第35話

『電話か何かで話をしてから、会うことにできませんか?』


 キーボードを打って、短いメッセージを送る。

 当然、返事はすぐには来ない。


 これまでのメッセージのやり取りを考えれば、返事は期待できないのかもしれない。だが、菖蒲には近づきすぎない方が良いという思わせぶりなメッセージを送ってくるほど、藤花と会うことにこだわっている。


 それほどの執着があるならば、つけいる隙があるのではないかと藤花は思う。


 実際に会う会わないは別として、会うことをちらつかせれば電話くらいはできるのではないか――。


 わずかではあるが、そんな期待を持ってメッセージを送った。しかし、現実はそう上手くはいかない。

 一時間待っても、バスルームから戻ってきても蘇芳からのメッセージは届いていなかった。


「どうにかならないかな」


 電気を消して寝転がったベッドの上、藤花は呟く。

 スマートフォンを手に取ってメッセージを確認するが、期待しているものは見つからない。


 菖子との約束を守る。

 今まで上手くいかないこともあったが、藤花はそういう当たり前のことをしたいと思う。


 枕元にスマートフォンを置いて、目を閉じる。

 瞼の裏に張り付いた闇を閉じ込めるように、藤花は両手で目を押さえた。夜空よりも暗い闇の中、せめて夢を見られたらと願う。


 さして眠くもなかったはずが、霧がかかるように意識が睡魔に覆われていく。


 夢が見たい。


 強く思いながら、藤花は漂う闇に身を任せる。

 だが、窓から入り込む光に叩き起きされた朝、頭の中に夢の記憶はなかった。


「思い通りにはならないか」


 誰に言うともなく呟いてスマートフォンをチェックするが、蘇芳からの返事はない。


 ベッドの上から時計を見れば、午前十時を回っている。

 この時間になっても昨日の返事がないということは、電話で話すつもりはないということだろう。


 そんなものだ。

 世の中、思い通りにいかないことの方が多い。


 藤花は、自分に言い聞かせるように「わかっている」と心の中で唱える。それでも諦めきれない指先が、蘇芳に宛てたメッセージを綴る。


『蘇芳さんは、髪を赤く染めていたんですか?』


 これくらいなら答えてくれるだろうと、メッセージを送信する。電話が無理でも、文字でなら何かを知ることができるかもしれないと藤花は足掻く。


 すると、思いが通じたのかスマートフォンが着信音を鳴らす。視線を落とせば、画面には蘇芳からのメッセージが表示されていた。


『夢を見たんですか?』


 昨日のやり取りで、藤花が蘇芳のことを覚えていないことは伝わっているはずだ。藤花が夢を見たと思ったのは、そのせいなのかもしれない。


『違います』

『じゃあ、菖蒲さんですか?』


 短いメッセージ。

 それは、ただの文字でしかない。

 しかし、はっきりと冷たさを感じさせるものだった。

 藤花はごくりと唾を飲み込み、返事を送る。


『そうです。菖蒲から、蘇芳さんのことを聞きました』

『今、時間ありますか?』


 蘇芳から送られてくるメッセージには、温かさが感じられない。居心地を悪くさせるようなひんやりとする文章が綴られている。それでも取り付く島もなかった昨日までのメッセージとは違い、話をすることに前向きな言葉が書かれていた。


 藤花は、蘇芳の気が変わってしまわないように慌てて返信をする。


『あります』

『今なら少し話せますから、かけてください』


 素っ気ない文書の後に、数字が書かれている。


 おそらく、菖蒲の名前を出したことが蘇芳の気持ちを変えた。だが、菖蒲と書くだけで頑なだった蘇芳の態度を変えることができた理由はわからない。


 何故、態度が変わったのか。


 気にはなるが、ゆっくりと考えている時間はなかった。

 藤花は、蘇芳を逃がさないように手に入れた番号に電話をかける。


 呼び出し音が一回。

 すぐに電話が繋がり、「もしもし」という落ち着いた声が聞こえてくる。


「初めまして。淡藤です」


 蘇芳が名乗る前に、前世の名前を告げる。


「本当は会って話したかったんですが……」

「すみません。我が儘を聞いてもらって」

「いえ、こちらもすぐに会いたいと我が儘を言っていますから、お互い様です。とりあえず、淡藤と呼んでもいいですか? 前世ではお互い呼び捨てだったので、私のことも呼び捨てにしてください」


