第36話

 感じが良くない。


 藤花は朝食とも昼食とも言えない食事をとるために、食パンをトースターに突っ込みながら考える。


 実際に会った黒紅と同様に、蘇芳に対する印象も良いものではなかった。蘇芳は電話で話しをしただけだが、前世の仲間というのは歓迎できる人物ではないことが多いように思えてくる。


 菖子もそうだ。

 初めて会った日、彼女はビルの屋上から飛び降りようとしていた。その後の言動も、まともではないと思わせるものが多かった。


 しかし、今はそんな彼女を受けて入れている。認めたくはないが、真っ直ぐに自分に思いをぶつけてくる少女に気持ちが傾いている。夢に見る淡藤の感情に引きずられているにしろ、菖子に対する感情は出会ったばかりの頃とは異なっていた。


 会う回数、話す回数を増やせば、黒紅や蘇芳も同じように受け入れることができるのだろうか。


 藤花はそんなことを考えて、頭を振った。

 鮮やかな髪色と同じ鮮烈な印象。

 二人には、菖子が藤花に残したものと同じものは感じなかった。


「話を聞きたいだけなんだけどな」


 冷蔵庫からオレンジジュースとバターを出しながら、呟く。


 蘇芳の話しぶりからすると、前世での蘇芳と菖蒲の関係は良いものではなかったようだ。電話で話した蘇芳自身も付き合いにくいタイプのようで、菖子との約束がなくても積極的に会いたいと思う人物ではない。ただ、前世の話をもう少し聞きたい。


「無理、だよねえ」


 藤花の独り言と同時にトースターが軽やかな音を鳴らし、食パンが焼けたことを知らせる。


 トーストにバターを塗って皿に置き、ジュースとともにリビングに運ぶ。

 テレビをつけて、ソファーに座る。だが、すぐに立ち上がり、行儀が悪いと思いながらもトーストを片手にベランダへ出た。


 暑い。


 九月の太陽は、真夏と変わらない光を降り注いでいた。

 秋に向かっているとは思えない日差しに目を細める。


 パンを囓って飲み込む。

 時間は確かに進んでいるのに、ベランダから見える景色はいつもと変わらない。変化しているのは、自分の周りだけのように思える。


 この数ヶ月、想定しない出来事が起こりすぎた。

 会社を辞めてしばらくゆっくりとするつもりだったが、気持ちが休まる暇がない。


 藤花は、トーストをすべて胃の中に収めてリビングに戻る。オレンジジュースを一気に飲み干し、食器を洗う。


 部屋に戻ってだらだらと過ごしていると、あっという間に時間が過ぎていく。メッセージの着信を知らせるスマートフォンに呼ばれる。画面を見ると菖子の名前が飛び込んできて、藤花は反射的にスマートフォンの時計を見た。


「学校、終わったんだ」


 夕方と言うべき時間になっていたことに驚きながら、メッセージを確認する。


『蘇芳から連絡あった?』


 蘇芳と会うときには菖子に言う。


 そう約束をしたが、彼女の不安を消すまでに至っていなかったことがわかった。藤花は、すべてではないが今日あったことを文字にして菖子に伝える。


『ちょっと話したけど、たいしたこと聞けなかった』

『連絡あったんだ。今から、藤花の家に行っていい? 会って話したい』


 待つことなく画面に表示されたメッセージから『いい』という返事以外は許されない空気を感じて、無駄な抵抗をするよりも菖子の提案を受け入れることに決める。


『迎えに行こうか?』

『実はもう近くにいる。藤花、会いに行っても良いって言ったし』

『今日だとは思わなかった』


 藤花が送ったメッセージに返事は来ない。かわりに十分もしないうちにインターホンが鳴り、菖子と菖蒲、二人の言葉を思い出す。


 ――特別な時だけ髪を結ぶ。


 モニターに映った菖子は、長い髪を一つに結んでいた。

 メッセージは何気なく送られてきたように見えたが、そうではない。髪を結ばなければならないほど、ここに来ることが菖子にとって大切なことなのだと藤花は改めて気がつく。


「開けるね」


 藤花はロックされているエントランスの自動ドアを開け、制服姿の菖子を招き入れる。


「久しぶり」


 玄関までやってきた菖子に短く告げると、同じ言葉が返される。


「久しぶり」

「ごめんね。とりあえず、部屋で待ってて」


 菖子を遠ざけていた期間を埋めるように謝罪の言葉を口にして、部屋の扉を開ける。藤花は菖子が中に入ったことを確認すると、キッチンへ向かった。冷蔵庫からアイスコーヒーとオレンジジュースを出してグラスに注ぎ、部屋へ運ぶ。そして、菖子の前にアイスコーヒーが入ったグラスを置いた。


