十五話
強烈な腐臭が漂っている。
鼻から入り込んで、臓腑へじんわりと染み渡るようなその匂いは、ミルカの胃の中を不穏に揺らす。朝は何を食べただろうか。オートミールと、ちょっと酸っぱい匂いのしていた牛乳と、それから。
「おえ……ッ」
「もし吐いたら自分できちんと後始末をして下さいね」
「うわ、意外……吐くなって言われるかと思った……」
「言いませんよ。私も昔は吐きましたから」
そう言ってダンは防毒マスクを身に着ける。目の前の「物体」に恐れることもなく踏み出した長靴に、ねばついた体液が纏わりつく。どぷん、と揺れるヘドロのようなそれ。
だめだ。
そう思った瞬間、ミルカは傍の飼葉桶に思い切り吐いた。
自分の胃酸の匂いで余計に気持ち悪くなる。どうせなら全て出してしまおうと、口の中に指を突っ込んで、胃の中の物を最後までぶちまけた。みっともないな、とぼんやり思うが、一度不穏に蠢き始めた胃を止められるほど器用ではない。
聞くに堪えない音だったろうに、ダンは決して嫌な顔をしなかった。それどころか、冷たい水の入ったブリキの水筒を差し出してくれる。
「ごめん、ありがと……」
「いえ。人並みに吐くなんて、きみも意外と可愛いところがあるんですね」
「人の吐くとこ見てそういう感想が出て来るの、どうかと思うよ」
「だってミルカは、今までどんなご遺体を見ても、顔色一つ変えなかったでしょう。そんなきみが動揺するのを見るのは新鮮です」
「そういうダンは、意外とサディスティックだよね……」
「意外でしたか? さあ、落ち着いたら立って下さい。仕事にかかりましょう」
そこにあったのは、腐り果てたドラゴンの死体だった。
遺体と呼ぶべきか死体と呼ぶべきか、ミルカには分からない。最低でも死後三か月は経過しているであろうそれは、ところどころ原型を留めぬほど腐り落ちて、黒ずんだ体液に塗れている。右脚の腐敗は特に酷く、胴体からもげ、辛うじて骨に肉がこびりついているといった有様だった。
ドラゴンを判別する為の重要な要素である牙も、歯茎が腐り落ちているせいでばらばらに抜け落ちて、土くれに混ざっていた。
こうなってしまえばもう、どんな種族のドラゴンであるか推測することも難しい。
転移魔術に失敗したそのドラゴンは、人に見つかりやすい地上ではなく地下、それも十メートル付近の所に埋もれてしまっていた。ゆえに発見が遅れたのだ。
腐敗臭が凄まじかったことと、水道管延伸の為地面を掘り返したことから、今回発見されることになったが、何時頃箱庭に落ちてきたものか全く見当がつかないでいた。
幸運なことに死体はさほど大きくない。体長は五メートル程だろう。右脚だけでなく、頭部の腐敗もかなり激しく、頭蓋骨が見えてしまっている。
横ではダンが懐中電灯を用いて頭蓋骨の中を覗き込んでいる。その度胸にミルカが驚いていると、彼は事もなげに
「良かった。頭蓋骨の形が特徴的なので、ある程度種族を絞れます。牙も出来る限り集めて数えましょう」
「了解……。やっぱりダンは慣れてるね」
「こういう一部が白骨化したご遺体を見る機会は何度かありましたから。代々受け継いだ知見もありますしね。残念ながら内部は少し喰い荒らされていますが……発見された状況が状況です。修復をして、ご遺族の方々には理解してもらうしかないでしょうね」
「こういう場合はどうやってパンデモニウムに運ぶの? 寄生虫ってやっぱり探さなきゃだめなんだよね」
「寄生虫はもう散逸してしまっているでしょう。種族によっては毒があるので、この辺りを焼き払った方が良いかもしれませんが、ご遺体をお運びしたあとの仕事になりますね。それから運搬方法についてですが」
言いながらダンは、背負っていた巨大なリュックから、テントのような帆布を取り出した。かなりの密度で折りたたまれているのでとても重い。
それをとんと蹴り上げるようにすると、一気に広がって、巨大な箱のような形に広がった。ドラゴンの死体がぎりぎり入る大きさだ。
「わあ、すごい!」
「父さん特製の折り畳み運搬棺です。防水性は折り紙つきですよ。ここにご遺体と、周りの土を全て入れます。牙や鱗らしきものがあればそれも確保しておいて下さい」
「ぜ、全部……分かった、頑張ろう」
二人はまず、固体を保っているドラゴンの体の部位を、帆布の箱の中に慎重に入れた。持ち上げた際に腐敗臭がむわりと強く立ち込め、吐くものもないのにミルカはもう一度えづいた。ダンもさすがに青い顔をしている。
体液の染み込んだ土は、ミルカが魔術で作った氷の器の中に収め、死体の傍に置いた。ここまで腐敗してしまっているのだ、死体を冷やすことに何か意味があるようには思えなかったが、気休め程度にはなる。
