そこは惨状水降る井戸
十四話
つんのめって頭から転ぶ。
けれど少女は猿のような俊敏さで立ち上がると、急いでその場から逃げ出した。
鋭いかぎづめで斬りつけられ、軌跡を描いて散る鮮血が脳裏を過ぎる。あの量では恐らく助からないだろうと少女は冷静に考えた。彼女は走りながら姉の姿を追い求めていた。
常に冷静な彼女ならばきっと無事でいるはず、と思う自分と、もう既にあの男のように血みどろで倒れているのではという不安に取りつかれた自分がいて、まともに息ができないほど混乱していた。
何の前触れもなく部屋に現れたけだものは、色んな動物と人間のごった煮のようなもので、酷く不恰好な様子をしていた。けれど、指のような突起に、赤い宝石のはまった指輪を着けていた。
あの指輪を見たことがあった。確か、自分たちに石を埋め込んだ術士だったように思う。手術されている間、ずっと手元を凝視していたから覚えている。
彼らが追い求めていると言う魔術の深淵というものが何なのか、少女は知らない。興味もない。
ただ深淵というものが、人間に異形と狂気を強いるのであれば、ろくなものではないと思った。
家じゅうが血潮の匂いで溢れている。あのけだものたちが暴れ回ったのだろう、壁には毛と血がこびりついて酷い匂いを放っている。
けれど特段驚くことでもない。姉妹が暮らす部屋はいつもこんな風だった。彼らは自分たちのなり損ないを常に目の前に突き付けられていたからだ。体に輝聖石を受け入れることができず、肉の塊になってしまっていた、なり損ない。
二人はとても上手に魔術を操った。体に埋め込まれた石のせいだと言う。だから、なりそこないを容易く片付けることができた。
だから、血膿の匂いには慣れていた。酸鼻を極める光景を横目に食事をとることも、訓練と称して人ともバケモノともつかぬものを攻撃させられることにも。
体の中に埋め込まれた輝聖石が警告を発しているのが分かる。
ここは安全ではない。
他のことなどどうでも良いのだ。
急いで少女を探さなければ。
*
現場には大量の水が降り注いでいた。
ダンとミルカは呆然とする間もなくびしょ濡れになってしまう。申し訳程度に着てきた雨具など、何の役にも立たない。
二人は、つい先日掘削の始まった、人間とドラゴンの共同掘削リグに来ていた。
虎の子の計画とあって、どの器具も新品同様に輝いている。
そのどれもが濡れていたが。
空には燦燦と太陽が輝いている。水の発生元は雨雲ではなく――。
掘削途中の井戸だった。
しかし問題は水ではない。水の噴出に驚いた一頭のドラゴン――レッド・マディソン種――による事故の方が、二人にとっては重要事項だった。
「確かターヴィの連絡では、レッド・マディソン種が水の噴出に驚いた拍子に、背中に生えた棘を一気に射出し、近くにいた人間やドラゴンを負傷させたということでしたね」
「うん! どこだろう、負傷したドラゴン……!」
「あちらのテントの方でしょう! やぐらが大きい」
駆け出すダン。行きかう人々を影のようにすり抜けてゆく。ミルカはわたわたとそのあとを追った。途中で見失いそうになったので、慌ててその裾を掴んで走った。
黒い艶を持つドラゴンが、何か籠のようなものを背中にくくりつけたまま、蛇のように横をすり抜けていった。同じ種類のドラゴンが何頭も見受けられ、誰も彼も忙しそうに立ち働いていた。
「でも、変だなあ」
「何がですか?」
「水が噴き出すこと自体は別に不思議じゃない。掘削してたらよくあることだし。だけどさ、事故発生から二時間も経ってるのに、まだ水が噴出してるってことは、相当な量の水が地下にあったってことでしょ。探査の段階で分かるはずなんだけどな」
「ここまで水が噴き出すような掘削の仕方はしなかったはずだ、と言いたいのですか」
「そうなんだけど……。ううん、今はそんなの後回しだね」
「見つけました! あそこです」
マギの採掘に必要な器具を並べてある地面の上では、即席のテントが作られ、その下では負傷したドラゴンと人間たちが治療を受けているところだった。ドラゴンたちは鼻づらを怪我したものが多く、ぐおう、うおうと哀れっぽく鳴いている。
手や鼻先を血に汚した一頭のドラゴンが、負傷したドラゴンの横で、苛立ったように足を踏み鳴らした。
