第九話

 やがてダンの懐中時計が十時を指し示す頃、クラウスがふいに立ち上がった。

 

 彼が直立不動の姿勢を取ると同時に、その横の壁がまるで雲のように音もなく崩れる。ぬっと覗いたのは、箱庭のどんな動物よりも雄々しい角。

 

威圧感を伴ってパンデモニウムに現れたのは、巨大なドラゴン三頭だった。

 

「……!」

 

 口を開かない、という言いつけを必死に守ったミルカは何も言わなかったが。

 

 それはあまりにも、あまりにも巨大だった。

 

 ミルカのかつての職場だったリグでは、一本十二メートルほどのパイプを扱っていたが、ドラゴンたちが後ろ脚だけで直立姿勢をとると、そのパイプ三本分くらいはあるように見える。

 体色は錆びたような赤、ワニのように長い顎に象牙色の角は、遺体のそれとよく似ていた。だからきっと彼らはアルハンゲリスク種なのだろう。

 しかし遺体よりもかなり大きい。種族の中でも体の大きさに差が出るものなのだろうか。

 

 聞きたいことはたくさんあったが、ミルカは言いつけ通り口を閉ざしたままでいる。

 

 ドラゴンたちはパンデモニウムの中央に置かれた棺を凝視している。ダンたちはそのまま後ろ向きに下がり、十分な距離を取った。

 巨大なアルハンゲリスク種の後に続いて、小さなドラゴンが十頭現れた。小さな頭に小さな手足、ミルカと同じくらいの体高のドラゴンたちは、棺をわっと取り囲む。尾で乱暴に棺の蓋をはねのけると、中を覗き込むなり――。


 いっせいに泣き出した。


 きゃらきゃら、ぎゃあぎゃあ、ぐぎゃぐぎゃと聞くに堪えない騒音に近い鳴き声だったが、それでもそれが追悼の意を表していることは容易に知れた。


 なぜならばそのドラゴンたちは、目から涙を零していたから。


 女性の高笑いにも似た泣き声がパンデモニウムを満たしている。その声につられるようにして、三頭のアルハンゲリスク種がゆっくりと、四足で棺に歩み寄ってゆく。

 三頭の中でも比較的小さな個体が棺を覗き込み、喉の奥でごろごろと唸った。遠雷のようなその音に、ミルカはふと、このドラゴンたちが本気を出せば、自分たちは蟻のように踏み潰されてしまうだろうことに気づいた。


 「そンな」


 その個体から漏れ出た言葉は、人間のそれに似ていた。


 「あア、そンな、かワいいコノ子が、どオしてこンなめに、アワなケれば、ならなカったノ?」


 ミルカは弾かれたように顔を上げた。

 あの棺の中の遺体は――まだ子どものものだったのだ。

 そうであればあのドラゴンは、母親。後ろにいる傷の多い、少し大きな個体は父親だろうか。そして直立不動で動かない、母親より僅かに大きい程度の個体は―親戚だろうか、それとも兄弟だろうか?


 小さなドラゴンたちはくきゃあ、くきゃあと泣き続けている。涙が鱗を伝ってかぎづめから棺に滴る。遺体が涙で濡れてゆく。

 アルハンゲリスク種の家族は棺を覗き込み、悲痛な声を上げた。なぜ、どうして、という声がミルカにも聞き取れた。


 ややあってダンがすっと前に歩み寄る。直立不動で門番の役目を勤めていたクラウスも、棺の傍に近づきつつあった。その足取りはどちらもしっかりとしている。


 「この度は、ご愁傷様で御座いました」

 「こンのタびは、ごシュうしょウサマでゴざイまシた」


 ダンの発する言葉をクラウスが通訳する。

 

 「この方は今から六日前、我らが箱庭のとあるマギ掘削井において、第三区域と呼ばれる深層で発見されました。発見された時にはもう、お亡くなりになっていました」


 アルハンゲリスク種たちはシュッと蛇の威嚇音のような声を出した。人間で言う、溜息のようなものなのだろう。


 「酸袋及び寄生虫は摘出し、棺に納めてあります。……発見した際、上顎がかなり破損しているようでした。翼も破れておりましたので、少しだけ整えました」


 ダンの言葉に、ドラゴンたちは無念そうに長い首を振った。小さなドラゴンたちの泣き声が一層賑やかに聞こえてくる。


 「ドウして……! ドウして、シンでシまっタノ? アレほドいったノに、イドウにハキをつけナさイと、アレほド!」

 「イイだろウ。モウ。ナクな。オまエがコダワればコノこも……ディアナもつライ」


 ディアナ。死んだドラゴンは、ディアナというのか。


 名がつけばそのドラゴンの輪郭がぐっと濃く感じられる。ディアナは男だったのか、女だったのか。どうしてこんな事故にあってしまったのか。何が好きで、何が嫌いだったのか。