「でも、そうだよね。遺体を扱う以上は、こういうものからは逃れられないよね」
「そうですね。頻度は低いですが、やはり発見が遅れるご遺体というものはあります」
「こうなっちゃったらもう、誰かの亡骸って言うよりは、モノみたいに見えるね」
言ってからミルカはちらりとダンを見る。不謹慎ですよ、と叱られるかと思った。けれど彼は咎めることなく、淡々と話し始めた。
「あなたは、九相図というものを知っていますか」
「くそうず? ううん、知らない」
「かつて東方で栄えていた宗教の絵なのですが、野外に打ち捨てられた死体が腐ってゆく様を、九段階に分けて描いたものです。最初は普通の死体なのですが、腐るにつれて体が膨張し、皮膚が黒ずみ、禽獣に食い荒らされてばらばらになり、最後は骨となる……そんな腐敗の経緯を細かくかき分けています。腐ってしまえば皆同じ骨へと至る――だから肉体への執着を捨てよ、というメッセージですね」
「腐ってくところを、わざわざ九つに分けて延々と描写してくってわけ?その宗教の信者ってのは物好きだったんだね」
「そうですか? 私たちの先祖だって、人骨でできた家紋をあしらった納骨堂や、ぼろを纏った聖職者のミイラを晒していたりしたでしょう。それに石棺の上に、蛇や蛙が覗く死体や、骸骨の彫刻をする、トランジという墓標もありますし」
「うーん。それも私、あんまり好きじゃないな。その九相図ってのは、やっぱりグロテスクなのかな」
「本物を前にして妙なことを言いますね。生き物が死に、膨張して、体液が漏れ出し、溶解し、鳥獣や虫に喰われ、やがて血肉を失い骨となる。ドラゴンであろうとヒトであろうと、一連の自然現象が見苦しいものであることに変わりはありません」
ミルカはうえっと顔をしかめる。修業とは言え、そういうものをいちいち絵に残すのが凄いな、と思った。
「そしたら、死んだ瞬間から遺体はモノになっちゃうのかな」
「どこまでがその人で、どこからがモノか、という話ですね」
「だってさ、この土に染み込んだ体液も、このドラゴンなのかな? って疑問が出てくるでしょ。遺体だけならまだ分かるよ。面影とかも残ってるだろうし。だけどこんな、臭いだけの液体が、そのドラゴンを意味しているとは思えない。どこからどこまでがドラゴンで、どこからどこまでがそうじゃないのかな?」
ミルカの脳裏を、彼女の葬式のシーンが過ぎる。
固くこわばった表情と体。もう表情を形作ることのない、怜悧な美貌。噎せ返るような花と、死に化粧のおしろいの香りの遠くに僅か漂う、モノとしての肉体の腐り落ちてゆく匂い。
“これ”は自分が知っている彼女なのだろうか?
「どこからどこまでがその人なのか、というのは難しい質問です。こういうご遺体だと、変わり果てた姿ばかりが記憶に残って、ますます分からなくなるでしょう。……死に顔ではなく、生前の姿を覚えていられたら、一番良いのでしょうけど」
「そうだね。死に顔ばかり思い出してると、その人の席が心から消えてなくなっちゃう。その人との楽しい思い出や、嬉しい記憶を、全部忘れちゃう気がする。……そっか。だからダンはきちんと遺体を帰すんだね」
明らかにミルカは、自分にまつわる死の話をしていた。
彼女にとっての死は、常に身近にいた誰かに収れんする。
ミルカがその名を明かそうとしない誰かに。
その遺体は遺族の見ている前で火葬された。
パンデモニウムの中央で巨大な火柱が上がる。火葬役と呼ばれるドラゴン――片手に長い金属の棒を持った、黄色みがかった体色を持っている――が、ごうごうと火を噴きかけて、木の棺ごと遺体を燃やす。
時折炎の中に金属の棒を突き立てるのは、燃えにくい胸骨や頭蓋骨を砕くためだと言う。そう聞くとまるで料理の手順のようだ。
『ピザ生地は、時々窯の中で位置を変えて、焼き加減を均一にしましょう』という文言が、不謹慎にもミルカの脳裏をよぎった。
噴きかけられる火の熱さは凄まじく、人間であれは数時間かかる火葬も、彼の手にかかればものの十五分で終わってしまった。
遺族は一頭きり、所々破れた翼を持つ小さなドラゴンだった。節くれだった指には古臭い錆びついた指輪をはめている。もしかしたら年老いているのかもしれない。そのドラゴンは、遺体が灰になるまで、じっと揺れ動く赤い焔を見つめていた。
あまり手先が器用ではないそのドラゴンの代わりに、ダンとミルカが灰を丁寧にかき集め、飾りのついた金色の箱に収めてやった。
遺族のドラゴンは灰の入った箱を抱いたままパンデモニウムを去って行った。ダンやミルカはおろか、クラウスにさえ一瞥もくれずに。
「……ああなっちまうもんなんだなあ」
