第29話

 屋上で見た景色によく似ていると藤花は思う。

 セーラー服の向こうに見える街と、風になびく紺色のスカーフ。整ってはいるが幼さの残る顔をした少女は、黒い瞳で藤花を見ている。


 ただ、屋上で命を手放そうとしていた菖子は今、藤花を求めていた。背筋はぴんっと伸びているが、体のどこかを押せば簡単に倒れてしまいそうに見える。


「優しくって、どうすればいいの?」


 藤花は、菖子に問いかける。

 手を差し伸べることは、簡単だ。

 今すぐ彼女を抱きしめることもできる。

 だが、菖子がそれを望んでいるとは思えなかった。


 考えるまでもなく、彼女が欲しいものは藤花の心だ。しかし、今すぐ彼女が持つ想いと同じ想いを返すことはできない。


 ならば、藤花にできることは何なのか。


 できる限り望みを叶えたいと考えてはいるが、淡藤が菖蒲を愛したように愛を返せないのなら、藤花は何を菖子に与えればいいのかわからなかった。


「約束守って」


 短く言って、菖子が藤花に近づく。


「約束?」

「前世の夢が見られたら、キスしてくれるって言ったよね」


 キスをしたあの日、菖子は夢を見たらキスをしてくれと言った。だが、藤花ははっきりと「する」とは言っていない。曖昧に返事をしただけだ。


「言ったら会ってくれないと思って昨日は言わなかったけど、あたし、約束忘れてないから」


 いつもの藤花ならそんな約束はしていないと答えただろうが、今はそんな雰囲気ではなかった。


 優しくしてくれと言われ、どうして欲しいのかと尋ねたのは藤花だ。提示された願いを無下に断れるほど、酷薄な人間ではない。そして、菖子の唇に触れることに躊躇う気持ちもなくなってきていた。


 藤花は、振り返る。

 高台を見回して、人影がないことを確かめる。しかし、夏休み中の公園はいつ人が来てもおかしくはない。


「誰か来たら困るし、あとからでもいい?」


 交わした覚えのない約束を果たすことに異存はないが、タイミングは選びたかった。


「ずるいって言わないの? あたし、藤花が断れないって知ってて言ってるのに」

「言わない」


 あの日、菖子の気持ちを利用するようにキスをした藤花に“ずるい”という資格はない。むしろ、ずるいことをしようとする菖子にほっとする。


 藤花の全てを受け入れようとしている菖子を見ていると、自分が酷い人間に思えてしかたがない。交換条件のように何かを要求された方が気が楽だった。


「約束は守るから」


 藤花は、菖子の手を取る。

 黒目がちな目に見つめられ、視線が絡み合う。

 じっとりとした空気が風となって、菖蒲色の髪をなびかせる。


「わかった」


 真夏日の太陽とは対照的な涼しげな声で菖子が言い、藤花の隣に腰掛けた。繋がれたままの手が強く握り返される。


「ねえ。夢を見られたのって、キスしたからだよね?」


 何か思い出すきっかけ。


 藤花は、そう言ってあのとき菖子と口づけを交わした。

 そして、夢を見た。

 だが、夢を見たきっかけが菖子だったのか、黒紅だったのかは知りようがない。


「どうかな。菖子はどう思う?」


 藤花は答えを投げ出し、問いかける。


「あたしにわかるわけないじゃん」


 菖子が至極当然のことを言い、空を見上げた。


「藤花」

「なに?」

「黒紅に会わないでって言っても、会うんだよね?」


 雲に話しかけるように菖子が言う。


「――会いたいと思ってる」


 心の奥底に菖子が隠していた気持ちは聞いた。前世の仲間に会って欲しくないとこれまで言わずにいたのは、いくつかの不安があったからだということもわかる。それでも翠を引き合わせたのは、それだけ彼女を信用しているからだろう。


 しかし、黒紅は正体不明の人間だ。

 藤花自身も黒紅がどのような人物なのかわからない。そういった人間に会って欲しくないという菖子の気持ちは理解できるが、その気持ちを受け入れるかどうかは別問題だ。


 自分ではない自分のことをもっと知りたいと思っている。夢の中にしか存在しない前世を確かなものにしたいと考えている。藤花は、それを叶えることができるチャンスを逃したくはなかった。


「そういうところ、淡藤だなって思う。淡藤も脱走宣言するほど、意見をかえないし」


 ふう、と息を吐き出して、菖子が藤花を見た。


「今の私は、淡藤じゃないから」

「知ってる。でも、淡藤と同じで意見は変えないんでしょ。あたしだけでいいって言ってくれたらいいのに」

「会っても話を聞くだけだし、何もないよ」


 大体、何かあっても困る。相手がどのような人物かわからないが、菖子が考えるようなことが起こることは藤花も想定していない。会って、話して、帰る。藤花がしたいことはそれだけで、おそらく相手もそれだけを考えているはずだ。


 しかし、菖子はそうは思っていないらしく眉根を寄せ、不安そうな顔をしていた。

 藤花は握られた手に力を込めて、「大丈夫だから」と告げる。だが、繋がっていた手が離れた。


「会って欲しくないっていうのは言ってみただけ。どうせ、藤花は頼んでも会うって言うと思ってたし。会えば良いと思う。でも、あたしも連れてって」

「それ、駄目だって言ったら諦めるつもりあるの?」

「駄目だって言ったら、藤花の家の前で張り込みする」


 菖子が強く言って、口元に笑みを浮かべる。

 淡藤は意思が強いと言っていたが、菖子も負けず劣らず意見を曲げない。藤花は、六月の屋上を思い出しながら呆れたように口を開いた。


「そういうのストーカーって言うの、知ってる?」

「知ってる。だから、屋上で待ってたみたいに、藤花の家の前にずっといるから」


 にこにこと笑う菖子は、欲しいおもちゃをどうにかして手に入れようとする子どものようで、藤花はため息が出た。誕生日が来るまで我慢しなさいだとか、サンタクロースにお願いしなさいだとか、そういった言葉で誤魔化されるような歳ではない少女を相手に意見を戦わせるのは骨が折れる。


