第七話
ドラゴンの遺体は地下の作業場に安置されてあった。
鼻をつく薬品の香りに混じって、こびりつくような腐臭が微かに漂っている。遺体が発見されてからもう五日も経っているのだ。肉が腐り始めるには充分すぎる。
氷室のように冷たいその部屋は薄暗かったが、ダンが明かりを点けると眩しいほどに明るくなった。
電気だ。マギを使って発電しているので、金持ちしか使えないはずのこのエネルギーを、一介の葬儀屋が気軽に使っていることに驚いた。こんなに明るい白熱灯は、リグ、病院、市役所といった限られた場所でしかお目にかかれない。
聞けば葬儀社はその性質上、政府に雇われているような存在なのだと言う。ドラゴンの葬儀にかかった諸費用は全て政府が負担し、手間賃を乗せてハッキネン家に支払うことになっているし、配給されるマギも他の家庭や貴族より多めに設定されている。
部屋はとても広かった。巨大なドラゴンが安置されていてなお余裕がある。それに天井も酷く高い。聞けばここは、家の真下ではなく、家の裏手にある空き地の下にあるのだと言う。
遺体を搬入しやすくする為だろう、天井には巨大な跳ね上げ式の出入り口があった。
「体内の酸袋は既に取り除いてあります。防腐処理も完了済みですから、今日は上顎の造形にかかります。これが終わればお葬式ができます」
「造形?」
「破損して、口内が見えてしまっているところがあるでしょう。ですから、パテを使って元のような形に成形するのです」
「どうせ遺体は焼くのに?」
ミルカがそう問えば、ダンは呆れたように、
「それは人間の話でしょう。全ての人を埋葬するスペースは箱庭にはありませんから、燃やす以外の選択肢がありません。けれどドラゴンたちは実に豊かな葬送の文化を持っています。今回のアルハンゲリスク種は比較的スタンダードな葬送礼式の持ち主ですが、それでも決められた手順、姿というものがあるのです。そのためには出来る限りお姿を整えて送り出さなければなりません」
「ふうん。葬送礼式って、具体的に言うとどんな?」
「例えば、私はお見かけしたことがないのですが、トレルモ・デ・レイナ種はご遺体のエンバーミングを希望されます」
「エンバーミングって?」
「人間、ドラゴンの別なく、生き物は死ぬと変色します。体はこわばり、皮膚の色はどす黒くなり、体液が漏れ出す。そういった死後の変化を防ぐために、防腐剤を混ぜた特殊な薬液を血液に注入することで、皮膚の色を明るくし、体の硬直を和らげる処理をすることを指します」
「でも、何のために? 死んだら体は変色して固くなる、それをごまかすために、花だの何だのを振りまくんでしょ」
ミルカは自分の祖父の葬式を思い出した。固くこわばった体、喰い締められた口元、おしろいを大量にはたいたせいで、道化じみて白くなったその顔。
既にこの世のものではない肉体が発する、どうしようもない恐ろしさを和らげるように敷き詰められた、匂いの強い大量の花。
花でごまかせているとは思わなかったが、他にできることがあるとも思えなかった。だからどうしてエンバーミング―死体に加工などするのか分からなかった。
「通常、棺に納めたご遺体にお別れを告げて、火葬ないし土葬するというのが葬儀のセオリーかと思います。ですが彼らの作法は少し違っていて、亡くなったドラゴンを、生前と同じような格好で椅子に座らせます。生前好きだった音楽をかけたり、好きだった宝石を着けたりして。そして葬儀の参列者は、まるでそのドラゴンが生きているかのようにふるまい、思い出話をしたり、今までの感謝の気持ちを告げたり、あるいは生前の恨みつらみをぶつけてから、あの世へ送り出すのだそうです」
「今までの感謝はともかく、文句まで言っちゃうわけ? 自由だなあ」
「ええ。恐らくそれは、ご遺族の方々の気持ちを落ち着ける為なのだと思います。心の準備が出来ていた死ならばいざ知らず、事故や突然の病で、落ち着いて話をする暇もなく亡くなってしまうこともあるでしょう」
