第37話

 菖子と二人、エレベーターに乗り込む。

 小さな箱の中でたわいもない話をしていると、扉が開く。エレベーターを下りると名前を呼ばれ、藤花は足を止めた。


「どこ行くの?」


 顔を見る前に誰のものかわかる声は菫のもので、藤花は行き先を伝える。


「この子、送ってく」


 菫は、菖蒲色の髪をした制服姿の少女が藤花が言う“この子”だとわかっても顔色一つ変えなかった。髪色など気にならないのか、笑顔を菖子に向けている。


「及川です」


 菫の視線に菖子がよそいきの声で言い、ぺこりと頭を下げる。藤花は、菖子の普段見ない大人しいとも言える姿にくすくすと笑いながら目の前の人物を母親だと紹介した。


「及川さん。藤花が安全運転するように見張っててね」


 菫が笑顔を崩さずに告げ、藤花に「夕飯はいるの?」と尋ねる。


「いる。そんなに遅くならないから」

「じゃあ、用意しておくから。人を乗せるんだから、事故には気をつけなさいよ」

「わかってる」


 じゃあね、と手を振って菫と別れて駐車場へ向かう。

 沈む太陽が作り出す夕焼け色に染まった世界は、昼ほど暑くはない。だが、時折吹く風は涼しさの欠片もない生暖かいもので、藤花は眉間に皺を寄せた。


「母親似?」


 菖子が藤花を覗き込むようにして尋ねる。


「よく言われる」

「この前会った妹さんも、藤花に似てる」

「そう? あんまり似てないと思うけど」


 柚葉と似ていると言われることは、珍しいことではない。

 しかし、藤花自身は似ていると思ったことがなかった。


 明るく、人から好まれる妹とは性格が異なるように、顔も異なっている。

 今もそう感じていた。


「似てる」


 菖子が藤花の思いを否定するように断言してから、言葉を続ける。


「でも、私は藤花の方が良いけど」

「どこが良いんだか」

「どこもだよ」


 どこも、と言われるほど長い時間を過ごしたわけではない。前世を含めれば長いと言えるかもしれないが、それは前世に囚われ過ぎていると藤花は思う。だが、向けられる好意は嫌悪すべきものでなく、藤花は菖子の言葉を否定せずに運転席のドアを開けた。


「乗って」


 藤花の言葉に、菖子が助手席に座る。

 エンジンをかけて、アクセルを踏む。


 菖子の家はそう遠くないが、夜に近づいた街は車で溢れかけていた。藤花はゆっくりと車を走らせ、考えていた以上の時間をかけて菖子を家へと送り届ける。


 行きよりも混み合う道にため息をつきながらマンションへ戻ってくると、辺りは暗くなっていた。


 藤花はエレベーターに乗り込み、四階で下りる。

 足早に廊下を歩いて玄関のドアを開けば、にゃあこが待っていた。


「ただいま」


 小さな家族に挨拶をすると、にゃあ、と愛らしい声が返ってくる。藤花はにゃあこを抱き上げて、短い廊下を歩く。リビングへ続く扉を開けてソファーに座ると、待ち構えていたらしい菫の声がキッチンから聞こえてくる。


「さっきの子、どこでたぶらかしてきたの」

「変なこと言わないで。知り合いに頼まれて、勉強教えてるだけだから」


 勉強を教えたことは一度もないが、もっともらしい理由を告げる。


 何の理由もなく藤花と接点がなさそうな高校生が遊びに来ているとわかれば、質問攻めにあうに違いない。そんな面倒なことは御免だと藤花は思う。


「泉野の子に藤花が? あの子の方が頭良いんじゃないの」


 白の上着に、膝よりも長い紺色のスカート。

 菖子が着ていた制服は地元で有名な進学校のもので、菫が当然のように学校名を口にした。しかし、続けて聞こえてきた言葉はからかうようなもので、藤花は菫に文句をぶつける。


「失礼すぎる。高校の勉強くらい教えられるから」

「それなら良いけど、ちゃんと教えてあげなさいよ」


 そう言うと、菫がキッチンから姿を現した。そして、何でもないことのようにさらりと言葉を続ける。


「あと、藤花。あんた、来週からバイトだから。週五で働いておいで」

「えっ?」


 予想もしない決定事項に思わず大きな声を出すと、膝の上からにゃあこが逃げて行く。柔らかな毛を撫でていた手が行き場を失い、藤花はぐしゃぐしゃと髪をかき上げた。


「聞こえなかった? 来週からバイトって」

「いや、聞こえたけど。それ、当たり前みたいに言ってるけどさ、行かなきゃいけないの?」

「行かなきゃいけないの。どうせ暇でしょ。お母さんの友だちがやってるカフェ、突然バイトの子がやめちゃって人手が足りないんだって。短期で良いからって言われてるから、しばらく手伝ってきて」


 菫の声は、有無を言わさぬものだった。

 藤花は、ええー、と情けない声を出してから、無駄だとわかっている抵抗をする。


「接客業なんてやったことない」

「じゃあ、良い経験ができるじゃない」

「良くないし、強引すぎる」

「働かざる者食うべからず、でしょ」


 痛いところを突かれて、藤花は言葉に詰まる。だが、勝手に決められたアルバイトに行きたいとは思えず、息を小さく吸ってから抗議の言葉を口にした。


「貯金あるから、まだ大丈夫だし」

「大丈夫は長く続かないから。まあ、お母さんの顔を立てると思ってしばらく行ってきて。午後だけだし、そんなに長い時間じゃないから」


 決定事項は覆らない。

 おそらく何を言っても、アルバイトをするという未来は変わらないだろう。


 落とし穴に突き落とされたかのようなすっきりとしない気分だが、藤花には逆らうほどの気力もない。


「しばらくって、どれくらいなの?」


 短期という菫の言葉が事実であって欲しいと願いながら問いかけると、曖昧な答えが返ってくる。


「一ヶ月か、二ヶ月くらいじゃない」

「くらいって。決まってないの?」

「詳細はお店で聞いて」

「適当すぎる」

「時給は良いから、稼いで来なさい。場所はここだから」


 菫から、ぺらりとした薄い紙を一枚渡される。

 藤花はそこに書かれた地図を見て、ソファーに倒れ込む。


 場所が良くない。

 菖子が通う泉野高校に近い。


「あー、信じらんない」


 藤花は誰に言うともなく呟くと、地図を折りたたんだ。

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