第八話

 少女は泣きじゃくりながら、傍らの姉の手にしがみついている。

 姉もまた顔をひきつらせ、すがるように妹の手を握りしめた。

 

 大人たちはいつも以上に深刻な顔をして、何か難しいことを話している。内容はちっとも理解できないが、彼らが手にしているきらきらした石と、興奮を抑えきれない上ずった声が、二人を怯えさせていた。

 父と母はそこにいる。けれど他の大人たちと同じ血走った目をしている。

 母が興奮した様子で何か喋った拍子に、唾が勢いよく飛んだ。普段なら下品だとたしなめられるはずのその粗相を、大人たちは咎めない。


 普段ではありえない何かがそこで起きていた。

 

 大きな手がぬっと伸びてくる。

 いやだ、と叫ぶ妹の手を、姉は必死に握りしめている。けれど子どもの力だ、容易く引き離された二人は、それぞれ別の作業台へと引きずられてゆく。

 冷たい作業台の上には、様々な太さの針がぞろりと並べられてい、投射ライトの光をぎらぎらと反射していた。

 

 そしてその横には、虹色に輝く石が二つ置かれている。

 

 “今度こそは”

 “この二人ならば“

 

 熱に浮かされた言葉はしかし、渾身の力で抵抗している二人には聞こえていない。

 

 嫌だと叫ぶ妹の口に猿ぐつわがねじ込まれる。初めて味わう苦い革の味に少女は目を白黒させた。両足を踏ん張っても大人たちは少女を軽々と作業台の上に押し上げてしまう。

 いいようにされている屈辱と、これからどうなるのか分からない恐怖で、少女はぐずぐずと泣き始める。

 その声を聞いて、別の作業台に横たえられた姉は、逆にきりりと唇を引き結んだ。


 ――自分が泣いても、妹を怖がらせるだけだ。

 

 けれど彼女を押さえつけている男たちは、少女のその矜持を鼻で笑う。

 

 「この程度で怯えるようでは程度が知れているな。あっちの方なんか漏らしかねない勢いで泣いてるぞ」

 「魔術の深淵に至ろうと言うのに、あれではあまりにもお粗末ではないか」

 「いいさ。今は泣かせてやれ。この子たちはいずれ、声さえ上げられぬ程おぞましいものを見ることになるのだから」


****


 パンデモニウムは箱庭の境界にある。

 

 白黒の大理石が織りなすモノトーンの地面、白亜の柱頭、そして広がるとき色の空。

 

 どこまでも続くかに思えるその空間は、ドラゴンが箱庭との連絡場所として作ったものだ。連絡場所というわりには、伏魔殿(パンデモニウム)という仰々しい名を与えられており、この世のものとは思えぬような寒々とした空間に設えられている。

 そこはドラゴンと人間が交渉する場として使われている。そこでは様々なやりとりが行われている。新しい約束事――箱庭の境界線上に落ちてきた鳥は帰すべきか、否か等――を交わしたり、係争を解決したり、葬儀をあげたり。

 もっともドラゴンは基本的に人間と接触しようとしない。

 無理もないことだ、彼らにとっての災厄たる人間(もの)を押し込めたのがここ、箱庭。

 そこにあたら接触しようと言うのは、打ち捨てた汚物を顧みるようなものだろう。

 

 しかし、転移魔術に失敗した仲間の遺体を引き取る為ならば、話は別だ。

 箱庭に「落ちて」しまった遺体は、ドラゴンの世界における最下層、パンデモニウムまで運び出して貰う必要がある。

 それが一番穢れに触れずに済む方法だった。ドラゴンにとって。


 ミルカがあんぐりと口を開ける。その間抜け面を見かねてダンがそっと小突いた。

 

 「仕事に集中しなければ追い出しますよ」

 「でも、私ね、パンデモニウムって、初めて」

 「でしょうね。ドラゴンに関係する職業人―つまり葬儀屋しか入れませんから」

 「勿体ない! こんなに広いんだよ、色んなことができるよ!ここでフットボールやろうと思ったらどんだけ人数必要なんだろ。ボールも十個くらいいるよね?」

 「きみは時々五歳児みたいな発想をしますね」

 「それ、褒めてる?」

 「けなしています。……ほら、静かに。あちらの『門番』が来ます」


 向こう側の壁がぬるりと崩れ、つかの間青い空が覗く。そこから音もなく現れたのは、一頭のドラゴンだった。

 アルハンゲリスク種よりだいぶ小さいように見える。体色は赤、それも目の覚めるような鮮紅(スカーレット)だ。硬質な体表には金継ぎのような金色の模様が走り、美しいアクセントになっている。