 夢は何だったのか。


 「こンなにヒドいスがタにナっテ、カワイソうニ……。うツくシィコだッたのニ。ニンゲンのいるバしョにオチてしまったカら、ダカラ、ケがれテる」


 吐き捨てるように言い、ぎろりと人間を見下ろすドラゴン。

 葬儀屋は言い返す言葉を持たない。ダンは唇を引き結び、ミルカは何か言いたげに口をもごもごさせながら俯いた。

 後ろにいたドラゴンがそうっと前に歩み出る。


 「ディアナ、ディアナ」


 囁きながら愛おしげに顔を寄せ、口づけのようなそぶりまで見せる。溜息のようなその声は聞いていられないほどに悲しく、温かいものだった。母親のドラゴンがまた喉を鳴らし、夫であろうドラゴンの肩に顔を寄せた。


 人間の葬儀と何ら変わらない。ぎゃあぎゃあと小さなドラゴンたちが煩いが、きっと泣けないアルハンゲリスク種に代わって、泣いてやっているのだろう。そう思えばもの悲しく聞こえてくる。

 ドラゴンたちはしばらく棺に寄り添っていたが、ややあってクラウスの方を見た。

 クラウスは頷くと、ダンを一瞥する。


 「どいてな。最後の仕上げだ」


 そう言ってダンがミルカの所まで下がるのを見届けると、棺にふうと吐息を拭きかけた。

 すると棺の上に青白い文様がぽう、ぽうっと二つ灯った。書き込みは少ないが線が太いその文様によって、棺がふわりと浮かびあがる。


 「ディアナ」


 小さなドラゴンたちは急に泣き止んだ。棺を取り囲むように並ぶと、いきなりとさかを立てて回転し始める。そのとさかは羽毛のように柔らかな素材でできていて、個体によって目の覚めるような赤だったり、艶を帯びたコバルトブルーだったり、とろけるような藤色だったりした。


 回転しながら、不思議な音階で喉を鳴らしている。歌っているようにも、楽器を演奏しているようにも聞こえるそれは、重複してハーモニーを奏で出す。

 不思議な音色に合わせた円舞。それは見る者を狂乱状態に追いやるような、何かの宗教の儀式のような、不思議な迫力があった。


 パンデモニウムの床と、ドラゴンたちのかぎづめが触れ合う、カチカチという音。コロコロ、ゴロゴロと木琴のような音を奏でるドラゴンたちの歌。

 慰撫するようなそれらの音色をつんざいて、心に重く響く母ドラゴンの慟哭。


 けれどいつまでも遺体をかき抱いてはいられない。いずれ別れの時が来る。


 恐らくは父親だろうドラゴンに促され、アルハンゲリスク種たちは棺を囲むように立った。円舞の速度が増し、とさかを震わせながらより大きな声で歌うドラゴンたち。


 それに背中を押されるようにして、アルハンゲリスク種たちは、後ろ脚だけで立って口を大きく開いた。

 その口から濃い紫色をした酸が吐き出される。遺体を納めた棺は、瞬く間に酸によって溶かされ、埋め尽くされ、嫌な音を立てながら小さくなり、消えて行った。


 パンデモニウムの床には傷一つついていない。僅かな残滓を残して棺は消えた。仲間の酸によって溶かされ、遺体もろとも無に帰した。


 その様子を見届けた小さなドラゴンたちは、緩やかに回転を緩め、ぴたりと静止した。そうしてとさかを折りたたむと、まるで何事もなかったかのようにパンデモニウムを去って行った。

 アルハンゲリスク種たちが悲嘆に暮れた様子でその後に続く。内一頭が、クラウスに何事か告げる。クラウスは頷いて、そのまま三頭を見送った。

 彼らが自分たちの世界に帰ってしまえばもう、後には何も残っていない。


 ミルカはほうっと長い息を吐いた。


 「終わり……かあ」

 「はい。お疲れ様でした。途中、少しひやりとする場面もありましたが、よく黙っていられましたね」

 「その分今から喋るよ! あれは子どもだったんだね、あんなに小さくて……人間で言ったらどのくらいだろう。女の子だったのかな、男の子だったのかな」

 「さあ、どうでしょうね」

 「彼らの言葉が人間に近かったのはなんでだろう? ところどころ分かんなかったけど、大体意味は取れたよ」


 ダンは憚るようにクラウスを見たが、クラウスはその視線を無視した。


 「……アルハンゲリスク種は大型の、酸を吐く種類です。ですから人間たちにとって都合が良かったのです。戦争兵器として」

 「ハッ。そんな時もあったなァ。今となっちゃお前ら人類は、この箱庭に閉じ込められる虜囚も同然だがな」


 クラウスの言葉にダンは静かに頷いた。


 「その通りです。ですからこれは恥ずべき我らの過去ということになりますが。人間に近かった分、アルハンゲリスク種にとって人間の言葉は馴染みやすかったのでしょう。彼らが言葉というものを必要とした時、その元になったのが人間の言葉だったのです」

