第三話

 まずは音。マギの漏出は止めたと技術者は言っているが、シュウシュウという蛇の威嚇音にも似た音が、ずっとパイプの隙間から漏れ続けていた。

 マギが空気中に充満している状態で魔術を使えばその効果は跳ね上がる。威力のコントロールには細心の注意を払う必要があるだろう。


 そして匂い。重ったるくて頭がくらくらするような硫黄の刺激臭と、その奥に感じるハーブのようなすっとした香り。ドラゴンの体臭だろうか。

 それを覆い隠してしまうほどの鉄錆の匂いは、恐らく流血によるものだろう。あるいはパイプの錆か。いずれにせよ長く嗅いでいたいものでもない。


 昇降機からそうっと下りる。当直の隊員の姿は見当たらない。ミルカはその事態に顔をしかめる。


 地震や自然災害時は無論隊員たちも避難することができるが、それ以外のイレギュラーについて、隊員たちはその場に留まって事態に対応することが求められている。有事のための警備隊なのだ、その理屈はミルカも良く呑み込んでいる。


 その隊員がいないということは、何か剣呑な事態が起きていることを意味する。ただ怯えて逃げただけならばまだ良いが、事故が起きて動けない状況になっているとしたら厄介だ。

 一番考えられる可能性は井戸底への落下だが――であればもはや助けようがない。

 電信通話機でリグ上の警備隊と言葉を交わす。


 「第二区画の当直隊員の行方が分かりません。落下の可能性高いです」

 『了解した。救助隊は別途向かわせる、まずはドラゴンの様子を確かめてくれ』

 「了解」


 何かあった時の逃走の足として、昇降機の箱は第二区画に留めたままにしておいた。投射ライトがしらじらとパイプを照らしている。


 「うわっ、ここまで血が飛んでる」


 第二区画と第三区画の境界、隊員たちが詰める場所は簡素なコンクリートでできている。長居することが想定されていないため、突貫工事の果ての代物だ。安全性など担保されていようはずもなく、人間が三人も並んで立てば、少し狭く感じるほどのその空間に、僅かながら血の飛散痕が見えた。

 ミルカは口元を覆い、そうっとパイプの下を覗き込んでみる。


 「わッ」


 視界の端に白いものが過ぎった。反射的に飛びのく。


 ノミのように跳ね上がってきたのは、蜘蛛のように長い脚を持つ白い虫だった。大きさは子犬ほど。虫らしい長い白黒模様の触覚と、不気味な複眼を有しているから虫と認識したが、このリグ内でこのような生き物を見かけたことはなかった。


 「うええ、気持ち悪い」


 長い脚を除けば体はやけに平たいが、これが所謂寄生虫だろうか。確か葬儀社のダンケルク・ハッキネンは、これも逃さず凍結させろと言っていたが――。


 寄生虫は脚をわななかせながら、また飛び上がって来た。ミルカの身長程度までは軽くジャンプできるらしい。一体どれほどの高さまで飛び上がることができるのか、皆目見当がつかないが、これを地上へ逃してしまうのはまずい。


 ポケットの中を爪繰って取り出した羊皮紙には、円環の補助文様が赤いインクで描画されてある。それを空中に叩きつけて浮かび上がらせ、唐草文様などの線を目にも止まらぬ速さで加えた。

 眼前で蛍のように明滅する文様にマギを注ぎ込めば、魔術が展開される。

 赤い文様がぱっと花火の如く空中に散ったかと思うと、寄生虫の足の先端から白い霜が浮き始める。


 はあっと吐く息が白むのも僅かのこと。


 足先から這い上がった冷気は瞬く間に寄生虫の全身を抱きすくめ、命を奪った。氷漬けになった寄生虫だったものは、ごとりと音を立てて床に落ちた。

 ブーツのつま先で突いてみるが反応はない。氷は寄生虫にとって有効な対処法であるようだった。


 「これが効くんなら大丈夫かな?」


 寄生虫と言われて少し不安だったのだ。暗くて湿った場所を求めて、目や口などに入り込もうとしてきたらどうしよう、などと考えていたミルカにとって、自分の魔術で対処できるという事実は励みになった。