 背中に盛り上がっているのは翼だろう。とても大きいその翼は、鳥のような滑らかな羽毛が生えており、びろうどのように光り輝いていた。角は小さく、顎はあまり突出していない。その横顔はどこか狼に似ている。

 前屈みになって、後ろ足二本だけで器用に歩み寄ってくる。鋭いかぎ爪の生えた前足には、指輪のようなものが嵌められていた。


 五メートルほどの距離までに近づいたドラゴンは、後ろ足でぐんと立ち上がると、ミルカとダンを怪訝そうに見下ろした。ぎょろりと大きな金色の目が神経質そうに動いている。


 「……あんたが、ワイナミョイネン葬儀社の奴か?」


 ミルカが初めて聞くドラゴンの声だった。腹の底に轟くような重低音は少し不機嫌そうにも聞こえる。


 「はい。私はダンケルク・ハッキネン。こちらは助手のミルカ・モナードです」

 「そうか。遺体は」

 「棺に納めてあります。確認されますか」


 答えずドラゴンはのそのそと棺に近づいてゆき、無造作に蓋を開けた。

 ミルカが作った氷の台の上に置かれた、間に合わせの簡素な棺の中には、あのアルハンゲリスク種が横たえられている。そのドラゴンは小馬鹿にしたような吐息を漏らすと、


 「葬式だの何だのと大層なことだよ。このまま燃やして灰にしてやりゃあいいのに」

 「……あの、あなたは、前の門番の方と違うようですが」

 「前のは辞めた。ま、こんな汚れた場所の門番なんて貧乏くじも良いところだしな」

 「あなたは貧乏くじを引いたと思っているんですか」

 「アホなこと聞くな。当たり前だろ、こうしてお前たち人間と言葉を交わすのもわずらわしいってのに」

 「その割に流暢なヒトの言葉をお話しになる」


 ダンがそう斬りこめば、ドラゴンはまた鼻で笑った。


 「門番はヒトの言葉が分からなければ仕事にならないからな。クズみたいな仕事だが、無職よりはましだろう」


 ドラゴンはやる気がなさそうに蓋を戻すと、彼が入って来た入口の方へ戻ってゆく。

 その背中にダンが声をかけた。


 「あなたの名はなんというのですか。私たちは名乗りました」

 「……めんどくせェな。クラウスだ、だがあまり呼んでくれるなよ」

 「分かりました、クラウス。今日はどうぞよろしくお願いします」


 容赦ない舌打ち。顔色一つ変えないダン。なんだかよく分からないままのミルカは、ドラゴンとダンの顔を交互に見つめている。

 クラウスと呼ばれたドラゴンは、長い尾を苛立たしげに振って入り口付近にうずくまった。


 その様子にミルカは鼻白んで、ダンの耳元に囁いた。


 「……なんかあいつ、感じ悪いね」

 「ミルカ。一言多いのはきみの欠点ですが、欠点のない人間はいないのでそれはそれで仕方のないこととして」

 「ねえよく分からないけどなにか失礼なこと言ってるでしょ」

 「いえ、忠告です。ドラゴンたちは自分たちの生き方に誇りを持っている、気高い生き物です。敬意を払う人間に攻撃を加えようとする種族は少ない。ですがこちらから侮蔑的な行動をとればどうなるか分かりません」


 ダンは無表情のまま、親指で首を掻き切る仕草をした。ミルカはぞっとしながら


 「分かった。他に注意事項は? 私アホだから、できるだけ一つに纏めてくれると嬉しい」

 「大丈夫、一つしかありません。――よく聞きなさい、ミルカ・モナード。今日のきみはできる限りその口を開かないこと。それが注意事項です」


 ミルカは面白くなさそうな顔をしたが、言いつけを守る気はあるらしい。

 こっくり頷いてそれきり、無駄口を叩かなかった。

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