第五話

 「女王? なんですか、女王とは」

 「このリグのアイアンウルフは蟻と同じに、女王を頂点としたコミュニティを作ってるの。女王は他の個体よりも遥かに大きいし魔術も魔獣並みに操る。そのドラゴンを転移するまであとどのくらいかかりそう?」

 「座標算出まであと一分、転移魔術展開に二分といったところでしょうか」

 「それだけ稼げるかどうか……。いや、稼ぐしかないね」

 

 毒づきながらもミルカの表情は明るい。ポケットに突っ込んでいた羊皮紙を全て引っ掴み、空中に文様を展開する。

 

 「ドラゴンの転移が済んだら、あなたはすぐ昇降機に乗って。左のレバーを一番上まで上げれば高速運転になるからそれで逃げてね」

 「つまりあなたはここへ留まって戦うと?」

 「それが警備隊の仕事だもん。女王を地上に逃したらまずい」

 「なるほど。ご遺体を転移するまでならば、私もあなたの仕事を手伝えると思いますが」

 「へえ? じゃあ遠慮なく、手伝ってもらっちゃおうかな!」


 ニッと笑ったミルカは頭上を仰ぐ。

 おぞましい遠吠えが氷の天井を震わせている。腹の底まで響いて、臓腑をぐうっと掴まれているような、そんな感覚をもたらす魔の声。


 「女王を殺す必要はないからね。四肢を狙って動きを封じればいい」

 「同義です。その二つは」

 「手間が段違いでしょう。……惨いって思う?」


 そう問えばダンは虚を突かれたような顔になった。ミルカは重ねて問う。


 「きっと頭を一発射抜いて終わらせるのが一番慈悲深い。でもそれは難しいから、私たちは四肢を狙う。野生動物の四肢を砕いて、死ぬがままに放置しておくのを、残酷だって思う?」

 「……仕事が優先です。生きてこの井戸を出るためにはそんなこと、躊躇している場合ではありません」

 「だよね! あ、マギが充満してるから魔術の威力には気を付けてね」

 

 ダンは頷く。その顔色は驚くほど白く、つまりは恐怖に青くなったり緊張で赤くなったりとは無縁ということで、その肝の据わりようにミルカは内心舌を巻いた。

 

 女王の声と群れの遠吠えがいよいよ大きくなってきて、氷の天井が耐えかねたように軋んだ。

 ミルカはおもむろに指を振ってその氷の天井を解除する。瞬きの間に消え失せた氷の天井の上では、虚を突かれた様子のアイアンウルフと、それから――。


 白銀の毛並みを持つ傷だらけの女王が、壁面にしがみついてこちらを睥睨している。


 巨躯だ。パイプなど飴細工のように曲げてしまえるだろう顎と爪は、土と血と鉄錆に塗れて凄みを放っている。左目は潰れているが、右目は膿の如き黄褐色をしていて、およそ日の光を知らぬような陰険さがあった。

 前足は太い。恐らくミルカが三人、両手を大きく広げたとしても足りない程の太さだ。


 けれどミルカはその大きさに臆することもなく、描画していた文様に線を書き足してゆく。大きな文様が三つ、空中で形を成し、ほの赤く明滅を始めた。文様は周到で綿密だ。円形の文様の中に植物の意匠を細かく刻み、螺旋状に仕上げてゆく。


 マギの気配を感じ取った女王が鋭く唸ると、アイアンウルフの群れが瞬時に応じて襲い掛かる。


 迎撃するのはダンだ。けれどドラゴンの遺体に狼が落下するのを厭うためか、体を壁に縫いとめるようにして攻撃するために、鉄矢の消耗が激しい。だというのに、その横にいるミルカは呑気に唇を尖らせて文様を描き足している。