クラウスが呆然とした様子で呟く。彼とミルカはほぼ同時期に新しい仕事に就いたので、ミルカが初めて見るものは、クラウスにとっても初めてだ。
「前の門番も、発見が遅れていたらああなってたんだろうな」
「今までパンデモニウムを守っていた、ご高齢のドラゴンのことですね。お亡くなりになったのですか」
「寿命だよ。家で眠ったまま死んで、その後釜に俺が座ったってわけだ。元々顔見知りでもあったし、俺にとっても都合が良かったし」
「ふうん、顔見知りだったんだ。家が近かった、とか?」
「近い種族だったんだ。俺も爺さんも翼で空を飛ぶからな」
そう言って誇らしげに巨大な翼を広げるクラウス。確かに、とミルカは今まで見てきたドラゴンの姿を思い出す。体の大きな個体は特に、翼が小さかったように思う。
けれどクラウスの翼は、骨格がしっかりして力強いし、とても巨大だ。近くで見ると太い血管がいくつも透けて見える。
「ほとんどのドラゴンは転移魔術で移動するが、俺たち翼持ちは気ままに空を飛んで移動するのが普通だ。ま、その分時間はかかるけどな!」
「へえ。私さ、ドラゴンってのは皆空を飛べるものだと思ってたよ」
「前はそうだったんだけどな。人間に支配されていたときを思い出すから嫌だ、と言って翼を使わなくなった種族が増えた結果がこれだ」
「でも、たかだか二百年くらい前の話だよね? それで翼は退化しちゃうものなんだ」
「忘れんなよミルカ。俺たちは両親の祈りを得て自然に生る。祈った内容がそのまま子どもに反映されるわけじゃねえが、翼のない子をと祈る両親が増えればやっぱりそれだけ、翼の退化した奴らが生まれて来るんだよ。俺や爺さんなんかは、まあ元々が能天気な種族なんだろうな。空を飛ぶことが楽しくて、正しいことだと信じて疑わなかった結果が、この巨大な翼だ」
「それじゃあ、また翼で飛びたいって祈ったら、そういう赤ちゃんが生まれて来るの?」
「まあな。もっとも飛行技術は一朝一夕で身に着くもんじゃねえ。ホバリングにしたってクイックターンにしたって、両親から教えて貰わなきゃだめだ。親の後をくっついて何千キロと飛んで、それから初めて一人前になるんだからな」
そこまで語ったクラウスが、ふと自嘲的な笑みを浮かべる。
「そう、何事にも仕込みにゃ時間がかかるもんなんだ。根気強くいかねえとな」
「何の話?」
「いいや。こっちの話だ、気にすんな」
ミルカとダンは路面電車の駅に向けて歩いていた。前を行くミルカの髪を睨みつけていたダンは、ややあって口を開いた。
「ミルカ。立ち入ったことを聞いても良いでしょうか」
「なになに? 私に恋人がいるかとか? どーしよっかな、プライベートなことだしなあ」
「それは心底非常にどうでもいいです」
「あれ、そんなに」
「はい。隣の家に生まれた猫の赤ちゃんの模様の方がまだ気になるというものです」
「あ、それは私も気になる! 何匹生まれたんだっけ」
「五匹……って、こんなことどうでもいいのです。まったく、話を逸らさないで下さい」
「ダンが始めたんでしょー」
楽しげに笑うミルカのつむじを見下ろしながら、ダンはとうとう尋ねた。
「あなたは前に、誰か大切な人を亡くしていませんか」
「ありゃま、そうくるか。何でそう思ったの?」
「あなたにとって死は身近にあるようでしたので。だからでしょうか、ご遺体を見る目も他の人と少し違う。だからそうなのではと思ったのです。違ったら申し訳ないですが」
「違わないよ。――私ね、二年前に姉さんを亡くしてるの」
「それは残念なことでした」
「自殺だった」
ダンの足音が止まったので、ミルカも止まって振り返った。
相変わらずの無表情。けれどその眉は僅かにひそめられ、暁色の美しい瞳は微かに揺らいでいる。
ミルカは困ったように笑う。
「でもね、もう気にしてないよ。だってもう二年前のことだもん」
虚勢の、嘘だ。けれどダンには、それを指摘するだけの勇気はない。彼はただ黙って頷くことしかできない。
人がみっしり詰まった路面電車の外側に、二人で張り付く。
繁華街を通るルートは賑やかで、いつも食べ物と香辛料の匂いに満ちている。人ごみがなかなか途切れず、低速走行になる路面電車を目ざとく見つけ、行商人が人工紅茶だの砂糖菓子だのを盛んに売りつけ始めた。
その隙に、蒸気汗馬や自転車が、けたたましい音を立てて線路の上を駆け抜けてゆく。路面電車がかなり近くまで接近してもお構いなしだ。事故が起こらないのが不思議なほど過密な線路の上を、路面電車が再び速度を上げて走る。
真っ直ぐに、前だけを見ているミルカの髪が風に煽られ、ダンの鼻先をくすぐった。
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