第四話
「三十八から五十二番選抜、装填! ――抉れ!」
怜悧な声が響き渡ると同時に、篠つく雨が如き鉄矢が降り注いできた。そのうちの一本が、腕に喰らいついていたアイアンウルフの脳天に突き刺さったのを奇貨として、ミルカは氷の壁を展開して狼の群れから距離を取る。
その横にふわりと降り立ったのは、銀糸の如き髪を持つ青年だった。
背はミルカより頭一つ分高く、黒いパンツと編み上げのブーツに、深緑色のローブを身に着けている。深窓の令嬢さえ羨む白い肌は人間離れしてい、およそ色味というものが見当たらない。
その顔を唯一彩る色彩は、その瞳だろう。
引き結ばれた唇の大人びた雰囲気を裏切るように、きらきらとイノセントに輝くすみれ色の瞳。朝と夜が入れ替わる一瞬の刹那、あの胸が苦しくなるような暁の色を、冷たい雪どけ水で薄めたかのような清廉さを湛えている。
芸術品のように完成された色合いは、投射ライトを浴びてより一層透明度を増す。冷徹な表情の中に何か柔らかいものが秘められているような気がして、何度も何度も覗き込みたくなるような、人を誘う目だった。
――悪い人ではない。ミルカはそう直感した。
「あなたがミルカ・モナードですね。女性一人とは少し意外ですが」
放たれる言葉はきびきびとしている。
「あ、あなたは、ダンケルク・ハッキネン?葬儀社の?」
「はい。まずあなたにお詫びしなければなりませんね。このような場所で遺体保全は至難の業です」
「ご理解どうも。けど、どうやって降りてきたの?昇降機はまだここにあるのに」
「昇降機のワイヤーを伝って下りて来ました。こちらをお借りして」
そう言って掲げて見せたのはティムのカラビナだ。慣れた様子で腰の装具に引っかけ直しているところを見ると、このような荒事には慣れているのだろう。
それでも一キロ近くある距離を単身で降下してきたのだ。魔術の補助があったにせよ、並々ならぬ度胸と手腕である。
「寄生虫は」
「四匹、凍らせてあるよ」
「随分少ないようですが、まずはご遺体を確認しなければ。この下ですか」
「うん。でも、生憎だけど逃げた方がいいかも。アイアンウルフが一族総出でお出迎えしてくれる前にね」
「いえ。撤退はありえません」
きっぱり言い放ったダンケルクは狼たちを睥睨する。
「無傷のままご遺体を回収しなければなりません。邪魔するものは全て退けます」
「ばっ……馬鹿なのあなた?」
「違います」
「いや馬鹿でしょ。あの数をどうやって」
「倒します。――四番から七十番選抜、装填」
恐らくは詠唱型の彼の魔術は、切れ味鋭い鉄矢を自在に操るものだった。空間からぬるりと音もなく現れた夥しい数の鉄矢。アイアングレイのその色合いは、ダンケルクに忠実に付き従う影を想起させた。
「穿て」
浮かぶ鉄矢があやまたず狼の眉間を射抜く様は、いっそ痛快なほどだった。
ミルカは呆気にとられてその超絶技巧を眺める。ダンケルクにはまるで迷いというものがないようだった。足掻く狼たちが牙を剥いて彼に襲い掛かるが、無駄なことだ。軽やかにそれをかわしたかと思うと、もう次の瞬間鉄矢が狼のマズルを砕いている。
過たず急所を狙い、一撃で絶命させる手腕は見事だった。彼には躊躇というものがない。
「うわ、黙って突っ立ってたんじゃ警備隊失格だよね!」
自分を鼓舞するように叫んだミルカは、後れを取ってばかりはいられぬとばかりに一歩を踏み出す。羊皮紙を叩きつけ、眼前にぼうと現れた文様に、自分のマギを使って様々な意匠を書き足してゆく。
唐草文様にアラベスク、思いつく限りの意匠を捻じ込んだ。それを見たダンケルクが、
「ご遺体まで降ります。その間、アイアンウルフの相手をお任せしても良いですか」
「どうぞ!」
梯子にカラビナをかけたダンケルクは、鉄矢で狼たちを牽制しながらどんどん後ろ向きに降りてゆく。彼にとっては嗅ぎ慣れたドラゴンの臭いを感じながら、二十メートルほども降りた辺りだろうか。