「……そう、かもね」
「亡くなった方とはもう二度と言葉を交わすことはできません。けれど、自分の心の内を一方的にぶつけることで、何かが楽になることもあるでしょう。その為のエンバーミングなのですから、ご遺体も生きているように見せた方が良い」
遺体が、生きているように。
幽霊のような肌に唯一ほとりと落とされた、死に化粧の紅がミルカの脳裏を過ぎる。生前の美しさを保ったその遺体の唇は、ほんの僅か歪んでいて――考え事をするときにちょっと唇を噛む、彼女の癖を否が応でも思い出させるものだった。
けれどもう彼女は死んでいるのだ。何を言おうと答えない。ならば話しかけることにどんな意味があるというのだろう。死という現象は巻き戻らない。死者は語らず、こわばったまま時間を止めてそこにあり続けるのだ。
生きているような死体などろくなものでもないように思えたが、ミルカは努めて明るい声を出した。
「葬式なんて窮屈で居心地が悪いものだと思ってたけど、そういう明るい感じのはいいかもね。ちょっと、不気味かもだけど」
「そうですね。死には悲しい側面しかない、という私たちの思い込みを裏切る風習です」
もっとも、とダンは作業の準備をしながら言う。
「私たちはエンバーミングの技術を持ちません。ですからトレルモ・デ・レイナ種のご遺体を見つけた場合は、どれほど破損していようとも、速やかにドラゴンたちに引き渡す義務があるのです。それはやはり、葬儀社としては少し悔しいことですね」
「ダンでも悔しいとか思うんだ」
「人を何だと思っているんですか」
「鉄面皮の仕事人間」
「……まあ、あながち間違ってはいませんが」
「言っとくけど、これ嫌味だから。褒めてないからね」
やり返したミルカはふふんと笑って、自分が中断した話の続きを促した。
「葬儀社の仕事は、ご遺体を然るべきかたちにととのえ、ご遺族の要望通りに葬式を進められるように最善を尽くすことです。その仕事をまっとうできなかったということですから、悔しいと思うのは当然でしょう」
「しょうがないな、とか思わないの?」
「それで諦めてしまえば、色んなものを取りこぼすことになる。どうせ全力で挑んだって掴めるものは僅かなのですから、最初から諦めることに何のメリットもありません」
「おお……ダンは仕事人間が徹底してるね」
「ほんとうなら、エンバーミングだけではなくて、もっと色んな遺体処理の技術を身に着けたいのですが、ドラゴンたちは教えてくれなくて。当たり前なのですけれどね。彼らは新しい技術を人間に与えることを酷く嫌がりますから」
「あっちとしては、また支配されたらたまらないって思うんだろうね。もう私たちにそんな力はないけど」
「同感です。ですが、ドラゴンたちはまだそれに気づいていないのかもしれませんね」
ダンはそう呟きつつ、巨大なバケツをスコップでかき混ぜている。もってりと重たいそれは、最初こそ反吐のようなくすんだ灰色をしていたが、徐々にケミカルな桃色に変化し始めた。
「これを、もっとピンク色になるまでかき混ぜておいてください」
「了解、ボス!」
ミルカがパテをかき混ぜている間、ダンは遺体の鼻の付け根辺りを少し持ち上げ、木片をかませて、口を開いた状態に固定した。
ダンは木製の踏み台に乗ると、ミルカが練り上げたパテをコテの先端につけて、上顎の骨に少しずつ乗せていった。既に変色している肉片を繋ぐように、骨や口内が丸見えにならないように。
ミルカはじっとその様子を眺めている。子どもの頃に見た、絵画修復士の仕事を思い出していた。あれはまさしく魔法だった。指先一つで時間が巻き戻るのだ。こんなふうに。
手際は良かったが、一度に乗せるパテは親指の先ほどの大きさしかなかったので、上顎全てを造形するには随分時間がかかった。もっともミルカにとってそれはあまり苦痛ではなかった。
銀色のまつ毛を震わせながら、丹念に仕事をするダンの手先を思う存分眺めていられたから。