 文様は既に凄まじい密度で描き込まれている。今は完成度よりも時間を優先すべきだと考えたダンは、ミルカに釘を刺した。


 「手伝えるのもそう長いことではないのですが」

 「ん? ああ、ごめんごめん。もうじき描き上がるけど」

 「けど?」

 「距離が足りないかな? と言うわけだから、あとよろしくね!」


 言うなりミルカは空中に躊躇なく身を投げ出した。

 翻る金色の髪を掴もうとダンが手を伸ばすより早く、ミルカの足が氷を踏んだ。

 薄氷が彼女の足場となって空中に瞬く。ダンの鉄矢の応用だ。氷を飛び石代わりに上昇するミルカは真っ直ぐに女王を見据えている。


 「無茶をする……!」


 呟いたダンは僅かに唇を噛んでその後ろ姿を見ていたが、彼には仕事があった。

 計算機は既にドラゴンの死体の座標の算出を終えている。それを元に転移魔術を展開しなければならない。


 「十番から十二番、選抜、装填。囲め」


 鉄矢が三本出現し、ドラゴンの死体の上に浮かび上がったかと思うと、緩やかに回転し始めた。最初は穏やかだったその輪舞は、時間を追うにつれどんどん速くなってゆく。

 ダンは顔を上げる。狼の群れが雪崩のようにミルカに押し寄せている。この井戸のどこにそれほどの狼が隠れていたのだろう。


 しかしミルカも負けてはいない。女の身で警備隊に在籍しているのは、その圧倒的な強さゆえ。魔術の描画は見とれるほどにスムーズで、無駄がない。


 女王は機を窺うようにその目をぎらつかせていたが、やがて音もなく跳躍した。


 その太い爪が鉄のパイプに喰い込む。スタビライザーがあるとは言え、ぶら下がっているだけの状態になっているパイプが激しく揺れ、鉄が擦れあう嫌な音が響いた。


 女王がその咢を開き、咆哮を轟かせた。と同時にその口元に文様が出現し、青い炎がちろちろと閃く。


 次の瞬間、津波の如き炎がミルカ目がけて吐き掛けられた。


 慌てて展開した氷の壁は紙のように破られ、灼熱の焔がミルカを覆い隠した。


 「ミルカ!」


 死んだ、と思った。あの炎を正面から喰らって無事でいられるはずがない。

 

 けれどダンのすみれ色の目は、漁火のような残滓を振りほどくように、勢いよくはためく少女の金髪を目撃する。

 

 「大丈夫! 大したことない!」

 

 ミルカは威力の低い氷の壁を数十枚一度に出現させ、女王の炎からどうにか身を守り切ったのだ。


 咳き込みながらミルカはぐるりを見渡す。青白い焔は女王の配下たるアイアンウルフにも及び、毛と肉の焦げる嫌なにおいが井戸内に充満していた。炎の残滓があちこちで燐光のように瞬いている。


 咆哮が魔術展開の鍵となっているらしい女王は、再び甲高い鳴き声を上げる。その後押しをするように、残った狼たちが雪崩のようにミルカに押し寄せ、その動きを封じようとする。そのせいで用意していた文様を展開できないでいた。


 「ああもうっ、こいつらが邪魔!」


 青の燐光(プルシャン・ブルー)が氾濫する井戸内で、断末魔のように閃くミルカの赤い文様は、あまりにもちっぽけだった。


 ダンはじりじりしながら転移魔術が展開されるのを待った。

 唸りを上げて回転する三本の鉄矢の間でばちばちと火花が散る。ドラゴンの死体の輪郭がぼやけ、揺らぎ、ぶれたかと思うと――。


 瞬きの間にドラゴンの死体が消えた。


 ダンは瞬時に全ての鉄矢を足場に回し、凄まじい速さでミルカの傍に駆け付けた。彼女の眼前には三枚の魔術文様が、未だ展開されずに中空に浮かんだままになっている。

 凄まじい描き込みのなされたそれは、既にダンの身長を超えるほどの大きさにまで膨れ上がっている。文様の意匠を一瞥した彼は、魔術の意図を悟った。


 「氷瀑ですね。氷の瀑布、幾重にも対象を取り巻いて逃さない」

 「よく分かったね! だけど距離が足りない、あと五メートルは近づかないと!」

 「では私がお借りします。一番、二番、三番! 選抜、装填!」


 彼の髪色を写し取ったかのような白銀の矢が現れる。それは他の鉄矢とは一線を画してい、ダンのとっておきであることが分かった。


 きらきら輝くそれは、忠実な犬のように宙に浮いて、彼の指示を待っている。


 「纏いて穿て!」


 放たれた矢はミルカの文様ごと空中を疾駆する。文様は布のようにたわみ、ドレープを作りながら禍々しく輝き始めた。纏う色は凶兆の赤、けれどそれを運ぶ矢は清々しい鏡面のような銀色で、そのコントラストが二人の目に強く焼きついた。


