉に背を向けて置かれた、大きな大きな安楽椅子に、すっぽりおさまった城主のその体は、椅子の大きさと不釣り合いなほど小さく華奢なものだった。それを少しでも隠すように、体は豪奢なフリルが幾重もあしらわれた、黒いドレスに包まれている。ドレスには黒以外の色が一切使われておらず、フリルもリボンも頑ななまでに黒一色。ふんわり広がったスカートの先から覗く、足を覆うブーツすら黒だった。わずかに覗いた襟元からは、黒衣とは対照的に、病的なまでに白い肌が覗いている。浮き出た鎖骨から上は、優美な線を描く細い首筋。その上には、随分と無表情ではあるが愛らしい少女の顔がのっていた。
それは、精緻な等身大の人形かと見紛うような顔立ちだった。白く無機質で、生きた人間のそれではない。顔の造形は恐ろしく整っていて、人形の愛好家なら垂涎ものの美しい人形。もちろん、彼女は人形ではない。生きている人間だ。その証拠に、息をするたび胸元がわずかに上下し、血の色をした目はまばたきを繰り返している。
不意に、少女のいる部屋の扉が、彼女の背後で耳障りな音を立てて開いた。この城に住む者は、この黒衣の少女ただ一人だったが、時折こうして訪ねて来る者がある。
少女は振り向きもせずに「クロヴィスか」とだけ声を発した。同年代の少女のそれよりも低く重々しい声だった。
「ええ。クロヴィスですよ」
扉を開けて少女のいる部屋に入ってきたのは、上品な夜の礼装姿の背の高い男だった。目深にかぶったシルクハットの鍔を、白手袋をつけた手でぐいっと回す。目元は隠れて見えないが、まだ若そうな男だ。彼の声は、人を魅了するような、美しい声をしていた。
「今宵はとっておきの情報をお持ちしました。ぜひあなたに伝えたいと思いまして」
「なんだ」
返事はしたものの、少女は尚も振り返らない。
ちょうどその時、轟音と共に稲妻が空を走り、明かりの灯されていない暗い室内が、一瞬だけだが昼間のように明るくなった。稲妻の光に、二人の黒い影が床に投げかけられ、シルクハットから溢れた男の黒髪が、怪しげに照らされる。嵐の中この城に訪れたというのに、男の髪は乾いていた。
男はコツコツと革のブーツを鳴らして、少女の座る安楽椅子の横まで歩いてきた。そして体をくの字に曲げて、少女の耳元へそっと何かを囁く。すると、今まで何の感情も映し出さなかった虚な暗赤色の目が、驚いたように見開かれた。薄桃色の唇がハッと開き、吐息をこぼす。
男はその反応を楽しむかのように口角を上げて微笑むと、さっと椅子の後ろへ引き下がる。
「クロヴィス」
少女は男の名を呼んだ。
「なんでしょう」
男はまた口角を吊り上げる。上品な礼装とその声に似合わぬ品のない笑みだった。
「それは本当か」
「ええ、嘘は、つきませんよ」
決して、と男は囁き、人差し指を立てて自分の唇に押し当てる。
少女はふん、と鼻を鳴らした。
「そうか。なら、良い」
そう言ったきり、少女は黙した。何かを考えているようだった。男は相変わらず品のない笑みを顔に貼り付けたまま、少女の後方に控えている。
しばらくして、唐突に少女が「おい」と低い声を発した。
「貴様、いつまでそこにいる」
男は「おお」とわざとらしく声を上げる。
「すみません。まだ話の続きがあるのかと思いまして」
「話は終わった。帰れ」
少女はようやく男の方を向いた。左右で硬く結ばれた黒い巻き髪が、髪飾りのように揺れる。
少女は男の顔を見て、整った顔を歪めた。嫌悪の表情だった。すぐに前を向き、安楽椅子に体を沈める。
「お前のその下卑た笑み。やはり嫌いだ。帰れ」
「そうですか。それは残念。けれど私は、あなたのこと大好きですよ」
そう言い残し、男は踵を返して扉の方へ向かった。ドアノブを回す音、扉を開く音、閉める音、遠ざかる男の足音を聞いてから、少女は長く息を吐く。
「……私のことが好きなど嘘だろう。なぜなら……」
その続きを、少女は口にしなかった。代わりに安楽椅子から身を起こし、雨に散々叩かれている窓に指を這わせた。黒い格子に区切られ、いくつもの瓶底が並んだような窓の外を、また稲光りが駆け抜ける。光に照らされ、少女の顔が鏡のように窓ガラスに映った。
「……ス」
少女が何事かを囁いた。誰かに話しかけているわけではない。独り言だ。呪いの言葉のようにも聞こえる、厳かな低い声音で、囁く。
「やっとか...」
少女は笑みを浮かべる。品のよい笑みだった。それから肩を揺らした。笑っているのだ。小さな声で、くすくすと。それから、また稲光りで窓ガラスに映り込んだ自分の顔を、少女はそっと撫ぜた。
「もうすぐ、
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