 「呪文詠唱型の魔術も、も少し勉強しておけば良かったかな。でも苦手だしなあ……」

 

 魔術を展開する為にはキーが必要となる。文様描画、あるいは呪文詠唱がそれにあたる。

 

 文様描画型の魔術展開の特徴として、時間がかかることが挙げられる。呪文詠唱型であれば、口頭で魔術のキーになる単語を発語しさえすれば魔術が展開されるのに対し、いちいち描画の手間を取らなければならない。

 その代り、描画する文様を組み合わせることによって、複雑な魔術を展開することができるのもまた、文様描画型の特徴だ。この箱庭において、魔術を扱う術士たちは、ほとんど例外なくどちらかの手段を選んで魔術を展開する。

 

 稀に両方の手段を組み合わせるハイブリッド型もいるが、かなりの器用さを要求されるため、自分がお世辞にも器用でないことを自覚しているミルカは、文様描画のみを好んで使う。

 デメリットである即時展開の難しさも、あらかじめ補助文様を準備しておくことでカバーしていた。もっとも事前準備が大切という点においては、呪文詠唱型の魔術も同じことだが。


 マギの塊である輝聖石を込めた光線銃があれば、呪文詠唱や文様描画など面倒な手段を踏まずとも、高威力の魔術を展開することが出来るが――。

 持っている人間は少ないし、かなり高価だ。輝聖石というものが既に貴重なマギの塊であるし、光線銃ともなれば複雑な魔術展開様式を仕込まれている一級品である為、よほどの金持ちしか持つことが出来ない。

 

 結局、素直に魔術の腕を磨くのが、強い術士になる為の近道なのである。

 

 それからミルカは続けざまに三匹の寄生虫を発見し、首尾よく凍結させていった。

 

「これで合計四匹の寄生虫を確保したことになるのか。でも、どれだけの数を見つけ出せば良いのか分からないし、まだどこかに隠れてるかも知れないんだよね。油断禁物!」

 

 ミルカはもう一度パイプの下を覗き込んだ。つんと香る異界の匂い。

 少し考えてから、背中の電信通話機をしっかりと背負ったまま鉄梯子を下り始めた。


 二分ほど下ったところで、右足が何かに滑って梯子を捉え損ねた。慌てて両手で梯子を掴み足元を確認する。


 「わ……び、びっくりした」


 血だった。ねばついていて、タールのような感触だ。ドラゴンの血とは噴出した瞬間からこういうものなのか、それとも時間が経つとこうなるのか。

 カラビナで梯子に体を固定し、身を乗り出して下を見た。

 幸運、というべきかどうなのか不明だが、ドラゴンの体は真っ直ぐパイプに突っ込んで行ったようで、ミルカの位置からもでろりと垂れた分厚い舌がよく見えた。


 下半身は地中に埋まっているようだが、露出した上半身の大きさから察するに、体長十五メートルほどだろうか。このドラゴンは大きい方なのか、それとも小さい方なのか、それさえも見当がつかなかった。


 専門的なことは葬儀社の人間に任せればいい。そう思ってミルカはさらに観察を続ける。


 蝙蝠にも似た膜翼はくしゃくしゃになって体に纏わりついている。破れているところもあるので何とも言えないが、体長に比してあまりにも小さい。ドラゴンはその翼によってではなく、その魔術によって飛翔しているのかもしれない。。

 ワニのような口元の上顎部分は、よく見れば欠落しているのではなく、肉叩きでミンチにされたかのように砕けていた。ちらちらと見える白いものは骨だろうか。


 痛々しいと思うと同時にミルカは僅かに安堵した。もし上顎が欠落していたならば、ダンケルクが言う遺体保存の原則に従い、上顎部分をも探さなければならない。それはこの井戸の最下層まで、危険を冒して潜ることと同義だったからだ。