 「あ、そっか、ドラゴンって種族によって言葉が違うのか」

 「もちろん。そもそも言葉を必要としない種族もあります。ドラゴンは口腔に比して舌が小さいので発語が難しく、また発語できたとしても低音すぎて何を言っているのか分からないことが多いそうです。同じ種族でも体の大きさが違うことで言葉が通じない場合もあり、ドラゴンにおける言葉とは多分に体の大きさに影響されるものと思われ、」

 「要するに?」

 「……要するに、人間のように話せるドラゴンは限られていて、魔術やテレパシー、鳴き声などで会話するドラゴンの方が標準的だということです」

 「そうそう、結論から言ってくれなくっちゃね。あと周りにいた小さなドラゴンたち! 彼らはどうして踊ってたんだろう」

 「弔いの舞ではないでしょうか。一部の地域では、人間も葬式の際に踊っていたそうです。葬式の場で踊るというのは、弔意の現れでもあり、死の影を振り払う意味もあると聞きます」


 全てを振り落すようなあの動きは確かに、感情を込めたダンスというよりは、恐怖からの逃走にも似ていたような気がする。


 「あれ、ちょっとだけ怖かった。最初に泣いてたのも踊りの一環かな?」

 「というよりも、人間でいうところの『泣き女』なのでしょうね。思う存分泣き、悲しみを表現することで、葬式を悲しみのセレモニーとして完成させる役割があります。泣けないアルハンゲリスク種の代わりに涙を流し、死者を弔うという側面もあるのでしょう」

 「ドラゴンも泣くんだね」

 「はい。不思議な話ですね。ご遺体を見ている限り、多くのドラゴンの目に瞼はありません。瞼がないということは、涙で眼球を保護する必要はないということです。けれど一部のドラゴンは泣きます。時には人間よりも激しく」

 「知ったような口を利く」


 クラウスが吐き捨てるように言う。目と目のあいだ、人間で言うならば鼻の付け根辺りを器用に歪めて嫌悪感を露わにしている。その表情にミルカは驚いた。


 もっと鉄面皮かと思っていた。けれど先ほどのアルハンゲリスク種と同じく、人らしい表情の作り方をする。


 そうか、とミルカは遅まきに悟る。人間とドラゴンはかつて共に暮らしていたのだ。それが一方的な支配のかたちをとっていたにせよ、短くはない時間を一緒に過ごした。それはきっと今のドラゴンたちの生活様式にも影響を与えているのだろう。

 言葉や葬式の作法、もしかしたら涙さえも、人を見て学んだものなのかも知れない。きっとドラゴンたちはそれを認めないだろうけれど。

 ダンはクラウスに向き直ると頭を下げた。


 「クラウス。今日はありがとうございました。助かりました」

 「気持ちの悪い。俺は門番だ。通訳とここの番が俺の仕事だ。俺は俺の仕事を遂行しただけ、礼なんぞ言われる筋合いはないね」


 そうしてクラウスはパンデモニウムを去ってゆく。ダンとミルカは黙ってその背中を見送った。ミルカがぽつりと呟く。


 「分かってはいたけど、やっぱりドラゴンたちは、人間は穢れてるって思ってるんだね」

 「ああ、あのご遺族の方々が仰ったことですか。考え方はそれぞれ違いますから、あまり気にすることではありませんよ」

 「けど、昨日あんなに時間をかけて遺体を整えたんだよ? なのに酷い姿になって、なんて言われて、悔しくないの?」


 そう詰めよればダンはあっさりと首を振った。


 「いいえ。だってあのご遺族は、棺の中に横たわるドラゴンが、自分の子どもだとすぐ気づいたじゃありませんか。それだけ生前の面影を取り戻せたということです」


 その言葉にミルカははっとする。

 もし上顎がずたずたになったまま、あの遺体を引き渡していたらどうなっていただろう。あの遺族はきっと、あれが自分の子どもであるとすぐには分からなかっただろう。何しろ発見された時は、本当に酷い有様だったのだから。


 「そっか……。だからああやって時間をかけて、修復するんだね」

 「そうです。例えこれから燃やされるとしても、酸に溶かされるとしても、あの過程は不可欠なのです。そうでなければ、ご遺族の元にほんとうに帰ったことにはならないと思います」

 「……ほんとうに帰ってくるって、どういうこと?」


 迷子ような頼りない顔でミルカが問うと、ダンは事も無げに答えた。

 

 「その人の席を心の中に残しておくことです」

 「席を?」

 「もう二度とその人が座ることはない席を、残しておくこと。それがつまり、亡くなった方が自分の所へ帰ってきたということなのだと、私は思いますよ」

 「……ふうん」


 何か分かりかけた気がして、ミルカは自分のつま先を見下ろす。掴みかけた感覚は済んでのところでミルカの手をすり抜け、無明の闇に沈んでしまう。けれどそれをすくい上げられれば、何かが変わる気がした。

 ミルカは自分に問うてみる。その席は、自分の中にあるだろうか?

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