記憶の欠片-猫のぬいぐるみ-

第38話

 清廉さを表す白というよりは、醜悪なものを隠すような白で覆われた部屋は相変わらず落ち着かない。小さな窓の外を見ても変わらない風景があるだけで、気分が晴れることもなかった。


「つまんない」


 ベッドにごろりと横になって、淡藤は何度口にしたかわからない言葉を吐き出す。


「どこにいても、そんなに面白いことなんてないでしょ」


 ベッドの端に座った菖蒲が呆れたように言って、淡藤の髪を撫でる。


「そうかなあ。外にいれば、もう少し面白いことあると思うけど」

「じゃあ、面白いことする?」


 菖蒲の声とともに、淡藤の視界から白い天井が消える。かわりに赤みがかった紫色をした髪が目に映り、鼻先に甘い香りが漂う。

 頬に触れる長い髪に思わず目を閉じると、唇を塞がれる。


 菖蒲の指先が首筋に触れ、すぐにブラウスのボタンを二つ外される。唇もそれを追いかけるように下へと向かい、鎖骨の上に押しつけられた。


「これ、面白いことなの?」


 淡藤は菖蒲の肩を押して、体から引き剥がす。


「つまんない?」

「つまんないわけじゃないけど、今はいい」


 胸元に吸い付く唇は柔らかで、心地が良い。

 だが、今はその先を許すような気分にはなれない。


 体に纏わり付く退屈は重苦しく、息が詰まる。快楽に沈んで忘れるよりは、木々を揺らす風で吹き飛ばしてしまいたいと淡藤は思う。しかし、外へ出ることは叶わない。


「そう言えば、青竹さん戻って来ないよね。医務室行ったのって、二週間くらい前だっけ?」


 淡藤は体に触れてくる諦めの悪い手を捕まえて、仲間の名を口にする。


 三歳上の青竹は、淡藤と菖蒲の“先輩”にあたる人物だ。菖蒲が塔に来た時にはもうすでにこの塔の住人だったようで、彼女も青竹のことは呼び捨てにしない。穏やかな性格で、淡藤も何度か助けてもらったことがある。


 その青竹が医務室に行ったまま戻って来ない。

 菖蒲の気持ちをそらすことが目的で口にした名前だが、気になっていることは事実だ。


「たぶん、それくらい。かなり具合悪そうだったし、まだ良くならないんじゃない?」


 菖蒲がベッドの端に座り直し、いつもよりも低い声で答える。


「でも、変じゃない?」

「変って、何が?」

「青竹さん以外にも医務室に行ったまま戻ってこない人いるし、医務室ってなんかあるんじゃないの?」

「医務室殺人事件とか言い出すつもり?」

「さすがにそんなことはないと思うけどさ、戻って来ないなんておかしいなって」


 淡藤は体を起こす。ブラウスのボタンを留めてから、菖蒲の隣に座る。


 それほど交流のない人間を含めたら、何人になるのか。

 はっきりとわからないが、片手では足りない人間が塔から消えている。そして、その理由が告げられたことはなかった。


 殺人が行われているなどと言うつもりはないが、理由もなく人が消えることに対して疑問を持つなという方がおかしいだろう。だが、疑念を抱くこと自体が罪だというように菖蒲が言った。


「医務室に行った人が誰も帰ってこないなら変だけど、ちゃんと戻ってきてる人の方が多いし。ここじゃ治せない病気にかかって病院に運ばれたとか、そういうこともあるんじゃないの。淡藤は何でも気にしすぎ」

「そうかもしれないけど、なんかおかしいよ」


 淡藤が不満をぶつけるようにつま先で床を蹴ると、菖蒲が淀みかけた部屋の空気を変えるように立ち上がった。


「そのうち戻ってくるって。それより、あれやって」


 菖蒲が机の上からぬいぐるみを手に取り、淡藤に見せる。

 それはシーツで作られた猫で、淡藤が作ったものだ。


「いつもの見せてよ」


 片手に余るサイズの猫がベッドの上にちょこんと置かれる。

 リクエストの内容は、確認せずともわかる。


 淡藤は、両手をぬいぐるみにかざす。

 動け。

 頭の中で強く、強く念じると、猫のぬいぐるみがゆっくりと右手を挙げた。


 それほど器用ではないが、ぬいぐるみは両手両足が動くように作ってある。最初は動かすことができなかったぬいぐるみも、練習を繰り返すことで軽くなら動かすことができるようになった。


 淡藤は細く息を吐いて、猫をじっとみる。

 立て。

 頭の中で紐を付けた操り人形を動かすように猫を動かすと、ぬいぐるみがふわりと浮いて立ち上がる。


 動けとさらに念じ続けると、猫はよろよろと二回ジャンプをしてから、べたりとベッドに倒れ込んだ。


「動かすの、上手くなったよね」


 菖蒲が猫のぬいぐるみを撫でながら言う。


「役に立つとは思えないけどね」

「反省室に送られてまで作ったんだもん。役に立ってるって。あたし、このぬいぐるみ見てるの好きだよ。可愛いし」

「反省室の話はなしで」


 ぬいぐるみを作るための布がもらえず、シーツを材料にした結果、淡藤は反省室に送られた。シーツから生まれたぬいぐるみは取り上げられずにすんだが、あまり良い思い出ではない。


 本一冊の持ち込みと、眠ること、食べることだけが許された窓のない部屋。

 それが反省室だ。


 眠ることにすら飽きてしまうような場所は、淡藤にとって地獄に等しい。何度か閉じ込められているが、もう二度と行きたくない場所になっている。


「ぬいぐるみは残ったし、反省室に送られたかいはあったんじゃない?」


 くすくすと菖蒲が笑う。


「もう黙って」


 ばん、と背中を叩くと、菖蒲の笑い声がぴたりと止まってベッドへ押し倒される。そして、黙ってという言葉通り静かになった菖蒲の唇が淡藤のそれに重なった。


「ちょっと菖蒲」


 淡藤は、唇が離れると同時に文句を言う。


「黙れって言われたから、黙ったんだけど。嫌?」

「やじゃないけど」


 菖蒲の手が頬に触れ、指先が唇を撫でる。

 良いと言ったわけではないが、三度目のキスに唇を塞がれてしまう。すぐに閉じた唇を割って舌先が入り込み、口内を探られる。ブラスのボタンが全て外され、淡藤は菖蒲の背中に手を回した。


 菖蒲の手が太ももを這い、スカートをたくし上げられる。

 唇が離され、流されるようにキスを返すと、コンコンと乾いた音が聞こえた。


「菖蒲。誰か来た」


 扉がノックされる音に、菖蒲の腕を掴む。

 だが、菖蒲は気にすることなく下着に手をかけようとする。


「今、忙しいから」

「続きは後で。早くでなよ」


 淡藤が体の上にいる部屋の主を押して起き上がると、菖蒲がベッドから下りる。そして、渋々といった様子で身なりを整えてから、扉を開けた。


 ぴたり、と菖蒲の動きが止まって背中が強ばる。


 淡藤からは、扉の向こう側にいる人物は見えない。

 だが、感情を露わにすることが滅多にない菖蒲が警戒する相手が誰なのかは予想はできて、外されたボタンに手をかける。


「――蘇芳、何の用?」


 淡藤がボタンを全て留め終えると、菖蒲の固い声が聞こえた。

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