第41話
菖子は、暇な店なりに働く店員を凝視するほど非常識ではなかったらしい。藤花に話しかけてくることもなく、大人しくケーキを食べ、コーヒーを飲んで翠と帰っていった。
繁盛という言葉からほど遠いカフェは、平穏に時間が進んでいく。美芳と二人きりになると時間を持て余すが、居心地の悪さに耐えれば閉店まではあっという間だった。
「片付けはいいですよ」
七時になると同時に、美芳が言う。
藤花には、急いで帰らなければならない理由はない。前日と同じように掃除をすることくらいなら、いくらでもできる。だが、客が来ないとわかっている店で美芳と二人きりになることは避けたかった。
「じゃあ、お言葉に甘えて」
アルバイトは七時までという約束は果たしている。
それでも、悪いと思いながら藤花は家へと帰る。
何かがあるというわけではないが、何かがあったら面倒だと思う。穏便に日々を過ごせるならば、その方がいい。
藤花はにゃあことともにリビングへ行き、夕飯を食べる。
変わり映えのしないテレビを横目に部屋へ戻り、ノートパソコンからSNSを調べてみても何も変わらない。欲しい情報はなく、関係のない情報ばかりが渦を巻き画面を埋め尽くしている。
藤花は椅子に座ったままスマートフォンを手に取り、チャットアプリを立ち上げた。
メッセージを送る相手は、もちろん菖子だ。
美芳のことを伝えなければならない。
しかし、文字を打ち込む前にスマートフォンが鳴り、菖子の名前が表示される。電話に出ると弾んだ声が聞こえてきて、藤花はくすりと笑う。
「話したいことがあったから、丁度良かった」
メッセージを送ろうとしていたことを告げると、菖子が様子を伺うような少し低い声を出す。
「何かあった?」
「何かってほどのことでもないけど。菖子の話が終わってからでいいよ」
「先に藤花が話して。あたしのはどうでもいい話だし」
急かすように言われて、藤花は息を吸う。
蘇芳と会うときには菖子に伝える。
その約束を果たすつもりではあったが、伝える前に蘇芳と出会ってしまった。それは、不可抗力としか言い様がない。だが、菖子がどう思うかわからなかった。
少しばかり気が重いが、藤花はゆっくりと口を開く。
「蘇芳に会った。と言うか、蘇芳がいた」
昨日は話す気力もなく眠ってしまった。
しかし、菖子が店へやってきた今日は話さないわけにはいかない。
「会いに行ったんじゃなくて、いたの? どういうこと?」
「カフェの店長。あの人が蘇芳だった」
「え、バイト先の?」
「そう。昨日は疲れてて連絡できなかったんだけど、本人の口から蘇芳だって聞いた」
「昨日聞きたかったけど、今日教えてくれたからいい。でも、本当に蘇芳なの?」
「たぶん、嘘はついてない」
そう言いながらも、嘘みたいな話だと藤花は思う。菖子が信じられなくても無理はない。
「菖子。あの店、今日初めて来たんじゃないよね?」
「うん。時々寄ってる」
「今まで何か感じなかった?」
会えば、前世で繋がりがあるとわかる。
そんなことがあるわけがないことは、あの店で初めて会った美芳に何も感じなかった藤花自身が一番よく知っている。それでも、もしかしたらと思わずにはいられない。
「何かって言われても。注文するときぐらいしか話してないし、本当に前世の仲間だったとしてもわかんないよ。と言うか、なんで前世の話になったの?」
菖子がもっともな疑問を口にする。
まともな大人なら、前世で会ったことがあるなどということを軽々しく口にしたりはしない。しかし、美芳は口にした。藤花は、その経緯をかいつまんで話す。もちろん、キスされそうになったことは伏せておく。
「本人は偶然だって言ってたけど」
藤花は、最後に美芳の言葉を付け加えた。
「偶然だって信じてるの?」
「嘘だと思ってる」
美芳の言動を考えれば、彼女の言葉は無条件に信じられるものではない。カフェの店長として働いている姿におかしなところはないが、仕事から離れるとマーカーで印を付けたように怪しげな部分だけが目立つ。
「あたしのことは話した?」
「話してないけど、髪の色で気がついたっぽいね」
「そっか。この髪、間違ってなかったんだ。蘇芳に気がつかれても嬉しくないけど」
菖子の長い髪が藤花の頭に浮かぶ。
彼女の髪は、淡藤が似合うと言った菖蒲色に染められている。
それは前世を知らせるサインで、生まれ変わった淡藤に気づいてもらうためのものだ。藤花はその髪を見ても前世を思い出すことはなかったが、美芳に対しては目印の役目を果たしたのだから、菖子の考えはそれほど的外れなものではなかったと言える。
「藤花」
静かに名前を呼ばれる。
「なに?」
「話してくれてありがとう」
「約束だしね」
正しく約束を果たしたわけではないが、今できることはした。
「もう少し詳しく話したいし、日曜日空いてる? 会って話したいんだけど」
菖子に問いかける。
前世の話ができて楽しかったで終われば良かったが、美芳にはそんなつもりが毛頭ないように見えた。
アルバイトは、菫が間に入っている以上簡単に辞めることができない。ならば、美芳という人間の扱い方を考えておくべきだ。
「空いてなくても開ける」
「用事があるなら別の日でもいいよ」
「大丈夫。そのかわり、藤花の部屋に行きたい」
日曜は家族がいる。
少し面倒だと藤花は思う。
「別の場所は?」
「藤花の部屋がいい」
揺るぎない声が聞こえて、藤花は踏まれた小枝のようにぽきりと折れる。
「わかった」
抵抗をするなどという無駄なことを早々に諦めると、スマートフォンの向こうから明るい声が聞こえてくる。
「そうだ。働く藤花もいいね。またお店に行ってもいい?」
「見せ物じゃないから遠慮して」
「安心して。毎日は行かないから」
また行くという宣言に近い言葉に、藤花ははあと息を吐き出す。
労働というものは思い通りにいかないものだ。
客は追い返せないし、菖子は言うことを聞かない。
藤花は、近いうちに店にやってくるであろう客に「お喋りはできないからね」と念を押した。
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