 しかし安心していられたのもつかの間。


 剣呑な視線を感じて振り向けば、壁面に空いた巣穴から、輝く四対の目がミルカを凝視していた。四体、アイアンウルフが狩りをする際の最小構成単位。


 彼らの脅威はその牙にある。鉄(くろがね)さえ喰いちぎるその咢に捉えられたが最後、人の肉など砂糖菓子も同然。

 ここは足場が悪い。

 

 ミルカは猛然と梯子を上り始める。それでも、血で滑りそうな場所はカラビナで体を固定しながら慎重に動いた。見た目によらないその慎重さは彼女の美徳である。


 その間にもアイアンウルフが鉄よりも固いその爪でパイプにしがみ付き、ミルカに飛びかかろうとしている。

 再びポケットの羊皮紙を取り出したミルカは、中空に描かれた文様に何も描き加えず、そのままマギを流し込んだ。絶対零度を誇る氷の壁が空中に浮かんで、牙を剥く狼から彼を守る。


 氷の壁に弾かれた狼は、空中で器用に姿勢を変えて、再びパイプにしがみ付く。爪と鉄がこすれて耳障りな音を立てた。

 たかだか一撃を防いだからといって油断してはいけない。舞うような、畳み掛けるような狼たちの攻撃は、一瞬でも気を抜けばすぐに喉元に迫ってくる。


 「うわっ」


 背負った電信通話機に噛みつかれ、その重みで上半身ががくんとのけぞる。咄嗟に電信通話機を振り落としたおかげで落下は免れたが、大事な連絡手段は狼もろとも井戸の底に落ちて行ってしまった。


 それを嘆いている暇はない。

 氷の壁を次々と出現させて狼たちが近寄れないようにしつつ、彼らを煽ってドラゴンの死体から気を逸らすのも忘れなかった。狼は生き血も死肉も平等に喰らう。


 どうにか第二、第三区域の境界にたどり着くことに成功したミルカは、土壁に背中をつけて太腿のベルトからナイフを抜き取った。ナイフの刃には、唐草模様の如き文様が緋色のインクで刻まれてあり、羊皮紙と合わせて使えば、狼の牙に引けをとらぬ威力を発揮する。


 「お願いだから仲間を呼ばないでよね」


 羊皮紙を四枚、空中に叩きつけて文様の土台(ベース)を作る。そこにナイフを突き立てれば、唐草模様がじんわりと土台の文様に滲み出て、新たな意匠を形作った。

 円環に蛇が絡みつき、その中を唐草や千花(ミル・フルール)の模様が埋め尽くす、丁寧で執念深い文様―。これがミルカの魔術の威力を高める。赤い模様がちらちらと誘うように揺らいでいる。


 この瞬間いつもミルカは思う。水中に血を溶かすようだと。想起するのは白いバスタブにとろりと流れ込む鮮血。水中で蠱惑的にうごめく血の軌跡。それを気だるげにかき混ぜる、蝋のように白い指――。


 ミルカは頭を振ってその白昼夢を払いのけると、ナイフにマギを注ぎ込んだ。

 文様がナイフに染み込むのを確認し、油断なくこちらを見ている狼の喉を狙う。

 野生のけもののことだ、人間ののろまな攻撃など難なく避けられてしまう。

 

 だが、ナイフが毛皮を掠めるだけで良かった。目的は達せられた。

 

 ギャンと狼が鳴く。ナイフが掠めた前足からつららめいた氷の柱が出現し、瞬く間にその一頭を取り込んでしまった。井戸内にマギが充満しているせいか、想定以上の威力が出たようで、氷柱はミルカの身の丈二倍ほどの高さがあった。

 

 異変を察知したアイアンウルフが大きな遠吠えをした。井戸内に朗々と響いている。

 

 「ああもうっ、仲間を呼ばれた!こうなったら女王のお出ましも時間の問題かもね……!」

 

 ミルカは続けざまにナイフを文様に突き立て、三頭のアイアンウルフに襲い掛かる。足場が狭いためか、彼らの体に傷をつけるのはそう難しくはなかった。

 