ふと自分の呼気が白く霞むことに気づく。
そう言えば狼たちのぎゃんぎゃん喧しい声も遠ざかったようだ。訝しげに顔を上げた彼の目に飛び込んできたものは。
純白の壁。否、天井と言った方が的確だろうか。直径十メートルほどの井戸を塞ぐように、氷の膜が出来ていた。六花の模様のおまけつきだ。
それは完璧にアイアンウルフたちを退けていた。彼らが氷の蓋の上で右往左往している姿がうっすらと下から透けて見える。
そしてその天井のすぐ下、梯子に手をかけたミルカが、得意げな笑みを浮かべている。
「狼は遠ざけたわよ。今のうちにお仕事をどうぞ?」
「……お見事ですね。砕けぬ凍土の如き氷。この密度は素晴らしい」
ミルカは真っ直ぐな賛辞にきょとんとし、それから照れくさそうに笑った。
しかしダンケルクの方はにこりともせず、黙々と下へ降りてゆく。ミルカは少し鼻白みながらもその後を追った。
三十メートルも下ったところにドラゴンの死体はあった。
やはり大きい。井戸の直径が体長の半分くらいだろうか。下半身は壁面にめり込み、上半身は破損したパイプにもたれるようにぐったりとしている。牙が壁に食い込んでいる為に、ぎりぎり落下しないで済んでいるようだった。
近づくとやはり出血が酷い。壁面やパイプはほとんど血みどろ、タールを塗り込めたように汚れている。
ダンケルクは両手をそっと合わせて指を組むと、祈るように目を閉じた。それがこのドラゴンを悼む仕草であることにミルカが気づいたときにはもう、彼は仕事に取り掛かっている。
「二十三番から四十番、選抜、装填。浮け」
ダンケルクがそう命ずると、空中に鉄矢が束となって浮かび上がり、彼の動きに合わせて滑らかに動いた。横向きになったそれを足掛かりにして、ダンケルクは自由に空中を歩き回り、ドラゴンの死体の状態を記録し始めた。
ミルカは梯子にしっかりと体を固定したまま、彼の仕事ぶりを観察している。
「上顎部壊滅、右角破損……ああこれは吐酸種ですね。噴出孔も著しく損壊していますが、年齢はどうにか判明しそうです。この大きさ、体色からして北方の吐酸種でしょう」
「どうやって年齢が分かるの?」
葬儀社の青年は存外親切に教えてくれた。
「吐酸種は通常噴出孔――この下顎の舌下にありますが、ここから酸を吐きます。そのたびに噴出孔周辺の肌は傷つけられ、かさぶたになって年輪のような跡を残すのです。その年輪から判断します」
「ふうん。年齢が分かるとどうなるの?」
「ご遺族を見つけ出す手がかりになります。ドラゴンたちは家族や知人が行方不明になった場合、まず『箱庭』に捜索届を出しますから、その情報と突き合わせて特定します」
「ふうん。遺族、ねえ」
「ドラゴンの最も多い死因が何であるか、ご存知ですか。ミルカ・モナード?」
「転移魔術の失敗でしょ。それと私のことはミルカでいいよ。私もダンって呼ぶから」
「ではそのように。あなたの理解通り、ドラゴンが世界を制覇したのは、並外れた転移魔術の技術ゆえのこと。ですが、生まれついての旅人である彼らも、転移魔術に失敗する時があるのです。こんなふうに」
「だからって、こんなところまで突っ込んでこなくてもいいのに」
「死に場所を選べるのならば、こんな薄暗い地中で息絶えていないでしょう。……ああ良かった。下顎の永久歯が全部で十七本あります。逆さ鱗も生えている。これはアルハンゲリスク種で決まりですね。寄生虫はたったの四匹、あれで全部です」
顔を上げるダンは、ちっとも良いことなんてないような仏頂面をしている。けれど機嫌が悪いようには見えなかったので、ミルカは素直に頷いた。
「つまりそれって、あれ以上探さなくていいってことよね?確かに朗報だわ」
「はい。これからご遺体を搬出致します」
「どうやって?この巨体があの昇降機に乗るとも思えないし」
「転移魔術を使います」
