知らない記憶
第39話
続きが見たい。
夢の世界から引きずり出された藤花は、もう一度目を閉じる。だが、遠ざかった夢が近づいてくることはなかった。
「蘇芳、見られなかったじゃん」
ため息交じりに呟いて、体を起こす。
目が覚める前に見た夢は前世の夢で、菖蒲の部屋に蘇芳が訪ねてきたところで途切れた。
蘇芳の姿や性格はわからないが、蘇芳という人物がいたことは間違いない。菖蒲の反応から、二人が不仲だということも確かなようだった。
せめて姿だけでも見たかった。
連続ドラマが次回への期待を高めるシーンで終わるように、“良いところ”で終わってしまった夢に藤花は二度目のため息をつく。
現実に似た質感を持つ夢は、自在に見ることができない。今、無理矢理眠ったとしても夢の続きを見られる保証はなかった。だから、蘇芳の姿を見たいという願いは諦めるほかない。
藤花は、足元で丸まっているにゃあこを撫でる。小さく「んにゃ」と鳴く猫を引き寄せて抱きしめてから、時計を見る。
「早く起きすぎた」
午後だけと言われたカフェのアルバイトが始まるまで六時間以上あって、大きな欠伸が出る。
仕事を辞めてからずっと自堕落な生活をしていたが、今日は目覚ましが鳴るはるか前に目が覚めた。まだ寝たりないような気もするが、目はぱっちりと開いている。
緊張のせいかもしれない。
『来週からバイトだから。週五で働いておいで』
強引な菫に逆らうことができず、気が進まないまま数日を過ごした藤花は、今日からカフェで働くことが決まっていた。これから経験したことのない仕事をしなければならないと思うと、神経がぴんっと張って気持ちが落ち着かない。
藤花はにゃあこを床へ下ろし、キッチンへ向かう。
朝食を作って食べるが、味はよくわからなかった。SNSのチェックをしても、新しい情報はない。本を読みたいとも、テレビを見たいとも思わない。
菖子からのメッセージに返事をして、ノートパソコンを何となく眺める。カフェでアルバイトをすると菖子に伝えてはいるが、その場所までは教えていない。
菖子のことだ。通っている高校の近くで藤花が働くと知れば、間違いなく訪ねてくるだろう。
アルバイトの初日に親しい人間がやってくるかもしれないと思うと、緊張が倍になる。しなくていい失敗をしてしまいそうで、藤花はそのうち教えるから待っていてくれと菖子に頼んでいる。
働くということ自体も久々だ。
その上、菫の友人の店だと思うと気が重くて、藤花は早く仕事を見つけなかった自分を呪いたくなる。しかし、悔やんでいても菫に押しつけられたアルバイトはなくならない。
気がつけば数時間が経っていて、藤花はノートパソコンの電源を落とす。
「お昼には早いけど、食べておくかな」
午後二時から七時まで。
そういう約束で働くことになっている。
初日から遅刻するなどということがないように、早めに昼食をとって出かける用意をする。
「そろそろ行くか」
約束の時間より早く着きそうだが、遅れるよりはいいかと家を出る。車を走らせて路地裏にあるカフェへ向かう。道は混んでいることもなく、藤花は二十分ほど早く店に辿り着く。
指定の場所に車を停めたものの、従業員がカフェの入り口から入って良いものか迷う。裏口がどこにあるかは聞いていない。藤花は、どうしたものかと窓から店内を覗いた。
「……誰もいない」
カウンターとテーブル席が三つ。
こぢんまりとした店には客もいないが、店主らしき人物も見当たらない。誰もいないならばと木でできたドアを開けると、カランカランとドアベルが高い音を鳴らした。
「すみません。誰かいらっしゃいますか? 今日からこちらで働くことになっている川上です」
カウンターの中を覗き込むようにして、声をかける。すると、すぐにバタバタと奧から店主らしき女性がやってきて時計を見た。
「早いですね」
「すみません」
「いいえ。早く来ていただいて助かります。私は店長の佐久間です」
慌ただしい登場とは異なり、落ち着いた声音で名乗った佐久間は母親の友人のはずだ。
――それにしては若い。
藤花は、佐久間をまじまじと見る。
歳が上だとしても、そう離れているようには見えない。肩よりも少し短い髪は茶色に染められ、くせ毛なのかパーマなのかわからないがふわふわとしていて柔らかな印象がある。
「店長として店に出ているのは私ですが、ここのオーナーは私の母親なんです」
佐久間が藤花の口にはしない疑問に答えた。
「そうなんですか」
「川上さんのことは母から聞いています。接客業は初めてなんですよね?」
「そうです」
「それほど難しいことはないので大丈夫ですよ。見ての通り、そんなに忙しくもないですしね。歳も変わりませんし、気楽にやってください」
「歳、変わらないんですか?」
「川上さんの一つ上です」
佐久間が想像とそう変わらない年齢を告げてから、オーソドックスな胸当て付きのエプロンを手渡してくる。
「聞いていると思いますが制服はないので、これを付けてください」
「はい」