 ほどなくして彼女は、出来上がったアイアンウルフの氷漬けと対峙する。

 

 なめらかな氷柱の表面に自分の青白い顔が写っている。鏡面の如き氷の完成度はそら恐ろしいほどで、ミルカはふっと苦笑する。

 こんなときは少しだけぞっとする。純度の高い氷を生み出せる自分に、その身に流れる血に。

 

 怖気を振り払うように首を振ったミルカは、沈黙する氷にそっとナイフの先端を寄せる。

 光る刃のひと撫でで、氷柱は粉々に砕け散った。投射ライトのきつい光に氷の破片がぎらぎらと光っている。

 それは目標を完全に封じ込める氷の棺。ミルカの十八番だ。掠るだけで目的を達する錬度の高い魔術は、狭い場所で複数を相手取るのに適している。

 警備隊の中でもミルカの戦闘技術は図抜けて高かった。特に氷の魔術に関しては、リグにいる術士でさえも敵わない程の精度と威力を持っていた。

 

 ――けれど、そんな彼女でも絶句する光景というものがある。

 

 けだものの息遣いと視線を感じたミルカは、ふと顔を上げてぐるりを見渡す。

 ふはっ、とこぼれた笑いに覇気はない。


 「……嘘でしょ」


 仲間の断末魔を聞きつけたアイアンウルフたちは、どうやら群れ総出でやってきたらしい。爛々と輝く目が何対あるのか、数えるのさえ厭わしかった。

 通常であればアイアンウルフは二十頭から三十頭ほどの群れを構成し、地中で穴を掘って暮らしている。しかしそれはあくまで普通の、マギが無い地層での話である。


 マギが充満し、喰うものに困らない井戸の元で、狼たちは繁栄を謳歌する。

 この辺りの群れの特徴として、女王と呼ばれる巨大な個体の存在があった。狼たちはさながら蟻の如く、生まれた瞬間からその役目を任ぜられており、女王のために身を粉にして働く。保身を考えず、ただ女王を守るためだけのその動きは、精鋭揃いの警備隊をしてただのでくの坊へとならしめる。

 このリグに限らず、マギ採掘現場における警備隊の死亡率は、年間約二パーセントにも上る。死亡事例の半数は、アイアンウルフの攻撃によるものだと知らぬ者はいない。


 確認できる気配は五十を超えている。さしものミルカも、これだけの数に取り囲まれれば、逃げる以外の選択肢はなかった。


 じりじりと昇降機の方に向かうミルカ。壁に爪をしっかりと喰いこませた狼たちは、不安定な足場などものともせずにじっくりと距離を詰めてくる。

 何頭かをけん制しながら昇降機に乗り込んだ、その瞬間、三頭の狼が後ろから突っ込んできた。


 「うあっ」


 太い前足で突き飛ばされて昇降機からはじき出されたミルカは、素早く立ち上がって壁面に背中をつける。

 すかさず飛びかかってきた狼の鼻づらを蹴り飛ばし、続けざまに噛みついてきた個体の顔面目がけてがむしゃらにナイフを突き立てた。

 それでどうにかできるのはせいぜい数体程度だ。ミルカの頭に、噛み砕かれて肉の塊と化した自分の未来が過ぎる。


 悪い妄想だ。けれど現時点では一番実現可能性が高い。まずい。どうにかしなければ、ドラゴンの死体どころの話ではない――。


 氷の壁、ナイフ、分厚いブーツに包まれた足、持てる全てを総動員してアイアンウルフの牙を必死にしのいでいたが、それにも限界が訪れる。腕に噛みつかれ、物凄い力で床に引き倒されそうになった。


 背中を土面につけながら必死に抗う。しかし腕に喰いこむ牙の痛みは筆舌に尽くしがたく、流れる血が肌を伝ってゆく感触に、ふとミルカはなぜこんなに抗っているのだろうと呆然とした気持ちになった。


 死が俄然現実味を帯びて突き付けられた、その時だった。

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