「学校、真面目に行ってる?」


 藤花はベッドを背に、向かい側に座った菖子に問いかける。


「行ってる」

「村瀬さんは元気?」

「元気」


 久々に顔を見た菖子に何を話せばいいかわからず、藤花は頭に浮かんだ言葉をただ口にする。しかし、言葉はすぐにつきて沈黙が訪れる。


 藤花は、菖子を見た。

 赤みがかった紫色の髪は鮮やかで、最後に会った日と変わらない。


「髪、結んでる」


 静かになった部屋に藤花の声が響く。


「うん。今日は久しぶりに会うから」


 自分を呼びもしない藤花に会いに来る。

 それは、髪を結ばなければならないほど勇気がいることなのかもしれない。


 藤花は、年下の少女にばかり負担を強いている自分に何度目かわからない罪悪感を覚える。


「似合ってる」


 短く告げて、グラスを手に取る。藤花は、罪の意識を飲み込むようにオレンジジュースを一口飲む。


「自分でもそう思う」


 菖子が小さく笑いながら言う。そして、この部屋へやってきた目的の一つであろう言葉を口にした。


「ねえ、藤花。蘇芳のことだけど。あたしも淡藤に来たメッセージ見たい。なんて言ってきたの?」


 聞こえてきた声に、藤花は長い髪をかき上げた。

 菖子に伏せていた事実を告げなければならない。


 小さく息を吸い、長く吐き出す。


 オレンジジュースをもう一口飲んでから、藤花は菖子を見た。


「この前、言わなかったけど……。実は、私のアカウントの方に連絡あったんだよね」

「え、淡藤のアカウントじゃなくて、藤花のポエムアカウントに連絡あったってこと?」


 隠していた事実ではなく、蘇芳から連絡があったアカウントが藤花のものだったことに菖子が驚く。


 藤花は連絡があったアカウントを言わずにいたことを追求しない菖子にほっとしながらも、彼女の失礼な物言いに顔を顰めた。


「ポエムは余計だけど、そう」

「なにそれ、気持ち悪い」

「だよねえ」


 菖子の言うとおり、蘇芳の行動はあまり気持ちの良いものではない。人に不信感を与えるものだ。藤花も前世の仲間だと言われなければ、メッセージを破棄していた。


「どうやって探して連絡してきたの」


 藤花は当然の疑問を口にした菖子に、蘇芳がアカウントを特定した方法を伝える。


「わかったけど、気持ち悪い。なんで淡藤のアカウントじゃなくて、藤花の方に連絡してくるの」


 問いかけるというよりは、独り言のように菖子が言った。

 結ばれた髪に、嘘を言うべきではないと藤花は思う。


「二人で会いたいって言われてる。――会うつもりないけど」


 偽りのない言葉を告げる。


「二人で会いたいのって、あたしとは仲が良くなかったから?」

「理由はわかんない」


 蘇芳の真意を予想することはできる。

 菖蒲と蘇芳の折り合いが悪かった。

 予想するなら、それも理由として考えられる。


 だが、予想は予想でしかなく、蘇芳が二人で会うことにこだわる本当の理由はわからない。


「そうだ。蘇芳って、性格きつかった?」


 藤花は知りようのない真実を探ることはせずに、知りたかったことの一つを尋ねる。


「うーん。きついってこともなかったと思うけど、そんなに夢に出てきてないから断言はできないかな。蘇芳、なんか嫌なことでも言ってきたの?」

「そうじゃないけど。ちょっと苦手だなって」

「そのまま苦手なままでいて」


 冗談ではなく、本気であろう声音で言って菖子がアイスコーヒーを飲んだ。


 それから、大したことは話さなかった。

 近況を報告し合って会わなかった時間を埋めると、グラスが空になった。藤花がもう一杯何か飲むかと尋ねると、いらないという言葉が返ってくる。


「そろそろ帰る」


 そう言って、菖子が立ち上がる。

 藤花が時計を見ると、彼女が来てから一時間も経っていなかった。


「もう帰るの?」

「うん。今日は、顔見たかっただけだから」


 菖子があっさりと言って、藤花をじっと見る。

 そして、口元を緩めながら言った。


「一応、残念そうな顔をしてくれるんだ」

「……そういう顔してる?」

「あたしにはそう見える」

「嬉しそうだね」

「藤花がまた会いたいって言ってくれたら、もっと嬉しそうな顔するんだけど」


 菖子が子どものように素直に笑う。


「言ってくれないの?」

「蘇芳のことどうするか決めたいし、菖子は来るなって言っても来るんでしょ」

「うん」


 楽しそうな声が聞こえて、藤花はくしゃくしゃと髪をかき上げた。


「送ってくから」


 菖子に背を向けて、扉を開ける。藤花が廊下に出ようとすると、後ろからTシャツの裾を引っ張られた。


「また来る」


 小さな声が藤花の背中にぶつかる。


「いつでもどうぞ」


 藤花は振り向かずに答えて、玄関へ向かった。

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