 流星が如き軌跡を描いて鉄矢が向かうのは、女王の巌のような脚。

 

 三本の矢が女王の両前足と尾を射抜いたその瞬間、氷が爆発した。

 

 絶対零度の氷瀑が女王の体を襲う。空中に充満するマギも手伝って、その威力は凄まじかった。空気をたっぷり含んだ女王の体毛は瞬く間に凍りつき、ぱきりとひび割れた。体に忍び寄る冷気に抗おうと女王が口を開いたその刹那、体内に潜り込んだ冷気は、臓器ごと一気に彼女の体を凍らせる。

 

 それだけでは飽き足らず、氷の侵食は鉄パイプや井戸の壁面にも及んだ。あっという間に白く染まった視界に、ミルカは一瞬見惚れた。

 

 吐く息さえも、手のひらだって真っ白だ。

 

 「呆けている場合か!」

 

 その襟首を掴んだのはダンだ。足元に百を超える数の鉄矢を集め、一気に上昇する。

 昇降機に駆け込んでいる暇はなかった。既に凍り付いていたからだ。二人は猛烈な勢いで這い上る氷の隙間を縫って、パイプに添うようにして逃げる。その逃げ足は驚嘆すべき速さだが、氷はそれと同じくらいの速さで井戸内を侵略しつつあった。

 頬に吹き付ける風が痛い。その痛みが風圧によるものか、それとも冷気によるものなのか、ミルカには見当もつかなかった。蛇のように凄まじい速さで這い登ってくる氷は、既にダンの鉄矢のほとんどを呑み込んでしまっている。


 けれど、地上はすぐそこにあった。丸くかたどられた藍色の空がどんどん大きくなってゆく。


 「もう、少し……!」


 氷の奔流がダンの鉄矢を全て飲み込み、ミルカの髪の先端を舐めた、その瞬間。

 ダンはミルカを抱き込むと、氷を蹴って跳躍し、地上に転がり出た。


 「へ、うわぁっ!」


 空中で呆気なく手放されたミルカは、足をばたつかせながらどうにか地面に降りた。その横でダンは綺麗な着地を見せていて、ミルカは思わず抗議した。


 「どうせなら最後まで面倒見てよね!」

 「失礼。意外と重かったもので」

 「重っ……!? こ、これは体重じゃなくて装備品のせいで」

 「静かに。あなたの魔術、まだ終わっていないようです」


 氷の奔流は逆巻く滝のようにうねりを上げて、空へ空へと伸びてゆく。それは禍々しい大樹のように影を落とした。

 だがその奔流が唐突に途切れる。ミルカは瞬きしていたが、ややあって何が起こったのか悟った。


 「マギが切れたんだ……!」


 パイプから漏出していた分も含めて、空間に漂うマギを全て使い切った為に、魔術の展開が一時的に止まったのだ。その証拠に、地上に置かれた測量機の数字はほとんどゼロに近い数字を示している。


 マギ切れを見て取ったリグの術士たちが集まって来る。彼らは逆巻く氷の柱の解除にかかり始めた。ぼうっと浮かぶミルカの文様が、ドレスを着飾った淑女を脱がせるように、するするとほどけてゆく。


 ミルカはほーっと安堵の息を吐き、行儀が悪いことを承知で床に寝転がった。

 頭上は濃藍色に染まっている。東の空から忍び寄る陽光がひどく眩しく見えた。

 生き延びた。腕は噛まれて痛いし、マギの使い過ぎで体はすっからかんだけれど、かろうじてここにいる。生きている。


 しかし感慨にふけっているのは彼女だけらしかった。


 「ダン……?」


 ダンは既に、リグ上に転移させたドラゴンの死体の状態を調べている。こうしてみるとかなり大きいが、彼は臆することもなくその体に触れ、何かをメモしていた。おまけにいつの間に持ち出したのか、ミルカが氷漬けにした寄生虫四匹も綺麗に揃えている。


