第40話

「バイト、どうだった?」


 帰って来るなり柚葉に問いかけられ、藤花はため息をつく。


「やめたい」

「もう?」

「働くの辛い」


 正しくは“働くことが辛い”ではなく、“佐久間美芳という店長と働くことが辛い”だ。


 美芳は、藤花が知らない前世を知っている。しかも、それを思い出させようとしている。藤花も前世の記憶を探してはいるが、彼女のやり方は受け入れられない。


 淡藤と蘇芳の間に何があったのか。


 それは気になる。

 しかし、まだ美芳という人間を信用することができない。言葉遣いは丁寧だが、どことなく怪しげなものを感じる。


 初めての電話であまり良い印象を持たなかった。


 それは、今も変わらない。きっと、この先も変わることはないだろうと思える。美芳の人柄がどうであれ仕事はしっかりとやるつもりだが、憂鬱になる気持ちはどうにもできない。


 藤花はソファーに座り、近寄ってきたにゃあこを撫でる。


「店長さんが藤花のこと褒めてたみたいだから、頑張りなさい」


 友人から聞いたらしい情報を伝える菫の声がキッチンから聞こえ、からかうように柚葉が言った。


「さすが元社会人」

「馬鹿にしてるでしょ」

「お店行くね」

「来なくていい」


 テレビのチャンネルを変えながら、柚葉に告げる。


「あ、今の見てたのに」


 チャンネルを戻せと向かい側から声が飛んでくるが、藤花は聞こえないふりをする。ぶつぶつと文句を言う柚葉をあしらっていると、菫がやってきて思い出したように言った。


「そう言えば、この前の子。あのカフェには来ないの? 学校近いじゃない」


 菫が知っていてカフェに近い学校に通っていると言えば、菖子しかいない。


「来るかもしれないけど、今、来たら困る。仕事、まだ慣れてないし」

「じゃあ、明日、慣れてないお姉ちゃんを見に行こう」

「来たら、料金五倍ね」

「ぼったくりカフェだ」

「なんなら、十倍にしてもいい」

「大学生は忙しいから、明日は行かないかな」


 柚葉がわざとらしく言ってから、「でも、近いうちに行くね」と付け加えた。


 こういうことがあるから、接客業は避けていたのに。


 藤花は望まないアルバイトに大きく息を吐き出す。

 しかし、決められた期間は働かなければならない。

 頭が痛くなりそうでこめかみの辺りをぎゅっと押さえると、菫に問いかけられた。


「藤花、ごはんどうするの? 作ってあるけど」


 良いことがない日も減るものは減る。

 遅めの夕飯をとることにしてソファーから立ち上がり、キッチンへ向かう。食事の準備を始めても、リビングから飽きもせず柚葉が話しかけてくる。機械的に相づちを打ちながら夕飯を食べて、後片付けをする。そして、シャワーを浴びると瞼が重くなった。


 目的のない一日に比べると、睡魔が早足でやってくる。藤花はベッドに寝転び、目を閉じた。


 暗闇の中、早々に意識を手放す。

 次に目を開いたときには、朝が来ていた。

 疲れていたのか、普通の夢も見ていない。


「あー、行きたくない」


 ネガティブな言葉を口に出すと、気持ちがそれに引っ張られる。家からどころか、布団からすら出たくなくなって、藤花は体を丸めた。だが、目を閉じても眠たくはない。マイナスの思考は神経を波立たせ、目が冴えてくる。


 仕方なく布団から出て午前中を過ごせば、すぐにカフェへ行く時間がやってきて、藤花は駐車場へ向かった。


 仕事は難しいものではない。

 店内も落ち着いていて、客として訪ねたなら常連になっていただろう。美芳がいなければ、好みの空間であることは間違いない。だが、店長である彼女がいないということはありえなかった。