真面目で、ひたむきで、それでいてプライドを感じさせる手つきだった。あまりにものめりこむので、長い前髪が顔の横に何度も垂れて煩わしそうだった。
パテがなくなりそうになるたびに、ミルカは新しいものを作って補充した。何度かそんなことをやった頃、ダンがほうっと長い息を吐く。
「……これで良いでしょう」
ダンが顔を上げたとき、既に日はとっぷりと暮れていた。ミルカは遠目からドラゴンの上顎を見、それからとても言いにくそうに、
「まさかこれで完成じゃないよね?」
「当然です。これからお化粧をします」
遺体の上顎は、ケミカルなピンク色と、遺体の紫とも黒ともつかないくすんだ色合いとのコントラストが酷く、下手な仮装のようになっていた。もっとも、色合いにさえ目を瞑れば、形は綺麗だった。ドラゴンとしての原型(シルエット)を取り戻した、そんな印象を受ける。
「そう言えばお葬式ってどこでやるの? って言うか、参列者は?」
「明日パンデモニウムで十時に。参列者は無論ご遺族の方々です」
他にどなたが出るのですか、とダンが呆れたように言う。
「遺族って言っても、ドラゴンは木とか岩とか水とかにころっと生まれてくるんだよね? どういう関係で家族になるわけ」
「つがいが祈ることで自然界に生るわけですから、そうして生まれた子は勿論つがいの家族ということになります。それから、基本的には同じ場所に生るものは同族と見なされます。ですが、一族が認めれば、全く別の場所に生っていたドラゴンも家族として迎え入れられるようですね。人間と違って、血縁にはこだわらないようです」
彼は休憩をする様子もなく、寒いその部屋の隅にある作業台で化粧の準備を始めた。ミルカはその後ろを犬のようについて行きながら、矢継ぎ早に質問を投げかける。
「さっきエンバーミングとか言ってたけどさ、そんな技術があるんなら、わざわざ人間がこんな風に化粧とかしなくてもいいんじゃない? 腐らないようにして、パンデモニウムで引き渡すだけで十分だよね」
「ミルカにしては良い質問です。これ、持って下さい」
「うん。またかき混ぜる系?」
「色の調整は繊細ですから、きみはこのパレットを持っていて私の作業台になってくれれば十分です。そう、そこに立っていて下さい。――パンデモニウムにご遺体をそのままお届けする、確かにそう希望されるご遺族の方々もいらっしゃいます。ですがそれは年に一度あるかないかです。基本的には私たちワイナミョイネン葬儀社に一任して下さいます。それは、死の穢れという概念をドラゴンたちも持っているからです」
「死の穢れっていうと……一度死人が出た部屋は、白いリボンでひと月封じておかなきゃいけないっていうあれ?」
「随分古風なことを知っているんですね。それと似たような理屈です。箱庭というおぞましい人間だらけの世界で死んだ同胞は、そこで葬って別れの儀式を執り行う。そうすることで、彼らの生活圏に死の穢れを持ちこむことを防げます」
「なるほどねえ……?」
「納得していないようですが」
「いや、だってね? もし私がドラゴンだったら、他の種族(ニンゲン)に自分の家族の葬儀任すの、なんかやだ。いくら死の穢れって概念があったとしても」
子どもっぽい物言いに、ダンがふと口元を緩める。
「わ、笑わないでよ」
「いえ。笑っていません。ですがきみの考え方は間違っていない。人間は十数世紀もの間、ドラゴンを奴隷のように扱ってきた。私たちが猿並みの理性しか持ちえぬことを彼らは知悉しています。それでもなお、ご遺体を任せてくれる理由は―私たちがワイナミョイネン葬儀社だからです」
ワイナミョイネン葬儀社。
噂話でしか聞いたことがなかった。ドラゴンの葬儀のみを専門に扱う、この箱庭における異端。ドラゴンの遺体という、ある人間からすれば宝のような存在を、律儀にドラゴンたちに返し続ける、貴族たちの目の上のたんこぶ。