「この棘、首の脂肪にしっかり喰い込んじゃってて全然取れない……!」
クラウスに似ている、とミルカは感じた。きっとアーケマイン種の亜種なのだろう。体色は濃い桃色で、クラウスよりもだいぶ小さい。
少しばかり高い声をしているので、女性だろうか。
ダンはそのドラゴンに臆することなく近づいて話しかけた。
「手伝いましょう」
「わ、人間! ありがたいわ、ちょうどその長い腕が必要だったの。この棘を抜きたいんだけど、その前に噴出孔を一時的に焼いて塞がないといけないの。傷口にかかっちゃうからね。切開までは済んでるからもうあとちょっとなんだけど……!」
ダンは素早く負傷したドラゴンの様子を見る。
「極彩色の体色、喉部分にある巨大な袋、緋色の鶏冠……。これは小石(ドリアージュ)種ですね。吐酸種でしょう、噴出孔は顎部分という理解で良いですか」
「詳しいね! そう、噴出孔は顎にある。ここね。ここを焼き塞いで、その間に傷口に腕を突っ込んで、棘を引き抜く」
ミルカはぎょっとして横たわっているドラゴンを見る。そのドラゴンは首が短く、ずんぐりむっくりとしていて、傷口は顔のすぐそばにあった。
桃色のドラゴンの手によって切開されたそこは、金属の器具で押し広げられ、赤黒くぐずぐずと濡れている。
「こ、ここに!? 腕を突っ込むの?」
「だいじょうぶ! 麻酔はしてるし、噴出孔を焼き塞ぐのは、びっくりした拍子に酸を噴出させないようにするためだから」
「魔術は……」
「ドラゴンの体内でも使える魔術文様がないのよ! いや、病院に戻ればあるかもしれないけど、そんな時間はない。レッド・マディソン種の棘は体内で毒を出すから」
うろたえるミルカをよそに、ダンは腕まくりを始めた。
「分かりました。何秒くらい塞いでいられますか」
「三十秒ってとこかな。その間に針を抜かなきゃいけない。あ、そこの火噴き種のドラゴン! ちょっと来て、手伝って」
やってきた細身のドラゴンは、猫のように丸い目でダンとミルカを見つめている。桃色のドラゴンの話を聞くと、シャラシャラと吐息のような音を立てて足踏みをした。
「ええ? 人間に棘取らせるのかって? 当ったり前でしょ、ドラゴンの短い手じゃ届かないんだから。ほら早く、このコテを熱して」
火噴き種は渋々と言った様子で、差し出された鉄の棒を口に含んだ。その狼めいたマズルから、水が沸騰するような音が聞こえてくる。口の端から緑の火がちろちろと覗く。
「言い忘れてた、あたしは花菱。あんたたちは?」
ダンとミルカがそれぞれ名前を名乗ると、花菱は怪訝そうに眼を細めた。
「なんか聞いたことある名前だわね。まあいいや、ミルカはこの鉗子を押さえて傷口を開いていてね。ダンは噴出孔が塞がれたらすぐに棘を抜いてちょうだい」
「おいちょっと待て、どこの馬の骨とも知れない人間に、俺の治療をさせるのかよ!」
弱弱しい声で訴えたのは負傷したドラゴンだ。
助けを求めるように花菱を見ている。
そこで堂々と自己紹介してしまうのが、ダンケルクという男である。
「ご安心を。私たちは木龍葬儀社ワイナミョイネンの者です。どこぞの馬の骨ではありません」
ミルカは信じられない思いでダンの涼しげな顔を見た。案の定、横たわったドラゴンは体をびくんと跳ねさせて狼狽えた。
「そ、葬儀社!? 俺、死ぬのか?なあ、死んじまうのかよ!」
「あのね、ダン、あなたどれだけ鈍感なの? 死ぬかもしれない怪我ドラゴンを前に、よくも葬儀社なんて名乗れるよね」
「では私に嘘をつけと?」
「そうじゃなくてさ、絶対何かもっと別の言い方があったと思うんだよね。そういうとこ融通が利かないっていうか、頭が固いって言うか」
「余計なお世話です」
「冗談じゃねえぞ、俺は人間に治療なんかさせねえからな! おい! どうなってんだ!」
「ああんもう! 他に方法がないの、始めるわよ!」
苛立った花菱は、熱せられた鉄の棒を吐酸種の噴出孔にぎゅうっと押し付ける。
肉の焼ける嫌な臭いが漂い始める。麻酔をかけている上に、噴出孔の周辺には感覚がないので、痛みは感じていないはずだ。
ダンは顔をしかめながら、肉の中に腕を突っ込む。ドラゴンの体温は人よりもかなり高く、火傷しかねない熱さだった。肩の辺りまで腕を埋め込みながら、指先で棘をとらえ、ねばついてなかなか掴めないそれを、爪を立てるようにして掴む。