 「おい、モナード!何だこれは、事態の説明をしろ!」


 現われた技術者の上司が大股で近寄って来る。

 ミルカは慌てて立ち上がった。


 「パイプごとそっくり凍っちまった! ったく、マギが漏出してるんだから魔術の威力には細心の注意を払う必要があるって、警備隊なら分かるだろうが!」

 「す、すみません」

 「ドラゴンの死体一つに何を手間取ってた! この阿呆が!」

 「アイアンウルフの女王が出現しました。そのときのことは恐らく、遠隔望遠術式の記録を見て頂ければ分かるかと思います」


 そう言いながらもミルカは上司のことを見ていない。


 薄らと朝日が昇ってくる。明け初めの光に照らされ、きびきびと動きながら仕事をするダンに、ミルカは目を奪われていた。


 血を流し、上顎をずたずたにされ、物のようにそこに横たわっているドラゴンの死体。

 その周りを大股に歩き回っているダン。吐く息が白く、微かに立ち上る。

 不謹慎だと分かっている。分かっていながらミルカはそこに一つの静謐な美しさを見た。

 

 確認を終えたダンは、巨大な帆布でドラゴンの遺体を覆った。

 井戸の様子を見ていた術士が、浮かない顔で技術者に近づいてくる。


 「報告します。第一区画の警備隊員の生存確認は取れましたが、第二区画の隊員については生存不明。並びに当該井戸の復旧作業困難と推測。不純物とマギの放射源が多すぎて、この魔術を解除することができません。文様は解体できたので、これ以上魔術が進行することはありませんが」

 「何だと?」

 「あの警備隊員、何者ですか? あれほどの密度の魔術を解除できるのは、トリニティ・スクールの教員くらいのものでしょう」

 「ただ魔術が上手いだけの隊員だと思っていたが。まあいい、報告を続けろ」

 「はい。このリグの周辺地層にも変動が。恐らくアイアンウルフの巣からすべての個体がいなくなった為に地盤が緩んでいるのだと思われます。このまま掘削を続けるとなると、マギの掘削効率は四十パーセントを割るでしょう。……大変申し上げにくいのですが、この井戸は廃棄すべきではないかと」


 技術者の顔が怒りに染まってゆく。


 井戸一本を掘るのにどれだけの金と人と時間を費やしたか。この一本の井戸からどれだけのマギが採掘できたか。この井戸が使えなくなることで、どれだけの人々の生活に影響が出るか。

 技術者はぎりりと歯を食い縛る。そも、井戸が凍りついた原因はミルカにあるが、元はと言えばドラゴンの死体がこんなところに突っ込んで来たからだ。アイアンウルフの女王も、このドラゴン目当てに出て来たのだろうと類推することは容易い。


 更に源流まで遡るのならば、このような辛酸を舐めさせ、狭い「箱庭」に人間を押し込めているのは、他ならぬ異形の種族――すなわちドラゴンの仕業であった。


 「薄汚いトカゲめが、人類を殺し、俺たちをこんな箱庭に押し込めた挙句、貴重なマギまで奪ってゆこうと言うのか……!」


 憎々しげに吐き捨てられた言葉を、ダンは聞かなかったことにした。代わりに技術者の前に一枚の書類を差し出す。


 「ドラゴンのご遺体の引き取り、完了致しました。こちらにご署名をお願い致します」

 「何だと? 今それどころじゃないんだ」

 「規則ですので。こちらにご署名を頂かねばご遺体を運び出すことができません」


 技術者はしばらく書類とダンの顔を交互に睨んでいたが、引っ手繰るようにサインをすると、チッと舌打ちをした。普段の温厚な態度からは想像もつかない程冷たい声がミルカの耳を打つ。


 「何とも熱心な仕事ぶりだな。死体で飯を食うのはどんな気分だ?」

 「これで書面は問題ありません。それでは失礼いたします」


 浴びせられた心無い言葉にも、ダンは眉一つ動かさなかった。書類を丁寧に懐にしまうと、残り僅かな鉄矢を呼び出し、帆布の上に配置する。無駄のない動き。ドラゴンの死体に対する敬意が見て取れる厳かな手つき。


 ミルカはダンがリグを後にするまで、その姿を見つめていた。

 

  ――このようにして、ミルカ・モナードは失業した。

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