どんな意地悪で偏狭な人間がいるのだろうと思っていた。
ダンに出会うまでは。
「……ま、ダンもたいがい頑固でクソ真面目だけどさ」
「何か言いました?」
「なんでもなーい」
ダンはまるで神に宣言するように厳かな口調で言った。
「私たちは必ず、亡くなった方をご遺族のところにお帰ししています。必ず、です。その実績をドラゴンたちは買って下さっているから、私たちに葬式を任せてくれるのです」
ですが、とダンは声を和らげて、
「式典の細かい手配や、儀礼用の祭具はさすがに用意できません。今回も私たちが整えられるのはご遺体だけです」
「祭具まであるんだ。そういえば昔は私の家にもそういうのあったみたい」
「それは……随分古いおうちなのですね」
「古いだけで別にお金持ちでも何でもないけどね。葬式とか結婚式だけはやけに力入れてたな、確か」
「今でこそ儀礼を重んじることは堅苦しくて古めかしいことだとされていますが、私は大切なことだと思います。それは区切りですから」
「区切り?」
「はい。例えば葬式は、生きている者が、死んだ者に別れを告げる場所です。死を確定させ、死を受け入れるための区切りの一つと思えば――そう悪いものでもない」
呟きながらダンは化粧ブラシを手に取る。その先端に赤茶けたファンデーションを取った彼は、パテで形を整えた上顎に新しい色を乗せ始めた。
*
作業が終わったのは深夜だった。ウィリアムが簡単に作っておいてくれたきゅうりと鶏ハムのサンドイッチと、ダンが淹れたコーヒーで簡単に夕食を済ませる。
二人はカウンターで立ったまま向かい合って食べた。
「ん、からし、ツーンてなった……」
「父さんは親の仇のようにからしを入れますからね。ほら」
「うわ、パンが黄色い。おかしいでしょこの配分、っていうか何でダンも平気な顔して食べてんの」
「慣れます。きみも慣れればおいしく感じますよ」
「いやだよ」
少し酸味の入り混じったコーヒーの味は紛れもなく本物で、ミルカは猫のように満足げな息を吐いた。唇に触れる陶器の柔らかな感触、緊張をほぐすような芳醇な香り。
腹を満たすというより、味を楽しむといった様子のミルカに、ダンは少し呆れた様子で、
「きみは、図太いんですね」
「豆のコーヒーを飲むチャンスを逃すほど馬鹿じゃないつもり」
「いや、あの部屋は結構匂ったでしょう? それに、冷やして腐敗を遅らせたとは言え、ご遺体に触れたあとです。きみのようにけろりとしている人も珍しい」
「そお? 肉は腐るものでしょ。別に難しい理屈じゃない、仕事と思えば何のことはない」
「そうですか。仕事だと思えば」
「っていうか、私からしてみれば、明日焼いてしまうものにあれだけ情熱かけられるあなたの方が謎だけど。葬儀社ってのはそこまで求められるものなの?」
「ここまでやれ、というのが決まっていたら、葬儀社などいりません。マニュアルに沿って役人が粛々とやれば良い。どこまでやれるかを常に追い求めているから、一つの職業として成り立つんじゃないですか」
なるほど、と片眉を上げたミルカは、黙って咀嚼に専念した。
妥協を許さないダンの姿勢がただ心地よかった。それを頑固という人もいるだろうし、分からず屋と謗る者もいるだろう。
そういうものだ。誰からも嫌われない人間に面白みはない。
ミルカはパンくずまでしっかり口に押し込んでから、食器の後始末をした。
「路面電車はもう動いていないでしょう。空き部屋がありますから泊まっていったらどうですか」
「うちの近所のは動いてるからだいじょうぶ」
「しかし、そうは言ってもこんな夜中に女の子一人で出歩くのは」
ウィリアムも止めたが、ミルカは笑ってドアを開ける。
「平気です。私、暗いのには慣れてるの」
夜の闇に泳ぎ出たミルカの、軽く弾んだ金色の髪は、どうしてかダンのまぶたに強く残った。
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