 菖子の「淡藤と仲が良かった」という言葉に間違いがないことが、蘇芳の言葉からわかる。


 だが、藤花には記憶がない。顔もわからず、今日初めて声を聞いた彼女を“蘇芳”と呼ぶことに抵抗がある。それでも、蘇芳さんと呼ばせてくれと言って余計な時間を使うようなことはしない。


「わかりました」


 素直に提案を受け入れると、ほんの少し柔らかくなった声が聞こえてくる。


「それで髪の色ですが、赤く染めていました。他に聞きたいことはありますか?」

「あの、蘇芳と私って、どれくらい親しかったんですか?」

「そうですね。かなり親しかったですよ。お互いの部屋を行き来していましたし、よく一緒に行動してました」

「そうなんですか。気がついていると思いますが、私、まだ蘇芳が夢に出てきてなくて」

「だと思いました。蘇芳も、淡藤と同じように塔から逃げ出したいと思っていたから気が合ってよく話してましたよ」

「本当に仲が良かったんですね」


 蘇芳の話を無条件に信じるつもりはないが、菖子からも二人の仲が良かったように見えていたのだから嘘は言っていないのだろうと藤花は思う。


 となると、菖子から聞いた菖蒲との仲というのも聞いてみたくなる。しかし、蘇芳は菖蒲の名前を出しただけで態度を変えた。ここで菖蒲の名前を出せば、話が打ち切られてしまう可能性もある。


 藤花はカーテンを開けて、手をぎゅっと握る。

 電話を切らないでくれと祈りながら、菖蒲の名を口にした。


「――菖蒲とは仲良くなかったんですか?」


 恐る恐る口にした名前に、電話の向こうの空気が変わる。

 少しの間があってから、これまでよりも少し低い声が聞こえてくる。


「話をするくらいで、そんなに親しくはなかったですね。菖蒲とは気が合わなかったというか。……向こうは、塔から逃げ出したいというような人間が気に入らなかったのかもしれません」


 矛盾している、と藤花は思う。

 塔から逃げ出したい。

 そんなことが気が合わない理由になっているなら、菖蒲は淡藤とも親しくなっていないはずだ。


 それに、菖蒲は塔から出ようとしている淡藤を面白いと言っていた。それを考えれば、塔から逃げ出したいということだけで蘇芳を遠ざけるとは思いにくい。


「でも、菖蒲と親しい淡藤も、塔から脱出したいって言ってたみたいですけど」


 藤花は蘇芳の言葉を打ち消すが、すぐにスマートフォンから「だからですよ」と冷淡な声が聞こえてきた。


「淡藤と菖蒲は、本当は合わないタイプなんです」


 記憶にある淡藤と菖蒲は、恋人同士であり、そう呼んでもおかしくない雰囲気を持っていた。夢に見た範囲では、合わないタイプとは言えない。


「夢ではそんな感じに見えませんでした」


 藤花はきっぱりと言い切るが、それに対する返事はない。かわりに、まったく違った方向へ会話の舵が切られる。


「そう言えば、菖蒲と親しくしているみたいですが……。今も前世と変わらない付き合いを?」

「どういう意味ですか?」

「あの頃と同じで、体の関係でもあるのかと思って」


 感情のない声に、藤花は菖子の「蘇芳とそれほど仲が良くなかった」という言葉が間違っていたことを知る。

 蘇芳から見た菖蒲との関係を正しく言い表すなら、「仲が悪かった」を選ぶべきだろう。


「で、どうなんですか? 淡藤」

「――あったとしても、別に問題ないと思いますが」


 ない、と現状を伝えることもできる。

 しかし、詰問するような強い口調で話す蘇芳に、わざわざ菖子との関係を答えたいとは思えなかった。


「そうですね。あとは会ったときに話しましょう」


 最初に聞いた声よりも温度の低い声が聞こえ、電話が切られる。だが、数分も経たないうちに蘇芳からメッセージが届いた。


『会いたくなったら、連絡をください』


 待っています、と添えられた文章に息を吐く。

 藤花は返事を送らずにスマートフォンをベッドの上へ置くと、立ち上がった。

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