短く答えてエプロンを身につけると、これからすべきことを説明される。
オーダーの取り方。
レジの打ち方。
料理をする必要はないが、運んで欲しいこと。
佐久間から告げられたことは、彼女の言葉通りそう難しいものではないようだった。実際、働いてみるとやるべきことは問題なくこなせる。そんなに忙しくもないという言葉も間違ってはおらず、店内は席が半分埋まることすらなかった。
この店にアルバイトは必要なのか。
そんなことが頭に浮かぶほどだったが、初日にはありがたい仕事量で、七時になる頃には緊張も解けていた。
「後は私がやりますから、帰っても大丈夫ですよ」
店を閉める前にカウンターの向こうから佐久間に言われ、藤花は彼女を見る。
「掃除とか良いんですか?」
「大丈夫ですよ。七時までという約束ですし」
「時間なら大丈夫です。良ければ、やらせてください」
菫が言っていたように時給は良い。だが、その時給は仕事量に見合ってはいなかった。
このまま黙って帰るというのも気が引けて申し出た藤花の言葉に、佐久間が笑顔を見せる。
「じゃあ、お願いします。淡藤さん」
「――え?」
聞き慣れた名前だが、ここで耳にするはずのない名前が聞こえて、藤花は思わず聞き返した。
「違いますか?」
「誰ですか、それ」
昼過ぎにこの店に来た時と変わらない声で話すべきだと思いながらも、声が硬くなる。
目の前にいるのは前世の仲間らしいが、心当たりはない。
覚えのない相手に、素直に淡藤だとは言えなかった。
「声、同じですよね。電話と」
「電話って何のことですか?」
尋ねながらも藤花の頭には、蘇芳の名が浮かぶ。
電話で話した前世の仲間は、菖子を除けば彼女以外にいない。
「私はすぐに気がつきましたよ。淡藤だって」
佐久間がそう言って、カウンターから店の入り口へと向かう。
「店を閉めますから、ちょっと待っていてください」
扉の鍵を閉め、窓のブラインドを下ろす。
店内を外界から切り離してしまうと、佐久間が言った。
「座って話しましょう」
テーブル席を指さし、佐久間が椅子に腰掛ける。
初めての職場に緊張していて気がつかなかったが、佐久間の声は電話で聞いた蘇芳の声に似ている。
「佐久間さんは、蘇芳なんですか?」
藤花は、佐久間の向かい側に座って尋ねる。
「そうですね。電話だけではなく、実際に会えて良かったです」
「……どういう手を使って、母親同士を友だちにしたんですか?」
「何もしてません。本当に友だちだったんですよ。だから、淡藤がバイトに来ることになったのは偶然です」
軽薄ではないはずなのに信用のできない声音で佐久間が言い、「運命かもしれませんね」と付け加えた。
「それで、こうやって実際に会ってみても私のことを思い出しませんか?」
「……思い出しません」
「ですよね。前世とは外見が違いますし。――じゃあ、これなら思い出しませんか?」
そう言うと佐久間が立ち上がり、藤花の腕を掴む。
嫌な予感がする。
藤花は反射的に身を引くが、指が食い込むほど腕を強く掴まれて逃げ出すことができない。テーブルの向こうにいた佐久間の顔が近づく。
肩を掴まれ、唇が触れそうなほど距離を詰められる。
佐久間がしようとしていること。
それが何かはっきりとわかり、藤花は唇が触れる前に彼女の口を手で塞いだ。
「――どういうつもりなんですか、これ」
手を離して問いかけると、佐久間が小さく息を吐いた。
「本当に覚えてないんですね。私のこと」
まるでキスが記憶を呼び覚ますきっかけになるもののように、佐久間が言った。
しかし、藤花には蘇芳に関する記憶がまったくない。菖子に話を聞いても思い出しもしなかった。夢には、名前しか出てきていない。この状態で記憶のトリガーになると思われることをされても、何かを思い出すとは考えられなかった。
そもそも、淡藤と蘇芳、二人がそういう関係だと誰からも聞いていないのだから、キスが何かを思い出すきっかけになるはずがない。
「佐久間さん、手を離してください」
「
藤花も、キスを記憶を呼び覚ます手段の一つにしたことがある。それを考えると美芳に文句を言う権利はないのかもしれないが、ここまで強引にはしていない。
あまり気分が良くない。
藤花は冷ややかな目を美芳に向ける。
「佐久間さん」
美芳でもなく蘇芳でもない名前を呼ぶと手が離され、藤花は立ち上がって歩き出す。
「帰るんですか?」
「掃除します」
やらせてくださいと言ったのは自分だ。
このままなかったことにして帰ってしまえば、逃げ出したように見える。
藤花は掃除道具を持ってくると、手早く掃除を済ませる。
「お疲れ様でした」
ぺこりと頭を下げてから佐久間に背を向け、従業員の出入り口がある裏手へと向かう。
「明日もよろしくお願いしますね」
背中にかけられた声は明るいもので、藤花は勝手にアルバイト先を決めてきた菫を恨まずにはいられなかった。
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