そんなことも分からないのか、という軽い軽蔑を含んだ眼差しに、ミルカはむっと唇を噛む。しかし彼女の美徳は切り替えの早いところにある。すぐ気を取り直して、
「死体の上顎がずたずたになってるのはどうして?」
「遺体、と」
「ごめん、その遺体の上顎は転移魔術の失敗でそうなっちゃってるの?」
「そうとも言い切れません。他に考えられるのは、何ものかに襲われ、逃げる為に転移魔術を使ったものの失敗した、というケースでしょうか」
「確かに、逃げているときに座標の計算を誤って転移魔術を失敗した、っていうのもあり得るよね」
「お亡くなりになった瞬間のことは、この方にしか分かりませんが。それにしても、体内の酸を溜めておく袋が傷ついていなくて良かったです。もしそうであればご遺体も著しく損なわれてしまいますし、こんな鉄のパイプなどぐずぐずに溶けてしまっていますから」
そう言いながら、ダンは手にしたスノードームのような形の装置を、ドラゴンの下半身が埋まっている壁面に押し付けた。赤いダイヤルを二、三度動かして位置を調節すると、ガラスのドームの中で数字板がぱたぱたと動き始める。
転移魔術の為の座標計算機だ。あんな小型のものは見たことがない。きっと特注だ。
ダンはその計算機をもう一つ取り出すと、ドラゴンの顎がめり込んでいる壁面に据え付け、同じことをした。
この二つの計算機によって、ドラゴンの現在地の座標を特定する。そして地上の座標へと転移、変換するのだ。
転移魔術とは畢竟、座標から座標への移動に他ならない。いかに正確に座標を算出し、座標通りに魔術を執行できるかが鍵となる。座標を誤ったり、転移魔術の展開フローに誤りがあったりすると転移が失敗し、死に至る。
確かに転移魔術は便利だ。尋常ならぬその移動速度によって、ドラゴンはこの世界の覇者となった。しかし誤れば即死というのもまた、転移魔術の避けがたき負の側面である。 座標から座標へ移動する際に、一度体をマギの形に分解し、再構築するのだが、その再構築時に問題が発生すると死ぬと考えられている。
見た目は変わらなくとも、再構築時に何かをしくじれば、死ぬ。まるで魂を抜かれたようだと表現する者もいるが、それを前時代的だと言えるだけの確証はない。
そもそも、生と死を分かつものが何であるのかさえ分かっていないのだから。
ともあれ、転移魔術の失敗による死は、ドラゴンの死因の中でもかなりポピュラーなものではないかと考えられていた。
計算機も十分にミルカの興味をそそったが、それよりもダン自身の魔術の能力に驚いていた。鉄矢をまるで自分の手足のように操り、少しでも足を踏み外せば底の見えぬ井戸に落ちてゆくと言うのに、ちっとも怯えることなく自由に空中を歩き回っている。コントロールもさることながら度胸が生半可ではない。
「ねえねえ、魔術はどこで勉強したの? 私あなたみたいに冷静に魔術を使うひと、見たことがないよ」
「独学です」
「ほんとに? トリニティ・スクールとかの講義を受けているとか?」
「義務教育以外は一切受けていません」
「てことはジュニア・スクールどまりなの! すごい、なのにその魔術のコントロール!矢に元々仕掛けしてるとは思うけど、それでも短い音韻で正確に操れるのがびっくり」
「ミルカ。うるさいです」
「あ、ごめんなさい。この程度の褒め言葉なんて言われ慣れてるよね。でもほんとうにすごいと思ってるんだよ?」
「いえ、そうではなく。……天井」
ダンが上を指さす。びりびりと震える氷の天井の上に、夥しい数のアイアンウルフの影が見える。遠吠えのような、唸りのような特殊な声が共鳴し合い、氷もろとも鉄のパイプを振動させている。
ミルカの顔色が変わった。
「……まずい、女王が来る!」
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