降り注ぐ水がテントを叩く音が響いている。先ほどよりは弱まっているようだ。
「ダン、十五秒たった」
「分かって、る……あと、少しです」
肉を割り裂かれる違和感にドラゴンが身じろぎする。その体に突き飛ばされながらも、ミルカは懸命に鉗子で肉を押し広げていた。ミルカと体を押し付けあうようにしながら、ダンは棘を指先で手繰るようにして引き寄せ、どうにか抜き取った。
血にぬめるその棘は三十センチほどで、こうして見るとかなり太い。
ほうっと長い息を吐くダンとミルカを、花菱が翼でぐいと強く引き寄せる。一瞬遅れて、二人の立っていた場所に、紫色の酸がぼとぼとと垂れた。塞いでいたはずの噴出孔が元通りになったのだ。
からん、という音を立てて床に落ちる棘。満足げなため息が人間とドラゴンの口からこぼれた。
「よしっ。あとは縫合ね。安心してねお兄さん、傷跡は残らなさそうよ」
花菱がてきぱきと動く。ドラゴンの縫合に糸は使われない。自前の鱗を互いに引っ掛けるように組み合わせて、強制的に傷口を塞いでしまうのだ。
花菱の手つきはかなり熟練していて、微量な出血こそあったものの、あっという間に傷口を閉じてしまった。
「これで問題なし。そこのドラゴン、この吐酸種のお兄さんを運んであげて」
黒曜石のような艶を持つ小型のドラゴンが、蛇のように忍び寄ると、魔術でもって吐酸種の体を持ち上げ、どこかへ運び去って行った。
花菱は尾についた血をぴっと払うと、ダンとミルカに向き直った。
「思い出した! あなたたちクラウスと知り合いでしょ」
「そうだけど……あ、もしかして、クラウスが言ってた医術士の見習いってあなた?」
「あいつ、そんなことぺらぺらと……まあでも、そうね。だからさっきは助かったの。事故が起こったって聞いて飛んできたはいいけど、ろくな道具を持ってこなかったから」
快活に笑う花菱。二人もつられて口の端を緩めた。
噴出していた水の勢いは止まりつつあった。
ダンと花菱は次のドラゴンの傷について話している。ドラゴンの知識に乏しいミルカは手持ち無沙汰に周囲を見回す。
テントの下に横たえられているドラゴンはざっと五体ほど。大きさは様々で、首の長さや鱗の色も異なる。どのドラゴンも血を流しているが、今にも死んでしまいそうなほどの傷を負っている個体はいなさそうだった。
小石種の体内から引っ張り出した棘が誰かに蹴られて、そこかしこにできた水たまりの中に転がり込んだ。血まみれの棘からじわりと滲み出る、薄桃色の筋がひとつ。
ミルカはその光景に魅入っていた。水の中で血がほどけてゆく。たわんで、ゆがみ、誘うように揺れている。手招くように。それは記憶の中の景色と重なって二重に揺れた。
「……ねえさん」
ぽつりと落とされた言葉に応ずるように、水たまりが揺れた。何かが底に沈んでゆく。違和感を覚えたミルカは、目を細めると、しゃがみこんでその中に手を伸ばした。
小さな巻貝のようだった。小指の先ほどしかないそれは、黒と白のまだら模様で、中は空洞だった。なぜ内陸のこんな場所に貝殻が落ちているのだろうか。
「海に近い場所に住むドラゴンの体から落ちた、とか……?」
何かしっくりしないものを感じながら立ち上がったミルカの背中に、聞き覚えのある声が投げかけられる。
「いたいた! ダン、ミルカ!」
駆け寄ってきたのはターヴィだ。彼もまた濡れみずくになって、油紙に包まれた包帯だの薬品だのを抱えている。
「よく来てくれた! その様子だと、早速ドラゴンの治療行為に当たってくれたみたいだな」
「治療と言うほどのことでもありません。腕が長ければ誰にでもできたのですから」
「腕? 何の話だ」
「いえ。それよりも状況はどうなっているのですか」
「怪我人は多いが死者は出ていない。問題はドラゴンだが、報告を受けている限りでは重傷のものはいないと聞いてる」
「こちらの花菱の話でも、重傷者はいないようです。ですが……」
「分かっている。くそ、まだ掘削が始まったばかりなのに、こんな事態になるとはな」
忌々しげに呟くターヴィ。
けれどそれは一瞬のこと、彼はすぐにダマスカス一族跡取りの顔を取り戻し、花菱に向き直った。