 道は夕方のように混むことがなく、すんなりと目的地に着く。

 車を停めて、店の裏へと回る。

 昨日よりも重く感じる扉を開けて中へ入り、荷物を置く。制服代わりのエプロンをつけて店へ回ると、美芳が待っていた。


「今日もよろしくお願いします」


 短く挨拶をすると、何事もなかったかのように仕事が始まる。

 昨日、前世の話をしたことが嘘のように、美芳は何も言わない。


 店も相変わらず、アルバイトが必要なのかと疑うほど客が少ない。藤花は沈黙に気まずさを感じるが、美芳は前世の話どころか不必要なことは口にしなかった。


 夕方になると、泉野高校の生徒が何人かやってくる。

 美芳はコーヒーやケーキを用意し、藤花がそれを運ぶ。


 客が来て、帰る。

 今日も席が半分埋まることがなく、藤花は来客を告げるドアベルが鳴るたび機械的に「いらっしゃいませ」と返す。

 そんなことを繰り返していると、聞き覚えのある声に名前を呼ばれる。


「藤花」


 店の入り口をよく見ると、いつかは来るだろうと思っていたが菖子が立っていた。隣には翠もいる。


 できれば美芳に全てを任せて裏方に回りたかったが、注文を取りに行くという仕事から逃げ出すわけにはいかない。藤花は笑顔を貼り付けて、菖子たちが座るテーブルへ行く。


「お久しぶりです」


 喜んでいるとは思えない表情で翠が言い、菖子もカフェのメニューとは関係のない言葉を紡いだ。


「バイトってここだったんだ。教えてくれれば良かったのに」

「もう少し慣れてからと思ってたんだけど。ここ、よく来るの?」

「ううん。でも、これから毎日来ようかな」

「落ち着かないからやめて」


 菖子が来ることが嫌だというわけではない。

 柚葉も含め、親しい人間であれば誰であれ同じ反応をすることになる。働いている姿を親しい人間に見られていると、監視されているようで落ち着かない。


 だから、今もできることなら菖子と翠を追い出したいと藤花は思う。


「お客、追い返したりしないよね」


 心を読んだかのように菖子が言って、付け加える。


「これからも、藤花の顔見に来るから」

「会うなら、ここじゃないところで会いたいんだけど」

「バイトがある日は会えないんでしょ?」

「そうだけど」

「じゃあ、ここに会いに来るね」


 藤花は、嘘ではないであろう言葉に大きく息を吐き出す。


 初めて会ったときから、菖子は強引だ。

 藤花の意思など関係ないように振る舞う。

 だが、その奧に不安が隠されている。


 ――真夏日の高台。

 八つ下の高校生が背伸びをしていることを知ってしまった。そのせいか、菖子が傍若無人な行動をしたとしても不快だとは思わない。いや、それを知る前から菖子のことを心底嫌だと思ったことはなかった。


 美芳とは違う。

 彼女は菖子と同じように強引だが、菖子とは違い受けいれがたいものがある。


 理由はよくわからない。

 前世が関係しているのかもしれないが、今の藤花には知る由もなかった


「で、注文は?」


 いくら客が来ない店だと言っても、いつまでも仕事とは関係のない話をしているわけにはいかない。藤花はオーダーを取って、美芳の元へ向かう。


「アイスコーヒー二つとショートケーキ二つお願いします」


 カウンターの奧に声をかけると、美芳が注文ではなく注文をした客について問いかけてくる。


「知り合いですか?」

「そうです」

「あの髪、菖蒲ですね」


 菖子の外見について口にした覚えはない。

 だが、彼女の進学校の生徒とは思えない髪色は前世と繋がる色をしている。美芳が断定的な口調になるのも無理はなかった。


 しかし、藤花は答えに迷う。

 仲が良かったとは思えない二人を引き合わせても、良い結果になるとは思えない。特に美芳は、菖蒲には近づきすぎない方が良いと告げてくるほどだ。


 どう答えるべきか藤花が考えていると、美芳が言った。


「大丈夫ですよ。私が蘇芳だってことはまだ言いませんから」

「……まだ?」

「ええ、まだ言いません。でも、川上さんが言いたいなら止めませんよ」


 何かを企んでいるのか、美芳が笑みを浮かべながら藤花を見る。

 あまり良い予感がしない。

 話がこじれる前に自分の口から美芳が蘇芳であることを菖子に言うべきだと思うが、仕事をしている今はその時ではない。


「私もまだ言いません」


 時間と場所を改める必要がある。

 アルバイトが休みの日が良い。

 藤花はカレンダーを頭に浮かべながら、アイスコーヒーとショートケーキをテーブルへ運んだ。

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