「……連れてくって約束するから、それやめてくれる?」


 藤花は、早々に菖子を説得することを投げ出す。


「じゃあ、会う日が決まったら教えて」

「連絡する」


 仕方がないと約束をすると、菖子も仕方がないといった風に頷いた。互いが納得する結果にはならなかったが、二人で黒紅に会いに行くという落としどころを見つけて、藤花は立ち上がる。


 高台からの景色に、前世を振り返る。

 塔の窓から見た外は、夜の闇に穴をあけるように雪が降っていた。景色は暗闇に塗り潰され、何も見えなかった。


 過去とも未来ともわからない前世は、どんな世界なのか。

 藤花は知りたかった。


「そろそろ戻ろうか」


 今日の目的を果たした藤花は、ベンチに腰掛けている少女を見る。


「来たばっかりじゃん。もう少しいようよ」


 菖子が足を投げ出し、動かないという意思を示した。藤花は仕方がないとその願いを聞き入れ、たわいもない話をして過ごす。だが、いつまでも高台で時間を潰し続けるわけにもいかず、藤花は話の切れ目を狙って夜景が見たいという菖子の腕を引っ張って駐車場へ向かった。


 ぽつりぽつりと止まっている車の中から、乗り慣れた一台を見つけてドアを開ける。熱せられた空気が這うように外へ出てきて、目を細める。車内に乗り込んでエンジンをかけると、助手席に座った菖子に脇腹をつつかれた。


「忘れてないよね?」


 何かは口にしなかったが、何を指しているのかは言われずともわかる。


「忘れるほど時間経ってないしね」


 藤花は、バックミラーを見る。数台止まっている車に誰か乗っていないか確かめようとしたが、菖子にTシャツの裾を掴まれてバランスを崩す。よろりと悪戯をした主の方へと体が傾き、菖子の顔が近づく。


 体を支えようと助手席に手を付くと、あっ、と言う間もなく距離を詰められた。次の瞬間、熱と熱がぶつかるように唇を奪われる。そして、目を閉じる時間もないまま、唇が首筋に押しつけられた。


 熱い。


 藤花は柔らかな唇から流れ込む体温に菖蒲の姿を思い出し、菖子の肩を押す。すると、抵抗することなく唇が小さな音を立てて離れた。


「いつか藤花の特別になれるかな」


 耳元で囁かれ、菖子が触れた部分ががどくんと脈打つ。

 自分だけを求める声に、心地の良さを感じる。

 他の誰でもない藤花を選び続ける菖子は、好ましい存在として心の中に入り込んでいた。


 藤花には人にはない力がある。多くの人が持っていないその力は、幼い藤花に羨望の眼差しを与えた。だが、年齢を重ねるごとにその能力は否定され、存在しないものにされ、排除された。藤花に与えられた称号は“嘘つき”で、大人になる前に力を隠すことを覚えた。


 だからこそ、認めてもらいたいと強く思う。

 認められなかった過去はいらない。

 人混みに紛れるように生きていくことは、もう終わりにしたかった。


 藤花は、代わりのない存在になりたくて会社を辞めたことを思い出す。

 私である必要があること。

 それを満たしてくれるなら、仕事ではなく菖子であってもかまわないとすら思い始めている。しかし、彼女が本当に求めているのは藤花ではなく淡藤だ。


「私が淡藤じゃなくても、そう思う?」


 藤花が確かめるように聞くと、菖子が助手席の背もたれに体を預けた。


「そういう仮定って無意味じゃない? 前世があったから藤花に興味を持って、淡藤がいたから藤花を好きになったんだもん。藤花だって、前世がなかったらあたしに興味持たなかったでしょ」

「そうかもしれないけど」


 ハンドルにもたれかかり、藤花は眉間に皺を寄せる。


「もちろん、藤花のことも好きだよ」


 淡藤がいて藤花がいる。

 そんなことはわかっているが、菖子の言葉がすんなりと頭の中に入っていかない。


 藤花だけが好きだ。


 そう言ってくれたら、菖子を特別な人だと思えるのだろうか。

 わからない、と藤花は思う。


「藤花、約束。キスして」


 Tシャツの裾を引っ張られる。


「さっきした」

「あれは藤花からじゃないからノーカン」

「そういうシステムなの?」

「知らなかった?」

「今、初めて知った」


 自分の中にいるであろう淡藤と折り合いが付かないまま、吸い寄せられるように唇を合わせる。

 薄く開かれた唇に舌先で触れて、藤花は我に返る。


 近づけた体を離して、小さく息を吐く。


 当たり前のようにキスをして、当たり前のように深く触れようとしていた。それは頭の片隅に眠っている淡藤に操られているようで、自分を見失っているように感じる。


「藤花」


 熱のこもった声で呼ばれて、フロントガラスの向こうを見た。

 油断をすると、菖子にもっと触れてしまいそうで怖い。


「車、出すよ」


 藤花は静かに言って、アクセルを踏んだ。

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