「花菱さん。あなたの助力に感謝します」
「別に、あたしも医術士の卵だもの。このくらいはね。でも、この事故、うまく扱わないと厄介なことになるわよ」
「ええ。この共同掘削は、かなりの無理を通して行ったものですから。誰かの過失ではないにしても、このような事故が起これば掘削中断の可能性もあるでしょう」
花菱がため息をつく。
「あなたたちもあたしたちも、よく気をつけていたのに、こんなことが起きるなんて。不運としか言いようがないわね」
「不運……なのかな。ねえターヴィ、もう少し探査をちゃんとしてたら、こんなに水が噴き出すこともなかったんじゃないの」
ミルカの指摘にターヴィは首を振る。
「探査の段階ではここまで巨大な地下水層があるなんて分からなかったんだ。だから何の警戒もせずに掘削を進めてしまった。探査は人間とドラゴンが合同で行ったんだが、どちらのデータでも地下水層はごく僅かという結果が出ていた」
「うーん。水平掘りもある井戸なんだよね。念のためもう一回探査した方がいいよ」
「お、伊達に元警備隊じゃないな。しかしオレたちもプロだ。言われなくても探査はきちんとやり直す」
ターヴィの言葉にミルカは頷く。ダンが水平掘りについて尋ねると、
「水平掘りは横向きに掘るやり方だよ。マギが埋まってる層に沿って掘り進めることで、垂直に掘り進めるよりもマギの掘削効率が上がるんだって。特殊な器具とか魔術を使うから技術的な難易度が高くって、警備隊の装備も特別なものを使う必要があるんだ」
と淀みなく答えた。ダンは少し感心したように、
「勉強したんですね」
「もっちろーん! 知らなかったかもだけど、私ね、意外と真面目なの」
「それほど意外ではありませんが」
「え? そ、それって褒めてる? 今度こそ褒めてるよね!?」
「ではターヴィ。私たちは次のドラゴンの手伝いに入りますので」
「ねえちょっと、ダン!?」
ダンは涼しい顔で、次に運ばれてきたドラゴンの体に近づいていく。
「もう! ねえ聞いたターヴィ、ダンったらいっつもあんななの。会話を楽しもうって気がないんだよ、あの人の口は怠惰だ!」
「手厳しいねえ。でもほら、見てみなミルカ。あいつの右耳」
銀色の髪から僅かに覗く白い耳。雪兎がちょこんと顔を覗かせているようなそこが、微かに赤らんでいる。
「あーやって赤くなってるのは『柄にもなく褒めちゃったな、ちょっと照れるな』って思ってるときだから、次から耳見てみな」
「わ……! ほんとだ、さすがクラスメート!」
ふふんと得意げに笑うターヴィ。ダンは顔を上げてじっとりと二人を睨み付けた。
「二人とも、無駄口を叩く暇があるのですか」
「あーごめんごめん、そんじゃ後でな」
ターヴィは再び現場に向かって走り出す。ミルカも慌てて腕まくりをしながら、ダンの横に並んだ。
そうして日暮れまで働いた二人が気づいた時にはもう、怪我をしたドラゴンも人間も全て運び出された後だった。同時に長いため息をつく。
「おう、お疲れさん」
顎を血まみれにして二人の前に顔を出したのはクラウスだった。ミルカは一瞬ぎょっとしたが、その血が他人のものであることに気づく。花菱は翼の先をちょっと動かして魔術を使い、クラウスの血を拭い去ってやった。
「お疲れ様。あなた人間の方の救助に行っていたのよね。どうだった?」
「ぼちぼちってとこだなァ。パイプの山にぶつかって盛大に崩しやがった馬鹿のせいで、力仕事ばっかりだったよ。翼の根元が凝っちまった」
「あなた色々駆けまわってたものね」
花菱とクラウスの雰囲気はとても親し気で、ありていに言ってしまえば恋人同士のようだった。けれどドラゴンというものは皆こんな感じなのかもしれないし、もしどちらかの片思いだったら気まずいし、とミルカはそのことについては聞かないでおいた。
「人間どもときたら、最初の方こそ俺見てビビってたけどよ、後になったら慣れてきて顎で使いやがる。ったく、適応能力の高い奴らだぜ」
そうぼやくクラウスは明らかに嬉しそうで、楽しげで。ミルカはしみじみ、このドラゴンは人間のことが気に入っているのだなと思った。
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